作品タイトル不明
第七十八話 瀟洒な館
小都市の外れに、その館はあった。
大きくはない。
だが、門をくぐった瞬間、ギルは少しだけ目を細めた。白に近い淡い壁は夜の灯りを柔らかく受け、窓枠には細い装飾が走っている。庭も広すぎず、低い植え込みと石畳の線が無駄なく整えられていた。威圧するための館ではない。金を見せつけるための館でもない。招かれた者へ、ここは雑に扱う場所ではないと静かに示すような、そんな整い方だった。
うーん。
こういう洒落た館は、帝国にはかなわんなぁ。
マバール領にも立派な建物は多い。城も館も砦も、役割を果たすという意味では十分に優れている。だが、基本的にゴツい。分厚い。重い。飾りを入れるにしても、どこか実用が先に立つ。辺境伯家としては正しいし、ギル自身も嫌いではないのだが、こうして帝国貴族の館を見せられると、なるほど文化の方向が違うのだと少し悔しくなる。
馬を預ける間も、ギルは帝国の建築様式を楽しませてもらった。
だが、感知魔法は薄く展開している。
館の中に、魔力反応がいくつもあった。貴族らしい反応が二つ。騎士の反応が数人分。平民は拾えないが、使用人がいないはずもない。つまり、この館は静かに見えて、必要な者だけを絞って置いている。
セバスチャンも気づいているはずだった。
老騎士は馬から降り、何気ない顔で外套を整えた後、ギルへちらりと視線を寄越した。口元がわずかに動く。笑ったように見えた。
まったく、荒事好きなじじいだ。
ギルは案内役に聞こえない程度の声で言った。
「セバス。こちらから手を出すなよ」
セバスチャンは苦笑した。
「青二才じゃねぇんですから、分かってますよ」
「ならいい」
このじじいが、本当に分かっていないはずはない。戦場で生きた時間が違う。だが、分かっているのと、少し楽しそうにするのは別なのだ。そこが厄介だった。
案内役は深く詮索する様子もなく、静かに頭を下げた。
「お客様、こちらへ」
名前は呼ばれない。
当然だ。
この館へ王国貴族であるマバール家の人間が来たことを、案内する程度の者へまで広げる必要はない。エレオノーラが用意した場なら、そのあたりを雑に扱うはずもなかった。
館の中は、外から見た印象と同じく落ち着いていた。廊下に置かれた燭台は多すぎず、壁も決して派手ではない。けれど、足音が吸われる敷物の厚みや、角に置かれた小さな台の磨かれ方に、使われている金と手間が見える。
階段を上がる途中で、ギルは感知魔法の意識を少しだけ絞った。
二階の奥。
案内役が向かっている部屋の中に、反応は二つ。
一つは貴族。
一つは騎士。
貴族の方は、覚えのある揺れ方をしていた。
エレオノーラ殿だな。
過去に何度も近い距離で接した相手の魔力反応だ。姿形が分かるわけではない。表情が分かるわけでもない。ただ、魔力の癖は人によって違う。今、扉の向こうにいる貴族の反応は、ギルの記憶にあるエレオノーラのものと重なった。
案内役は落ち着いた装飾の扉の前で止まる。
「お待ちのお客様をお連れしました」
「お通しして」
扉の向こうから、聞き覚えのある声が返った。
案内役が扉を開く。
室内には、やはりエレオノーラがいた。
青いドレスを着て、椅子から立ち上がっている。以前マバール城で見た時よりも装いは軽いが、薄く重ねられた布の色合いはよく計算されていた。部屋の灯りを受けて、青が濃くも淡くも見える。控えめなのに目を引くあたり、相変わらず見事だった。
その少し後ろに、一人の騎士が立っている。
三十代半ばほどの男だろうか。肉厚で、肩も胸も厚い。立ち方に無駄が少なく、ただの飾りではないのが分かる。もちろん、ギルから見れば相手にならない。だが、だから警戒しなくていいという話ではなかった。
ギルは笑みを作った。
「失礼いたします」
「お久しぶりです、ギルバート様」
エレオノーラが頭を下げる。
ギルも軽く礼を返した。
「今夜はお招きいただきありがとうございます、エレオノーラ殿」
以前から続く距離感を崩さず、必要以上に近づきもしない。
