作品タイトル不明
第八十話 帰還と魔力封印
マバール城の灯りが見えた時、ギルはようやく肩の力を少し抜いた。
夜明けにはまだ早い。
空は暗く、東の端に薄い灰色も差していなかった。街道の土は夜露を吸って重く、馬の蹄が踏み込むたびに湿った音を立てる。冷えた風が外套の隙間から入り込み、首筋を撫でていった。
それでも、見慣れた城壁が闇の中に沈んでいるのを見た瞬間、帰って来た、という感覚はあった。
マバール城は夜でも眠らない。
城門の上には火があり、狭間の奥には人影がある。近づくにつれて、こちらへ向けられる視線の数が増えていくのが分かった。敵意ではない。だが、平時の出迎えでもなかった。
まあ、そうなるよな。
ギルは馬上で息を吐いた。
こちらには俺とセバスチャンがいる。城側も俺たちの魔力反応は分かっているはずだ。だが、それに混じって見知らぬ貴族の魔力反応が近づいてくる。しかも夜明け前、予告もなし、同行者には魔力反応は無いが使用人らしい女までいる。
俺の反応がなければ、たぶん門前で止められていた。
いや、下手をすれば門を開ける前に、もっと面倒な確認を受けていたかもしれない。
その程度で済んでいるのは、俺の魔力反応も一緒だったからだ。
城門が開く音は、夜の石壁へ低く響いた。
ギルが馬を進めると、門内にいた兵たちが一斉に姿勢を正す。その視線はまずギルへ向き、次にセバスチャンへ移り、それから馬車内で佇むリエリエールへ吸い寄せられた。
白金の髪。
夜道を越えてなお崩れない姿勢。
派手に装っているわけではないのに、雑に扱える女ではないと一目で分かる空気。
兵たちがざわつくのも無理はなかった。
秘密の依頼を片付けて、報酬として血統書付きの貴族女性を連れて帰りました。
前世なら完全に意味不明だ。
この世界でも、たぶん十分に面倒くさい。
ギルは馬を降り、手綱を近くの兵へ預けた。セバスチャンも無言で馬から降りる。リエリエールは専属使用人の手を借りず、自分で静かに地面へ足を下ろした。
疲れていないはずがない。
だが、その顔に弱った色はほとんど出ていなかった。
「リエリエール殿」
ギルが声をかけると、リエリエールはすぐにこちらを向いた。
「はい」
「申し訳ありませんが、城内へ入る前に魔力封印を施させていただきます」
兵たちの視線がわずかに硬くなった。
リエリエールの専属使用人も、息を呑んだように見えた。ただ、口は挟まない。彼女は魔力を持たない。感知魔法にも引っかからないその女は、リエリエールの少し後ろで両手を重ね、主の横顔だけを見ていた。
リエリエールは、微笑んだ。
「ええ。お願いいたします」
早いな。
ギルは内心で少し感心した。
魔力封印は、魔力持ちなら知っていて当然の処置だ。他者の魔力を体内へ流し込み、魔力操作を乱すことで魔法を使いにくくする。魔法そのものを奪うわけではない。だが、魔力を揺らして魔法を発動する以上、流れを乱されれば狙った形にしにくくなる。
流し込まれる魔力が強く、多ければ多いほど、乱れは深く長く残る。
だからこそ、受ける側の協力がいる。
頭では必要だと分かっていても、他人の魔力が自分の内側へ入るとなれば、身体が勝手に拒む者はいる。相手が初対面に近い他家の貴族なら、なおさらだ。
それを、リエリエールは微笑んだまま受け入れた。
儚げな見た目に反して、かなり度胸がある。
もっとも、俺が本気で魔力封印を施せば、相手がどれほど抵抗しても無理矢理魔力封印出来るけどな。
今回はそんなつもりはない。
敵対者ではない。今後、マバールで暮らす可能性がある保護対象だ。城へ迎え入れるために必要な、一般的な程度でいい。
「失礼します」
ギルはリエリエールの前へ立ち、手を差し出した。
リエリエールは迷わずその手を取った。白い指は冷えていたが、震えてはいない。ギルは自分の魔力を細く整え、相手の内側へ押しつけるのではなく、表面から染み込ませるように流した。
抵抗はなかった。
リエリエールの魔力が、一瞬だけ揺れる。
