軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第14話 未処理三百二十件、現在二十三件です

「未処理浄化依頼は、改革前、三百二十件でした」

リディアが大広間に叩きつけたのは、聖なる祈りでも美しい理念でもなかった。逃げ場のない、ただの数字だ。

「現在は、二十三件です」

大広間から、扇の音が消えた。

王宮書記官の筆先が紙の上で止まる。

重臣の一人が、配られた資料を二度見した。

別の貴族は、笑いかけていた口元を閉じる。

「……三百二十件?」

誰かが、思わず呟いた。

その声は、まっすぐ大神官グレゴリウスへ向いていた。

グレゴリウスの慈悲深い微笑が、ほんのわずかに歪む。口元は笑っている。だが、杖を握る指先だけが白く強張っていた。

「浄化依頼というものは、数だけで語れるものではありません」

「承知しております」

リディアは、すぐに頷いた。

「ですので、待機日数、対応区分、担当者名も提出しております。緊急案件の初動は、平均三時間から四十分まで短縮されました」

セオが、無言で次の資料を王宮書記官へ差し出す。

紙の角はそろっている。

日付。時刻。担当者名。

逃げ場のない文字が、整然と並んでいた。

「過労による離脱者は、今月ゼロです」

若い神官たちの列から、小さな息が漏れた。

ゼロ。

それは、倒れずに帰れた人間がいたという数字だ。

温かい食事を食べ、眠り、翌朝に自分の足で神殿へ来られた人間がいたという数字だった。

大神官の顔から、急速に血の気が失せていく。

広間に満ちていた野卑な好奇心は、困惑へと変わり始めていた。

「待て」

寄付者貴族の一人が、手元の資料を食い入るように見つめた。

「西門結界事故の日付……これは、我が商会の荷馬車が足止めされた日ではないか」

「うちの領地の浄化依頼も、二週間後回しになっているぞ」

「その日に、聖女補佐が温室祈祷へ?」

囁きの質が変わった。

さきほどまでの声は、リディアを裁くための好奇心だった。

今は違う。

自分たちの領地も、商会も、民も、誰かの温室や祝宴の後ろへ押しやられていたのではないか。

その疑いが、貴族たちの背中をざわつかせる。

「それだけではありません。ランベール伯爵」

セオが、資料を一枚めくった。

その目は冷えている。紙の隙間へ逃げ込もうとするものまで拾い上げる、事務方の殺気があった。

「先月の伯爵領の水路浄化。二週間遅延しています」

ランベール伯爵の眉が跳ねた。

「何?」

「同日、大神官様の指示で聖女補佐が派遣された先は、東の侯爵家の温室です」

セオは、紙面に指を置いた。

「薔薇の病除け祈祷、と記録されています」

ランベール伯爵の顔が凍りついた。

「由緒ある薔薇より、我が領の水路が後回しだと……?」

大広間が揺れた。

「寄付額で順番が変わっていたのか?」

「では、我が家より大口の寄付者がいれば、我が領民は待たされるのか」

「神殿は、そのような運用をしていたのか」

グレゴリウスが杖を鳴らした。

「皆様、落ち着かれよ。神殿は常に信仰と慈悲に基づき」

「寄付は慈悲ではありません」

リディアの声が、その言葉を断ち切った。

「他者の命を奪う割り込みの対価になっていたのです」

沈黙が落ちた。

ランベール伯爵は、もう反論しなかった。

彼の視線は資料に貼りついたままだ。

貴族たちの目が、リディアから大神官へ移る。さきほどまで彼女へ向いていた好奇の刃が、いまやグレゴリウスへ牙を剥き始めている。

リディアは、その変化を冷静に見ていた。

彼らが急に善人になったわけではない。

自分たちの損に気づいただけだ。

それでも構わない。

事実が見られ始めたなら、十分だ。

「補足いたします」

セオが、別の資料を王宮書記官へ差し出した。

「改革前、倒れた神官は『夜通しの祈りに励んだ』と記録されていました」

王宮書記官の筆が走る。

「実際には、勤務表上の連続稼働時間が上限を超えています。翌日の欠勤、休職、担当交代も確認済みです」

グレゴリウスの口元が引きつった。

「祈りに事故など」

「セオ、離脱者の給与カット記録も出してください」

リディアの声は、氷のように平坦だった。

