軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 お前は迷惑なんかじゃない

殿下へ——十年間、ありがとうございました。どうかお元気で。フラウ

机の上に残されていたのは、それだけだった。ありがとうと、お元気で。紙の大半は、白いままだった。

俺はフラウの旧官舎に立っていた。きれいに片づけられた部屋。埃一つない。寝台のシーツは畳まれ、棚は空で、窓は閉じられている。

生活の匂いがしない部屋だった。十年も住んでいたはずなのに、最初から誰もいなかったみたいに何も残っていない。

恨み言でもなく、皮肉でもなく。

ありがとうございました。お元気で。

紙を持つ指先が、少し震えていることに気づいた。怒っているのではない。何に震えているのか、自分でもわからなかった。

机の引き出しを開けた。一つだけ、中に帳面が残されていた。

業務日誌。

表紙に「筆頭聖女執務記録」と書いてある。フラウの字だ。均整のとれた、読みやすい字。十年分の記録が、この一冊に詰まっている。

開いた。

ある頁が目に留まった。一年前の春。「瘴気の異常増加。三日間連続で結界修復。体調不良。巡回日程変更せず」。行間が、他の頁より狭い。急いで書いたのだろう。

俺はこの三日間、何をしていた。

——社交会で、踊っていた。

ローザと出会ったあの社交会の少し前だ。大広間で貴族たちと杯を交わしている裏で、フラウは一人で結界を張り直していた。体調が悪いのに、巡回の日程すら変えなかった。

そんな頁が、何十もあった。徹夜の浄化。体調不良でも休まない巡回。俺の行事の裏で、いつも一人で。

最後の頁を開いた。

解任当日の記録。

「本日付で筆頭聖女を辞任。引き継ぎ書(三百頁)を提出。神鏡テストの実施を上級神官に進言。却下される」

進言していた。

神鏡テストを、と。あの日、フラウは言っていたのだ。握りつぶされたのだ。そして俺は、それを知らなかった。

最後の最後まで、責任を果たそうとしていたのか。

日誌を閉じた。

窓の外で、瘴気の霧が王都の通りを這っている。第二層が弱っている。街路の花が枯れ始めている。あの霧は、前はなかった。フラウがいた頃は——。

「俺は、何をしたんだ」

誰もいない部屋に、声が落ちた。

メモを、もう一度見た。

十年間、ありがとうございました。

なぜ恨まないんだ。なぜ怒らないんだ。怒ってくれた方が、まだ楽だった。

辺境の朝は、いつもと同じように来た。

ルーシェに頬を突かれて起きた。シロが枕元でミルクを待っている。窓の外は曇りで、空気が少し湿っている。

いつもと同じ朝。

なのに、胸の奥に何かがわだかまっていた。

昨夜からだ。殿下が来るという知らせを聞いてから、ずっと。

シロにミルクをやりながら考えていた。

ここにいていいのだろうか。

ディートリヒさんは勅使を追い返してくれた。ルーシェは毎日「ここにいて」と言ってくれる。村の人たちは嘆願書まで書いてくれた。

でも、それは——。

私が元筆頭聖女だからではないのか。根源浄化ができるから。結界の知識があるから。いなくなると不便だから。だから「いてほしい」と言ってくれているだけで。

ディートリヒさんの優しさも。茶葉も、花も、外套も、髪飾りも。

筆頭聖女としての私に対する、丁重な扱いなのではないか。

肩書きを外した私に、価値はあるのか。

シロがミルクを飲み終えて、顔を上げた。口の周りが白い。鼻先で私の手を突いた。

「……ごめんね。今日はちょっと」

ちょっと何なのか、自分でもわからなかった。

昼過ぎ、回廊でディートリヒさんとすれ違った。

いつもの花が机にあった。今日は白い花。少しだけ茎が曲がっていて、完璧ではない一輪。

「ディートリヒさん」

呼び止めたのは自分なのに、言葉が出てこなかった。

「何だ」

「あの……」

言うべきではないのかもしれない。でも、言わないと壊れそうだった。何がとは言えないけれど、胸の奥のわだかまりが、もう一日持たない気がした。

「迷惑を、かけているのではないかと思って」

声が小さかった。

「勅使を追い返していただいたり、村の人たちに嘆願書を書かせてしまったり。殿下まで来ることになって。全部私がここにいるせいで——」

「お前は迷惑なんかじゃない」

声が、大きかった。

ディートリヒさんが声を荒げたのは、初めてだった。回廊の石壁に反響して、余計に大きく聞こえた。

驚いて顔を上げた。

ディートリヒさんの目が、まっすぐこちらを見ていた。翡翠色の瞳に、怒りがあると思った。でも、違った。怒りではなかった。

もっと深い場所にあるもの。

——怖がっている。

この人は、私がいなくなることを怖がっている。

「お前が……」

続きを言いかけて、ディートリヒさんは口を閉じた。奥歯を噛み締めるように顎が動いた。拳が、外套の下で握られている。

「お前がいなくなったら困ると言っただろう」

声が低く戻っていた。でも、さっきの一瞬で見えたものは消えなかった。

「……はい」

頷いた。

何と返せばいいのかわからなかった。ただ、胸の奥のわだかまりが——消えたわけではないけれど、形が変わった。冷たい塊が、少しだけ温かくなった気がした。

夕方。

シロを抱いて裏庭にいると、ルーシェが走ってきた。

「フラウ。馬車が見えた」

東の街道から、紋章旗を掲げた馬車が近づいてくる。王都の紋章だ。護衛の騎士が六名。前回の勅使より規模が大きい。

来た。

足が、少しだけ竦んだ。

気づくと、ディートリヒさんが隣に立っていた。いつの間に来たのかわからない。

何も言わず、私の前に一歩出た。

背中が見えた。広い背中だ。外套の革の匂いがかすかにする。あの日、帰り道で貸してもらった外套と同じ匂い。

「……俺の後ろにいろ」

振り向かずに言った。

低い声だった。さっき回廊で荒げた声とは違う。静かで、固くて、何かを決めた人間の声。

馬車が、石畳の上で止まった。

扉が開く。

金の髪が、夕日に光った。