水面へ細い棒を入れたように、整っていた流れがわずかに乱れた。強く壊す必要はない。魔法を使おうとした時に、思ったより指先が滑る。その程度で十分だ。
ギルはすぐに手を離した。
「受け入れてくださり、ありがとうございます」
「お手間をおかけします」
リエリエールは、変わらず穏やかに微笑んだ。
大したものだ。
これなら、上層部へ説明しやすい。
ギルはそう思った。
高位貴族の女性を突然連れ帰った。それだけなら危険物を持ち込んだのと大差ない。だが、本人が自分の立場を理解し、城の規則に従い、必要な処置を受け入れたとなれば話は違う。
少なくとも、いきなり暴れるような人物ではない。
もちろん、それだけで信用できるわけではないが、第一印象としては悪くなかった。
「若様」
セバスチャンが横から声をかけてきた。
「このままお部屋へ?」
「まずは俺の部屋だ。ひとまずレティシアとダリアに預ける」
「まあ、妥当ですな」
妥当。
妥当なのだろう。
ギルは城内へ足を進めながら、少しだけ引っかかりを覚えた。
リエリエールほどの貴族女性を、いつまでも自室周りに置くわけにはいかない。いずれは後宮の方で生活してもらうことになるはずだ。あそこなら高位貴族女性を置く場所として形が整っているし、城内の女たちの管理も行き届いている。
だが、そこでふと思う。
これ、息子が女を連れて帰ってきて、母親たちに世話を任せる感じでは?
いや、違う。
違うはずだ。
たぶん、この世界なら全然ある。貴族家の後宮とはそういう場所でもある。実際、俺だって実母一人に育てられたという感覚は薄い。後宮にいる女たち、乳母、メイド、家の者たち、その全体に育てられたようなものだ。
きっと政治的な理由もあるのだろう。
実母の影響力だけが強くなりすぎないように、とか。
たぶん。
いや、今考えることじゃないな。
廊下に入ると、城内の空気は外より温かかった。石壁には夜番用の灯りが間隔を空けて掛けられ、床には薄く磨かれた光が落ちている。使用人たちは表立って騒がない。だが、すれ違うたびに視線がリエリエールへ寄るのは隠せていなかった。
ギルはそれを責める気にはならなかった。
俺だって逆の立場なら見る。
夜明け前に若様が見知らぬ美人貴族を連れて帰ってきました。
しかもセバスチャン付きです。
うん、見るな。
絶対に見る。
リエリエールはその視線を受けても、歩調を乱さなかった。隣を歩く専属使用人も主の半歩後ろを維持している。魔力はない。だが、立ち位置と目線の動かし方だけで、ただの村娘ではないと分かる。
帝国貴族に仕えてきた女、ということだろう。
ギルは自室へ向かう廊下で、少しだけ息を整えた。
戦場へ出る時とも、外交交渉へ向かう時とも違う緊張がある。
レティシアとダリアに、女を連れて帰りましたと紹介する。
言葉だけ並べると最悪だ。
いや、別に悪いことをしたわけではない。
これは政治的保護であり、マバール家にとって価値のある受け入れであり、俺個人の欲望だけで受け入れたわけではない。
……本当に?
ギルは心の中で一瞬だけ自問し、すぐに打ち消した。
少なくとも今回は違う。
今回は違うはずだ。
扉の前へ着くと、控えていた使用人が目を丸くした。だが、すぐに礼をして扉を開ける。その反応もまた、妙に居心地が悪かった。
部屋の中には灯りが残っていた。
夜明け前の薄暗さを押し返すように、机の上と壁際に置かれた灯火が柔らかく揺れている。書類は片付けられ、茶器も用意されていた。俺がいつ戻るか分からないのに、戻った瞬間に使えるよう整えてある。
レティシアは部屋の中央寄りに立っていた。
背筋を伸ばし、いつものように美しく整った姿でこちらを見る。その隣にはダリアがいた。灰色の髪をきちんとまとめ、専属使用人としての態度を崩さず、だが目だけは静かにこちらの後ろを確認している。
机の端では、白い綿毛が丸くなっていた。
レアだ。
こちらに気づいた白い雛鳥は、黄色い嘴を上げ、丸い目でギルを見た。それから、ギルの後ろにいるリエリエールへ視線を移したように見えた。
こいつ、分かってるのか?
