作品タイトル不明
5. 聖女は帰らない
聖女が連れ去られた。
その報せは、その日のうちに王都中へ広がった。最初は、隣国の王太子が聖女を奪ったという噂だった。次に、教会が聖女を虐げていたらしいという噂が混じった。翌朝には、聖女が食堂で普通のパンを求めたことまで語られていた。
誰が漏らしたのかは分からない。だが、噂は止まらなかった。
「聖女様だけ黒パンだったって本当か」
「俺たちは礼金を出していたぞ。あれは聖女様のためじゃなかったのか」
人々の声は、少しずつ怒りに変わっていった。
教会はすぐに声明を出した。聖女は疲労により一時的に判断を誤っただけであり、教会は常に彼女を大切に扱ってきた、と。しかし、その言葉を信じる者は少なかった。後に王城の医師が診察した結果、セシリアには慢性的な栄養不足と過労の兆候があると報告されていたが、それが教会によって改竄されていたからだ。
神官長は、王城へ呼び出された。
謁見の間で彼を待っていたのは、国王だけではなかった。重臣たち、監査官、王城の文官、そして隣国の王太子がいた。
神官長はいつものように弁明しようとした。清貧は聖女の美徳である。民の苦しみを知るために必要だった。聖女自身も納得していた。そう言いかけたところで、国王の表情が険しくなった。
「納得していた者が、なぜ戻りたくないと言った」
その一言で、神官長は口を閉じる。
その不自然な証言の結果、調査はすぐに始まった。教会の金庫、帳簿、寄付の記録、聖女の活動予定表が押収された。神官たちの部屋からは高価な酒や装飾品が見つかり、食堂の記録からは、セシリアだけが長期間粗末な食事を与えられていたことも明らかになった。
その結果、神官長は職を解かれ、関係した神官たちも次々に処分された。聖女の名を使って集められた寄付金は再計算され、施療院と貧民街の支援に回されることになった。
しかし、聖女は国には帰って来なかった。
王城は最初、それを一時的な療養だと発表した。聖女セシリアは長年の過労により休養を必要としており、回復まで隣国の王城で保護される。教会の管理体制が改められ、十分な環境が整えば、いずれ帰国の協議を行う。そういう名目だった。
だが、1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎても、セシリアが国境を越えて戻ることはなかった。
理由は明確だった。セシリア自身が、帰国を望まなかったのである。
聖女の帰還を望んでいた王都は、大きく動揺する。教会を罰すれば聖女は戻る。待遇を改めれば赦してもらえる。多くの者が、どこかでそう思っていた。けれど、セシリアは戻らなかった。国が反省したからといって、傷つけられた本人が帰る義務などないのだと、誰もが突きつけられた。
「聖女様は、もう戻らないのか」
王都の人々は何度もそう噂した。
そしてそのたびに、誰かが答えた。
「戻る理由がないだろう」
その言葉に、反論できる者は少なかった。
聖女は国には帰って来なかった。けれど、それは彼女にとっては悲劇的ではない。奪われ続けた少女が、初めて自分の人生を選んだだけだった。そしてその手の中には、かつて望むことすら許されなかった、温かな普通のパンがあったのだ。