軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第16話 聖女に無限の慈悲を求める制度こそが、悪役を作る

『大神官室 緊急認定記録』。

その紙束が王宮書記官の前に置かれた瞬間、大神官グレゴリウスの張り付いた笑みが、ひび割れた粘土のように歪んだ。

セオが封を切る。

神殿上層部の印。

寄付受領日。

緊急認定日。

変更された優先区分。

後回しにされた依頼番号。

そこに並ぶ文字は、祈りの記録というより、誰かの都合で押し潰された順番の墓標だった。

「一件、二件と、寄付金と引き換えに握り潰された依頼が確認されています」

セオの声には、一片の熱もなかった。

ただ、淡々と事実という名の弾丸を装填し、発射し続ける。

「薔薇の温室。祝宴祈祷。貴族家礼拝堂の装飾祝福。いずれも大神官室の緊急認定印により、通常依頼を押し退けています」

広間のどこかで、誰かが息を呑んだ。

貴族たちは自分の家名が出るのを恐れ、資料へ目を落とす。

けれど、セオはそこで止まらなかった。

「そして三件目」

指先が、紙面の一点を押さえる。

「西門結界事故」

その単語が出た瞬間、大広間の温度が落ちた。

西門。

王都へ物資が入る門。

商人が通り、巡回兵が守り、民の生活を支える場所。

そこを守る結界点検が、後ろへ回されていた。

「当日予定されていた結界点検は延期。理由は、貴族家礼拝堂の装飾祝福が緊急認定へ変更されたため。記録上の理由は『信仰維持上必要』。緊急認定印は、大神官室です」

宰相が資料を掴んだ。

紙が潰れそうなほど、指に力が入っている。

「薔薇や礼拝堂の装飾のために、王国の防衛線へ穴を開けたというのか」

低い声だった。

だからこそ、怒りの芯が広間の奥まで届いた。

「大神官。貴殿は、自分が何をしたか分かっているのか」

グレゴリウスの喉が鳴る。

「違う。神殿の運営には、寄付が必要なのです。信仰を支える家々への配慮は、古くから」

「運営のために、誰の命を売ったのですか」

リディアの声が、老人の弁明を切り裂いた。

大広間が静まる。

「伝統という名前で、どの依頼を塗り潰してきたのですか」

グレゴリウスの杖が、床をこすった。

「倒れた神官を『尊い犠牲』と美談で呼びながら、給与を削り、欠勤を『奉仕不足』として処理した。日付、金額、印。全部、残っています」

セオが別の資料を持ち上げる。

その動きだけで、大神官の唇が震えた。

若い神官たちの列に、息を呑む音が走る。

エリンが受付記録を胸に抱え直した。

ミリアは腕章の布を強く掴む。

グレゴリウスは叫ぶように言った。

「祈る者が身を削ることも、聖なる奉仕の一部です!」

「身を削らせた側が言う言葉ではありません」

リディアは一歩も退かなかった。

「祈りを称えながら、倒れた人の給与を削る。民への慈悲を語りながら、声の小さな依頼を後ろへ回す。信仰という言葉で、誰の不利益を隠してきたのですか」

王宮書記官の筆が走る。

かり、かり、と紙を削る音が、大広間に響いた。

大神官の杖の音では、もう誰の足も止まらない。

広間を動かしているのは、記録だった。

宰相が資料を机に叩きつけた。

ばさり、と紙が鳴る。

「これは神殿内の揉め事では済まん」

その声にあったのは、分析ではなく本気の怒りだった。

「西門結界事故は王国の問題だ。地方の瘴気浄化も、下町水路も、王都の生活と防衛に直結する。大神官、貴殿は神殿の権威を使って、王国の守りを私物化した疑いがある」

重臣たちの視線が、グレゴリウスへ集まった。

貴族たちは、さきほどまでの余裕を失っている。

「我が家の寄付は正規のものだ」

「認定を決めたのは神殿側だろう」

「こちらは依頼しただけで」

責任逃れの声が、薄く広がった。

つい先ほどまでリディアを「冷たい聖女」と囁いていた口が、今度は自家の名を守るために忙しく動いている。

リディアはそれを冷静に見た。

貴族たちが急に善良になったわけではない。

自分の家名と領地と利益が危うくなったから、ようやく資料を見た。

それでも構わない。

見なかったものを、今、見ている。

それだけで十分だった。

「それでも」

グレゴリウスが、絞り出すように言った。

顔色は悪い。

だが、その声にはまだ、聖なるものを盾にしようとする執念が残っている。

「聖女ならば、慈悲を惜しんではならぬ。求める声に応え、民と信徒のために身を尽くす。それこそが」

「聖女が断れば、冷たいと言われます」

リディアは静かに口を開いた。

大神官の声が止まる。

「働く者が倒れれば、尊い犠牲と言われます」

若い神官たちが顔を上げた。

「声の小さな民が後回しにされれば、仕方ないと言われます」

エリンの指が、受付記録の表紙を握る。

「そして、そのたびに誰か一人を悪役にして、問題を終わらせる」

リディアは大神官を見た。

次に、貴族たちを見た。

最後に、王太子アルベルトへ視線を移す。

「そんな仕組みは、もう続けられません」

広間が、ひどく静かになった。

リディアの声だけが、床石の上をまっすぐ進む。

「聖女に無限の慈悲を求め、断った者を悪役にする。その制度こそ、今日ここで問われるべきものです」