いや、鳥だぞ。
でもレアだからな。
分かっている可能性があるのが嫌だ。
「お帰りなさいませ、若様」
レティシアが礼をする。
「ギル様、ご無事で何よりです」
ダリアも続いた。
「ああ。ただいま」
ギルは返事をしたが、すぐに言葉が続かなかった。
リエリエールをどう紹介するか。
普通に言えばいい。
普通に。
そう思うのに、レティシアの穏やかな目と、ダリアの静かな視線を前にすると、妙な汗が出そうになる。
外交の方が楽かもしれない。
いや、あれも嫌だけど。
「若様」
レティシアの目が、ギルの背後へ向いた。
問い詰める声ではない。
だが、説明を求めているのは明らかだった。
ギルは観念して、一歩横へずれた。
リエリエールが静かに前へ出る。灯りを受けた白金の髪が、部屋の空気の中で淡く光った。旅の疲れはあるはずなのに、所作は乱れていない。レティシアはわずかに目を細め、ダリアは一瞬だけ息を止めたように見えた。
「あー、こちらはリエリエール殿だ」
言ってから、自分でも少し雑だと思った。
だが、出てしまったものは仕方ない。
「リエリエール殿、レティシアとダリアだ。二人とも俺の専属使用人で、今後の生活についてはまずこの二人に確認してくれ」
リエリエールは両手を前で重ね、柔らかく頭を下げた。
「リエリエールと申します。突然お世話になることとなり、ご迷惑をおかけします」
声は静かだった。
けれど、その静けさの中に、相手を下に見ない品のようなものがあった。高位貴族としての矜持を捨てているわけではない。だが、今の自分が客ではなく保護される立場だとも理解している。
レティシアはすぐに礼を返した。
「レティシアでございます。若様付きとして、可能な限りお支えいたします」
ダリアも一歩遅れて頭を下げる。
「ダリアと申します。至らぬ点もあるかと存じますが、よろしくお願いいたします」
その声を聞いて、リエリエールの視線がほんの少しだけダリアへ留まった。
魔力を持たない平民。
しかもギルの専属使用人。
リエリエールが何を思ったかは分からない。だが、その目に露骨な驚きや侮りは出なかった。出さなかっただけかもしれないが、それでも十分だった。
ギルは少し安堵した。
これなら、まずは何とかなる。
「それと、リエリエール殿には専属使用人が一人ついている。彼女の扱いも含めて、しばらく頼む」
「承知いたしました」
レティシアは即座に返した。
その返事が自然すぎて、ギルは逆に申し訳なくなる。夜明け前に突然帰ってきて、高位貴族女性とその専属使用人を任せる。普通に考えれば、とんでもない無茶ぶりだ。
だが、レティシアは眉ひとつ動かさない。
ダリアも困惑を表へ出さず、すでに部屋の使い方や茶の準備を考えているように見えた。視線が寝椅子、茶器、扉、控えの間へ順に流れている。
有能すぎる。
俺の女たち、かなり優秀では?
いや、そういうことを考えている場合ではない。
ギルが真面目な顔を保とうとした時、後ろから低い笑い声が漏れた。
セバスチャンだった。
「若様、ちょっと雑すぎますぜ」
ギルは振り返った。
「やかましい」
即座に返すと、部屋の空気がほんの少しだけ緩んだ。
レティシアの口元がわずかに柔らかくなる。ダリアも目を伏せたまま、笑いを隠したように見えた。リエリエールは驚いたように一瞬だけ目を瞬かせ、それから静かに微笑んだ。
机の上で、レアが小さく鳴いた。
それが笑ったように聞こえたのは、たぶん気のせいではない。
ギルは白い雛鳥を睨んだ。
「お前、今笑っただろ」
レアは首を傾げた。
分かっていないふりをしている。
絶対に分かっている。
ギルはレアを軽く睨んでから、妙に増えた部屋の人数を見回した。
レティシア。
ダリア。
レア。
いや、こいつは人じゃないけど。
そしてリエリエールと、その専属使用人。
静かだった自室が、また少し賑やかになる。
面倒事も増えるだろう。
上層部への説明も必要だ。
父上にどう伝わるかも考えなければならない。
それでも、ひとまず今は、帰って来た。
マバール城に。
自分の部屋に。
そして、引き受けた女を、ここまで連れて来た。
ギルは息を吐き、肩の力を抜いた。
「とりあえず、茶をくれ」
レティシアが静かに頷く。
「すぐに」
その声を聞いた瞬間、ようやく本当に帰って来た気がした。