軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

事故調査ファイル_地獄の窯④

『希硫酸の霧』がグロッケンフェルスの街をゆっくりと覆い始めるに至って、下層区に戻っていた住民たちも再び避難場所へ集まってきた。

流石に危機感を覚えた住民たちは、動ける者たちからアンドレアナの指示に従い街からの移動を開始した。

しかし、時刻はすでに夕刻を回っている。

可燃ガスがどこに溜まっているか分からない上に、多くの炭鉱夫がまとまって動くことによって、周囲には炭塵が舞っている。

松明を灯せばどこで爆発が起こっても不思議ではない状況だ。

結果、避難は暗闇での行軍となり、先頭を行く衛兵たちが持つ魔導ランプだけが唯一の光源となる。

不幸中の幸いとしては、グロッケンフェルスに住む住人たちは、火を使うことが破滅に繋がることを理解していた事だった。

彼らにとって炭鉱事故はすぐ身近にある出来事だ。

何が危険かを何度も何度も、耳にタコが出来るほどに聞かされている。

「住民たちの三分の一は移動を開始しました。しかし、高齢の者や怪我人を抱えた家族はいまだ避難場所から動いていません」

夜の報告会では、職員たちは皆、疲れ切った顔だった。

一日中、街の中を駆けずりまわり煤に塗れたまま、それを拭う時間もない。

中には希硫酸を吸い込んだことで、咳が止まらない者もいた。

だが、街の癒し手は避難所での怪我人の手当に回っている。

災害対策本部に戻ってきた癒し手は人の手を借りなければ歩けないほどに疲弊しており、同僚を治癒する余裕もなかった。

会議室のテーブルでは小さく魔導ランプの灯りが揺れている。

廊下を照らしていた魔導ランプは、壁から外され避難所に支給されたため会議室以外はほとんどが闇の中だった。

「上層区の貴族たちとその使用人たちはほぼ退去しております。残りはおおよそ2000人程度でしょう」

続いて報告をあげたのはバスティアンだった。

意外にもバスティアンは現場に残ることを選び、上層区の貴族たちの説得に回ってくれていた。

「2000人か」

清貴は最新のハザードマップを見つめながら溜息を吐いた。

街の半数は避難させる事が出来たものの、残る半数は老人や怪我人とその家族たちだ。

移動速度も遅くなる上に、そもそも避難を拒む可能性も高かった。

「王家からの連絡はまだなんでしょうか?」

不安気な声をあげる職員に、清貴は肩をすくめるしかない。

「ああ、生憎だがまだ返ってきていない」

それに、いざ王令が降りたところで、命令に従わせることが出来るかはまた別の問題だった。

「――我々の、最終防衛ラインを定めよう。王令の有無に関わらず、職員および衛兵たちの撤退基準を明確にしておく必要がある」

「それは、……そのラインを超えたら、逃げ遅れた者たちがいても見捨てる、という事ですか?」

アンドレアナが必死に感情を押し殺し、幾度か詰まりながらも声を絞り出した。

「その通りだ。救うべき命、救われるべき命には”我々自身の命”も含まれる。

我々が撤退するのは、次の場所で生き残った市民を救済する事と同意語でもある。全滅すれば、その後の支援は誰も行えなくなる。……これは敗北ではなく、救助継続のための戦略的転進だ」

