軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

沼地のダンジョン

翌朝、六時前。

白いハッチバックの後部座席に座ると、背中にまだ朝の冷えが残っていた。霧島が運転席、真凛が助手席。

車は関越道へ乗った。朝の光が、ビルの窓から山の方へ移っていく。霧島のスマートウォッチは、出発から十分で三回鳴った。

「見なくていいのか」

「あ、今はいいです。運転中ですし」

「いつもは見るだろ」

「今日は、安全運転です」

助手席の真凛が、地元資料を開いた。

「今回のC-287は、正式名称は利根山麓C-287。現地管理者は高村絹江さん、五十六歳。先代から引き継ぎ。周辺は林業と観光農園。そこで使われている水路に、ダンジョンからモンスターが漏出しているみたいです」

サービスエリアで一度停まった。俺は缶コーヒーを買い、真凛は資料を持ったまま車から降り、霧島は電話をしている。

「はい。はい、まだ現地です。いえ、……はい、分かっています」

俺は缶コーヒーを開けた。苦い。朝飯を食ってから出ればよかった。腹の底が軽い。

昼前、沼田市役所の会議室に入った。

机の上に、古い記録のコピーと、地図と、合同チームの撤退報告書が並んでいた。地元管理者の高村絹江は、背筋の伸びた女性だった。眼鏡の縁が太い。作業着の袖口に、土がついている。

「遠いところ、ありがとうございます」

「いえ」

自治体の担当は若い男で、緊張していた。机に広げた図面の端を、押さえた。

「被害は、今のところ、水路の逆流が二件。観光農園の排水が一件。けが人は、合同チームの撤退時に三人、軽傷です」

「死者は」

「いません」

高村さんが、A4の紙をこちらへ押し出した。

「合同チームの観測担当が、撤退前に置いていったものです。中層沼地の深部反応。波形が、今までの沼地個体と違う、と」

真凛が紙を受け取り、目を通す。

「篠塚さん」

「なんだ?」

「周期の揺れ方は、C-087で観測した深層反応に近いです」

「なるほど」

高村さんが、口を結んだ。

「この水路が使えないと、山の下の田んぼに水を回せなくなって困るんです」

「わかりました、現地で確認してみましょう」

「お願いします」

会議室を出て、C-287の入口へ向かった。山の麓にある古い管理小屋。木の扉に、C-287の札がかかっている。ペンキが剥げて、数字の端が薄くなっていた。

入口の周りには、水路。細い水が、石の溝を走っている。濁ってはいないが、流れが不規則に揺れている。

高村さんが指を差した。

「いつもはこのくらいまでの水位なんですが、このくらいしか流れなくなってしまって」

真凛がメモを取る。霧島は水路の脇に膝をついて、流れを見ていた。靴の先に泥がつくのも気にしていない。

「霧島さん」

真凛が声をかけた。

「はい」

「体調は大丈夫ですか?ぼーっとしていましたが」

「え、あ、大丈夫ですよ!睡眠不足はコーヒーで乗り切りますから」

「それならよいのですが……」

「本当におかあさんみたいですねぇ」

霧島は笑った。

14時ごろ。地元の小さな食堂に入った。

おっきりこみの店だった。木の卓に、年季の入ったメニュー札。鍋の湯気が、厨房から客席まで流れてくる。味噌の香ばしい匂い。

鉄鍋で出てきたおっきりこみは、幅広の麺が汁の中で重なっていた。白菜、ねぎ、人参、里芋、舞茸、豚肉。味噌仕立ての汁が、鍋の縁で小さく泡を立てている。箸を入れると、里芋の角が少し崩れた。麺は厚く、持ち上げると汁をまとって、湯気が顔にかかった。

俺は一口啜った。味噌が濃く、野菜の甘さが出ている。麺はもちっとしていて、おいしい。

「うまいな」

「はい」

真凛は舞茸を箸で割って、ゆっくり口に入れた。

「香りが強いですね」

霧島は、鍋の前で箸を持ったまま、少し止まっていた。

「霧島」

「はい?」

「食べないのか?」

「はーい。食べます。私猫舌なんですよ。篠塚さんに言われたら、食べないわけにいかないですねぇ」

箸で幅広の麺を持ち上げ、口に入れる。熱かったのか、少しだけ肩が上がった。

「熱っ。……でも、美味しいです」

外は山の夕方で、窓の向こうが早く暗くなっていた。

俺たちは再度、高村さんと合流した。

手には、古い紙袋がある。

「これ、昔の管理日誌の写しです。全部は整理できていませんが、今夜のうちに読める分だけでも」

真凛が受け取った。

「お借りします。原本はお返しします」

「お願いします。テレビに映るような事故が起きる前に、どうにかしたいんです」

霧島が、深く頭を下げた。

「明日C-287に篠塚が潜行します。地元の方が立ち入らないよう、今夜から立ち入り規制の対応だけお願いします」

高村さんが頷き、紙袋から手を離した。

宿へ戻る道で、霧島のスマートウォッチがまた鳴った。

「見なくていいのか」

「今は、こっちの方が先です」

真凛が横目で見ている。

山の夜気は冷たかった。腹の中のおっきりこみだけが、まだ熱を持っていた。

部屋に戻ると、真凛は高村さんから預かった管理日誌を読み始めた。古い紙のコピーは、端が薄く黄ばんでいる。水路の小さな異常、落石、観光農園の排水詰まり、沼地個体の出現時刻。

真凛は、管理日誌とにらめっこを続けるようだ。

俺は畳に腰を下ろした。移動と聞き取りだけなのに、腰に来ている。

もう若くないな。

明日は沼地だ。足場が悪いと、さらに腰に来る。だが、現地でしか分からないものがある。

川の流れが奏でる、ささやかな音が外から聞こえてきていた。