グレゴリウスの目が見開かれる。

セオは一切ためらわず、次の紙を前へ出す。

「夜間祈祷後の欠勤者について、奉仕不足として手当が減額された記録です。欠勤理由は『熱心な祈りによる疲労』。ですが、実態は過重勤務です」

重臣の一人が、低く唸った。

「倒れたうえに、手当を削られたのか」

若い神官たちの顔が青ざめる。

エリンが受付記録を抱える指に力を込めた。

ミリアは手順書を胸に押し当て、唇を噛んでいる。

大神官は声を荒げた。

「祈りを事故扱いするとは、あなたはやはり冷たい!」

「冷たくて結構です」

リディアは一歩も引かなかった。

「倒れた神官を『熱心』という美談で葬り去るのは、記録の隠蔽です。神殿を正常に動かすには、まず不備を事故として計上する必要があります」

グレゴリウスの杖が床を打った。

今度の音には、威厳がなかった。

ただ焦った者が床を叩いた音だった。

「聖女とは、民へ温かな祈りを届ける者です」

「だからこそ、祈りを届ける人間が明日も立てる仕組みが必要です」

リディアは、手元の資料を一枚持ち上げた。

「数字は、祈りより冷たいかもしれません」

広間の灯りが、紙面の文字を照らす。

「けれど、嘘はつきません。誰が待たされ、誰が倒れ、誰が後回しにされたか。数字は、黙って残します」

重い沈黙が落ちた。

先ほどまで扇を鳴らしていた貴族たちは、もう笑っていない。

王宮書記官の筆だけが、忙しく走っている。

アルベルトは、無言でリディアを見ていた。

その視線には、苛立ちよりも困惑が濃くなっている。

自分が見ていた物語は、どこかで大きくずれていたのではないか。

その疑念が、彼の表情に薄く浮かんでいた。

「ミリアさんの件についても、同じです」

リディアが言うと、ミリアの肩が小さく跳ねた。

だが、リディアは彼女を急に前へ出さない。

「聖女の道を奪った、とのご指摘でした。こちらに研修記録があります。ミリアさんは浄化技師補佐見習いとして、測定器の扱い、避難確認、休憩管理、基礎浄化補助を学んでいます」

セオが資料を配る。

アルベルトの前にも一枚が置かれた。

「また、本人は前回の面会時に『いじめではなく業務指導を受けている』と証言しています」

アルベルトの手が、椅子の肘掛けにかかった。

あの言葉が、彼の中でまだ残っている。

私、いじめられていません。業務指導を受けています。

大神官が割り込んだ。

「本人がそう言わされている可能性もあります」

ミリアの顔が強張る。

リディアは大神官を見た。

「では、その可能性についても、後ほど本人に確認をお願いいたします。強制の有無については、王宮書記官の前で記録していただいて構いません」

王宮書記官が顔を上げる。

大神官は黙った。

噂なら扱いやすい。

印象なら押し通せる。

本人確認となれば、話は変わる。

リディアは続けた。

「祈りを売ったのではありません。働く者の時間を、無料で奪われないようにしただけです」

その言葉は、神殿の職員たちへも届いた。

祈る者。

記録を取る者。

受付で怒鳴られる者。

現場へ走る者。

彼らの時間も、体も、無料で湧いてくるものではない。

セオが、次の封筒を取り出した。

これまでのものと違い、封蝋の色が赤い。

神殿上層部用の内部保管資料に使われる色だった。

それを見た瞬間、大神官グレゴリウスの喉が、引き攣った音を立てた。

「セオ・ヴァルター」

彼の声は、初めて明らかに荒れていた。

「その封筒を、どこで」

「記録室です」

セオは淡々と答える。

「保管棚の奥にございました」

「それは内部資料だ! 出すことは許さん!」

杖が、悲鳴のような音を立てて床を叩く。

大広間の全員が、一斉に顔を上げた。

内容が間違いだとは、言わなかった。

出してはならない、と叫んだ。

リディアは微笑みさえ浮かべなかった。

「内容が間違いだとは、おっしゃらないのですね」

大神官の唇が震える。

「セオ、構いません。王宮書記官へ提出なさい」

「承知しました」

セオが赤い封筒を両手で持ち、迷いなく一歩前へ進み出る。

大神官の喉が、もう一度、引き攣った音を立てた。

その無機質な動作は、旧体制の首を撥ねるための、事務的なギロチンの刃そのものだった。