清貴もまた感情を押し殺して言葉を紡ぐ。

誰一人として見捨てたくはない。最後まで残って戦いたい。

だが清貴やアンドレアナがここに残るという事は、それに従う他の者たちの命をも巻き込むことと同じだった。

「最終防衛ラインは、火頭が中央区の広場に到達、……広場噴水付近の地面の温度が50度に達した時点とする。

噴水広場に自動計測機を設置、50度を超えた時点でアラートが鳴るように設定してくれ。

各自、アラートが聞こえたら作業を即時中断し撤退を開始。以上だ、――質問は?」

清貴の言葉に小さなランプを囲む面々が小さく首を横に振る。

「では、翌朝、日が昇り次第、避難活動を再開する。朝までに出来る限りの仮眠をとっておくようにしてくれ」

その晩、災害対策本部を包み込んでいたのは無力感という名の絶望だった。

誰もが、全ての住人を救うことが出来ないことをすでに理解していた。

重苦しい空気の中、地中からは絶えず地層がひび割れる音が響き、振動が止まることはない。

坑道火災の影響により、宿舎内の気温は不快な暑さに変わっていたが、窓を開けることは出来なかった。

誰かが咳をする声が響き、すすり泣く声も聞こえる。

それは、あまりにも長く、あまりにも辛い夜だった。

清貴もまた寝苦しい夜を過ごしていた。

幾度も寝返りを繰り返し、窓の外に朝の気配を探して目を凝らす。

だが、いつまでも夜は明けることはなく、それは永遠に続くようにすら思えた。

しかし、そんな中でも、降り積もった疲労により、どこかの時点で眠りに落ちていたようだった。

「清貴様ッ!! 起きて下さいッ!!!! 大変ですッ!!」

ふいに響くアンドレアナの声に、慌てふためいて飛び起きる。

「何があった!」

これ以上に悪い事態が起こったのか。

だが、アンドレアナの興奮は絶望とは違う色合いに満ちていた。

慌てて窓へ駆け寄った清貴は、驚きのあまり声をあげる。

そこには、魔導飛空艇が浮かんでいた。

白銀の船体は朝日を浴びて輝きを放ち、船の檣楼にはヴェネンティカ王国旗が翻る。

この世界において、飛空艇はまだほとんど普及していない技術だった。

それを有しているのは王家のみであり、その王家も数えるほどだった。

ヴェネンティカ王国においても、魔導飛空艇は僅か三機。

それが空を駆けるのは、重要な式典の時のみであると聞いている。

そのうちの一機がやってきたのだ。

飛空艇はゆっくりと街の上空を旋回すると、上層区の広場へと降りてくる。

清貴は取るものもとらず、寝ぐせ頭のままに駆けだした。

一歩外に踏み出せば昨日よりも濃くなった希硫酸が混じった空気が肺を焼く。

それでも構わず広場へと駆け付ければ、飛空艇のタラップから第一王子であるナサニエルが降りて来るところだった。

「――、……ナサニエル王子! なぜここに!!」

清貴の声に、ナサニエルがぱっと顔をほころばせる。

「やぁ、僕の小鳥。今こそ僕の助けが必要だと思ってね」

ナサニエルに続き、王国の正規軍がつぎつぎと広場に降りてくる。

その中には魔導士や癒し手も含まれており、皆が王国の紋章をつけた白銀の衣を纏っている。

その数はおおよそ100人ほどだが、彼らの実力は一般兵たちの10倍と言われている。単純計算で、1000人の兵と同じだった。

何よりもナサニエルの存在が、この地のルールを根底から覆す事だろう。

王族自らが脚を運んだ。

それは頑なな住人たちの心を動かすに足るだろう。

「馬鹿じゃないのか、君は! 王族ともあろうものがこんな危険な地にやって来るなんて!」

「それは君も同じだ、僕の小鳥。『大陸事故調査委員会』は未だ君一人によって支えられている存在だ。君という支柱が抜けてしまえば、委員会自体が消え失せる。それは、ヴェネンティカ王国の安全そのものが脅かされる事に他ならない。

もっとも貴重な人材のためならば、王家も動く。……王家だからこそ動く。僕は正しい事をしているつもりだよ」

清貴は苦虫を嚙み潰したような顔になる。

だがすぐに気持ちを入れ替えると、災害対策本部に向かって歩き出した。

「避難計画はすでに纏めてある。まずは癒し手を避難所に派遣し、動けない者たちの治療にあたってくれ。

詳しい誘導経路を説明する。電報を送った時以上に、状況は切迫している。一秒たりとも無駄には出来ない」

「了解だ、僕の小鳥。ただちに手配しよう。

親衛隊長! 魔導士長は僕に続け! 飛空隊、魔導エンジンはいつでも動かせる状態を保っておけ。

さぁ、それじゃあ、一世一代の救出劇を開始しようじゃないか」

白銀の翼とナサニエルの登場により、グロッケンフェルスの強制避難は速やかに動きはじめた。

職員たちの決死の努力によって導き出されたルートに風向きをかさね合わせ、もっとも安全なルートを選定する。

現場の職員や衛兵たちも、王子が現われたことによって活気を取り戻していた。

避難所の住民たちも食料と新鮮な水が支給され、癒し手たちが救護に回れば諦めかけていた重い腰をあげはじめる。

自然と、動けるものが老人に手を貸し、子供を背負って移動をはじめた。

大事な夫や息子を失った者たちも、他の誰かを助けるために手を差し伸べる。

絶望とは、人の心を打ち砕き、その足を大地に縫い留める。

――だが希望は、どんなひび割れた地でも芽吹くのだ。

「第三陣まで安全区域までの退去を完了しました。動けない者たちは飛空艇で隣街まで運搬を完了。

じきに飛空艇も帰還いたします」

親衛隊長の報告に、ナサニエルが穏やかに頷いた。

最後の避難民である第四陣はアンドレアナをはじめとするグロッケンフェルスの公職員たちたちとともに、さきほど広場を出発した。

セルジュとヒューゴはバスティアンの家族とともに先に飛空艇で避難している。

正規軍も多くは避難民に付き添っており、街に残っているのはナサニエルとその親衛隊15名、清貴とアレスにゼノンのみであった。

「なんとか、間に合ったな。あとは最終確認だ。街を一巡したら我々も退去しよう」

逃げ遅れがいないかの最終確認に、親衛隊が見回りに向かう。

馬が使えればよかったが、犬達と同様、馬もこの希硫酸の霧の中ではすぐに動けなくなるだろう。

幸い、親衛隊は防護マスクを常備しており、駆け足で回っても心肺への被害は抑えられている。

親衛隊は次々に戻ってくると、呼びかけに返事はなかったと報告する。

あと、もう少しだ。

そう安堵しかけた最中に、大地を震わすようにアラートが鳴りはじめた。

警報は三度に渡って響き渡ると沈黙する。

「小鳥、今の音は?」

「噴水広場に仕掛けたアラートだ。火頭が街の中心部まで回ったらしい。我々も今すぐ退去を、――」

その瞬間、清貴は今までにない不気味な振動を感じて沈黙する。

予感を覚えて振り返れば、エメラルドの湖面が沸き立ち、渦を巻いていた。

「不味い、……湖の底が抜けるぞッ! 飛空艇を待つ時間はないッ!! 走れッ!!!!」

叫ぶ清貴の背後で、まるで湖そのものが溜息を吐くような、山のように巨大な気泡が爆ぜた。