グレゴリウスは口を開いた。

だが、言葉は出なかった。

紙がある。

日付がある。

金額がある。

印がある。

後回しにされた依頼番号がある。

美しい言葉だけでは、もう包めない。

「殿下」

リディアはアルベルトを見た。

アルベルトの肩が、わずかに動く。

「殿下は、誰かを守る物語が欲しかったのでしょう」

その一言に、彼の表情がこわばった。

リディアは責めるようには言わない。

怒りをぶつけるのでもない。

ただ、記録を机に置くように、言葉を置いた。

「ですが、守られる役を作るために、誰かを悪役に置く必要はありません」

アルベルトは何も言えなかった。

ミリアは、もう彼の後ろに隠れる少女ではない。

リディアは、彼の物語を盛り上げる悪役ではない。

神殿の職員たちは、倒れても称賛される背景ではない。

アルベルトの手元には、ミリアの研修記録がある。

そこには、測定器の扱い、避難確認、休憩管理、基礎浄化補助の欄が並んでいた。

王子が手を差し伸べる場面など、どこにも書かれていない。

彼は、ようやくそれを見た。

宰相が資料を閉じた。

ぱたり、という音が響く。

「大神官グレゴリウス」

名を呼ばれた瞬間、グレゴリウスの背が震えた。

「調査完了まで、大神官としての職務権限を停止する」

「私を」

グレゴリウスの声が掠れる。

「神殿の長である私を、職務停止にするというのか」

「王国の浄化基盤を私的に運用した疑いがある以上、当然だ」

宰相の声は冷たかった。

「大神官室の緊急認定記録、寄付受領記録、私的祈祷の優先処理、職員の過労離脱記録、すべて調査対象とする。王家主導の調査委員会を設置する」

王宮書記官が書き留める。

「神殿依頼制度についても見直しを行う。緊急認定基準、寄付と私的祈祷の分離、受付記録の保存、職員勤務記録の監査」

宰相はリディアの方を見た。

「現場で導入された順番札制度、優先札制度、手順書、来訪者記録は、調査完了まで暫定継続とする。文句はないな」

エリンが、はっと顔を上げた。

ミリアの指から力が抜ける。

若い神官たちの間に、小さな息が広がった。

暫定継続。

その言葉は、神殿の現場にとって何よりの救いだった。

明日も順番札を置ける。

明日も赤い優先札で緊急案件を通せる。

明日も手順書を見て動ける。

明日も、倒れずに帰れる可能性がある。

グレゴリウスは、周囲を見回した。

だが、彼を支える視線はもうなかった。

貴族たちは蜘蛛の子を散らすように一歩ずつ距離を取っている。

神殿上層部は、資料から目を逸らしている。

重臣たちの目には、敬意の欠片も残っていない。

あるのは、不備を暴かれた管理者へ向ける、冷ややかな沈黙だけだった。

グレゴリウスの杖が床を叩く。

こつん。

乾いた音。

だが、その音はもう誰の足も止めなかった。

リディアは、神殿職員たちへ視線を向けた。

エリンが、受付記録を抱いたまま泣きそうになっている。

ミリアは、自分の腕章を見下ろし、小さく笑った。

若い神官たちの肩から、見えない重石が少しずつ落ちていく。

明日も現場は続く。

けれど、明日の現場には手順書が残る。

順番札も残る。

赤い優先札も、青い優先札も、白い優先札も残る。

倒れたら美談ではなく、事故として記録できる。

帰ることを、罪悪感ではなく業務の一部として扱える。

それだけで、神殿の明日は少しだけましになる。

リディアは、神殿職員たちへ向けて言った。

「聖女とは、倒れるまで祈る者ではありません」

大広間が静まる。

「明日も祈れるように、今日帰る者です」

ミリアが小さく頷いた。

エリンの目から、とうとう涙が一粒落ちる。

セオの羽ペンが、恐ろしい速度で走った。

リディアは嫌な予感がした。

「セオ」

「名言です。受付に掲示を」

「やめなさいと言っているでしょう」

「では、全職員の行程表の表紙に」

「そこまで管理しなくていいです」

「職員が毎日見る場所が望ましいかと」

「望まないでください」

重かった大広間の空気が、少しだけほどけた。

王宮書記官の一人が、咳払いで笑いを隠す。

若い神官が下を向いて肩を震わせる。

エリンは涙を拭きながら、少し笑った。

王宮書記官たちは、かつての悪役令嬢を裁くためではなく、彼女の作った新しい規約を書き留めるためにペンを走らせている。

貴族たちは、誰が悪役かではなく、自家の依頼が何日遅れたのかを確認していた。

重臣たちは、緊急認定基準と王家の監督責任について話し合い始めている。

セオは最後の資料束を、王宮書記官の前へ置いた。

ぱさり、と紙が鳴る。

リディアは鞄の留め具を閉じた。

カチリ。

断罪の舞台だったはずの大広間に響く、事務的な終止符の音。

「セオ」

「はい」

「帰りに、林檎蜜の氷菓子へ寄れるかしら」

セオは記録板を閉じながら、真顔で答えた。

「本日の査問会、予定より早く終了しています。十分可能です」

「よろしい」

「ただし、氷菓子屋への寄り道も、今後は行程表に入れた方が安全です」

「そこまで管理しなくていいです」

リディアは一度も後ろを振り返らなかった。

神殿の入口にあるはずの氷菓子屋の行列を思い浮かべながら、足早に大広間を後にした。