作品タイトル不明
夏の休暇
第33話 夏の休暇
「今年の夏は、会社を長期休暇にする。」
社長のその一言で、工場の空気が凍りついた。
静まり返る作業場。
かき混ぜるロウの音だけが、ポコ、ポコとやけに大きく響く。
――あの社長が?
仕事を何よりも優先し、寝る間も惜しんで研究を続ける男が?
「し、社長……冗談ですよね?」
「冗談ではない。夏は休む。」
それだけ言って、社長は淡々と書類をまとめ始めた。
いつも通りの落ち着いた動き。
だが――
従業員たちのざわめきは止まらない。
――研究が失敗したらしい。
――どこか体を壊したのでは?
――燃え尽きたのではないか?
噂はその日のうちに町へ広がった。
だが真実は、もっと単純だった。
社長は、夏に弱い。
暑さにあたると食欲が落ち、動けなくなる。
毎年のことだ。
そしてもう一つ。
町外れで、草競馬が開催される。
社長は、無類のギャンブル好きである。
堅物、人格者、救済者。
そんな評価の裏で、彼の血は案外と騒がしい。
休暇初日。
孤児たちはそれぞれの時間を過ごしていた。
「俺、荷運び行ってくる。」
「休みなのに?」
「冬の分、貯めとかないとな。」
働きに出る者。
「川行こうぜ!」
「祭りもあるらしいぞ!」
遊びに駆け出す者。
だが夕方になると、多くが自然と会社へ戻ってくる。
居場所は、結局ここしかない。
「……やっぱここ、落ち着くな。」
ぽつりと漏れた一言に、何人かが無言でうなずいた。
――そのころ。
社長は、競馬場にいた。
土煙。歓声。熱気。
酒と汗の匂いが渦巻く中、社長は帽子を深くかぶり、馬券を握りしめる。
(今回はいける……。)
スタート。
蹄の音が地面を叩く。
ドドドドド――!!
「行けぇぇぇ!!」
叫びが弾ける。
「グリーンシンボリー行けぇぇぇ!!」
拳を振り上げ、跳ねる。
目は血走り、声は裏返る。
普段の社長は、そこにはいない。
ただ一人の、必死な賭け人。
「差せ!そこだ!いけぇぇ!!」
前に出る。
勝った――そう思った瞬間。
外から一頭、差し込んできた。
一気に抜かれる。
「あ……。」
ゴール。
歓声が爆発する。
だが社長の手から、力が抜けた。
馬券が、ひらりと落ちる。
――負けた。
完敗だった。
帰り道。
夕焼けが、やけに眩しい。
「……やはり夏は苦手だ。」
誰にともなく呟く。
屋敷に戻ると、そのまま寝込んだ。
夏バテと、そして――失意で。
一週間。
その間、会社では。
「社長、大丈夫かな。」
「顔色悪かったしな……やっぱり夏に弱いんだよ。」
「毎年こうだもんな。」
孤児たちは心配そうに言い合う。
冷たい水を用意し、静かに休ませる。
誰も疑わない。
原因は、夏だと。
――だが。
(グリーンシンボリー……あそこで差されるか普通……。)
布団の中で、社長は天井を見つめていた。
(いや、あの位置取りなら勝ってた……騎手が……。)
拳を、ぎゅっと握る。
悔しさが、込み上げる。
外から声が聞こえる。
「社長、本当に夏ダメだよね。」
「うん、毎年寝込んでるし。」
無邪気な声。
社長は、目を閉じた。
「……やはり夏は苦手だ。」
ぽつりと呟く。
その言葉は。
半分は本当で、半分は――違う。
誰も、競馬のことは知らない。
誰も、あの絶叫を知らない。
社長の夏は。
今年もまた――
少しだけ、間違って理解されたまま終わった。