「どうぞ、お掛けください」
「では、失礼して」
ギルは勧められた席へ座った。
セバスチャンは少し後ろへ控える。エレオノーラの背後にいる騎士も動かない。部屋にいる全員が、自分の立つ位置を分かっている。そういう静けさがあった。
エレオノーラは席へ戻ると、使用人を呼ばず、自ら茶器へ手を伸ばした。
白い指が蓋を取り、湯気が立つ。茶葉の香りが、室内の燭の匂いに混ざった。ギルは黙ってそれを見る。彼女が自分で茶を淹れるということに、歓迎の形がある。こちらがそれを受けるかどうかにも、意味が生まれる。
うーん。
エレオノーラ殿も、相変わらず見事だなぁ。
ギルは微笑みを崩さないまま、視線を逸らしすぎず、向けすぎずに保った。ドレスの胸元は品よく整えられている。隠しているのに、形の良さまでは隠しきれていない。
大きさではレティシアの方が上だ。
それは間違いない。
だが、胸の価値は大きさだけで決まるものではない。張り、形、布越しに分かる柔らかさ、腰や肩との釣り合い。そういう総合点がある。
いや、何を真剣に採点してるんだ俺は。
とはいえ、真剣に考えた結果、やはりレティシアの方が上だった。
「どうぞ」
エレオノーラが茶を勧める。
「ありがとうございます」
ギルは器を取り、少しだけ口をつけた。
柔らかな香りが舌に広がる。苦みは強すぎず、後から細い芯のような渋みが残る。悪くない。いや、かなり良い。
「どうですか? お気に入りましたか?」
「ええ。柔らかいのに芯がありますね。気に入りました」
エレオノーラの口元がわずかに緩んだ。
「それはよかったですわ」
歓迎は受け取った。
こちらも信頼の形を返した。
うむ、貴族的な会話だなぁ。
こういう時、前世の会社員感覚が少しだけ顔を出す。挨拶、茶、言葉の選び方、笑みの深さ。全部が議事録に残らないやり取りだ。だが、ここではそれこそが本題に入る前の地ならしになる。
ギルは器を置き、穏やかに尋ねた。
「お元気でしたか?」
エレオノーラはすぐには答えなかった。
指先が茶器の縁へ触れる。ほんの短い間だ。だが、その沈黙だけで、何もないわけではないと伝わる。
「少し疲れました」
「それは」
ギルは少し眉を下げた。
「何かお悩みでも?」
直前の言葉を受けて尋ねる。踏み込みすぎず、しかし避けすぎもしない。エレオノーラは視線を伏せ、茶の表面を見た。
「ちょっとした知り合いが、誰にも告げずに旅へ出てしまいまして」
ふむ。
アバルディア家が察知する前に、メガレア家長男は動いたのか。
もちろん、エレオノーラは名を出していない。知り合い、と言っただけだ。旅、とも言った。だが、このタイミングでそれを話す相手が他にいるとは思えない。
「それはお困りでしょう」
「ええ。困ったものです」
「私に手伝える事があれば、ご遠慮なくおっしゃってください」
困っているなら手伝う。
言葉だけなら、ただの親切だ。
エレオノーラは顔を上げた。青い瞳が、灯りの揺れを小さく映している。
「ギルバート様にそう言っていただけると心強いですわ」
お願いします、という返事だな。
ギルは茶をもう一口飲んだ。焦る必要はない。ここで急に声を低めたり、物騒な言葉を出したりすれば、それこそ全部が台無しになる。
エレオノーラも同じように茶を飲む。
しばらく、器を置く小さな音だけが部屋に落ちた。
「実は」
彼女が言った。
ギルは静かに視線を向ける。
「その知り合いとは、もう会えないような予感がして」
おぉ。
結構踏み込んだな。
もう会えない。つまり、戻ってきてほしくない。もっと言えば、この先どこかで消えてほしい。そう受け取ってもおかしくない言い方だった。
もちろん、断定はできない。エレオノーラはまだ何も直接言っていない。ただの予感だ。だが、彼女がここでわざわざ言う予感など、ただの感傷ではない。
「それは心配でしょう」
ギルは柔らかく返した。
「分かりました。私自ら探しましょう」
これで通じるよな。
俺が動く。
他人任せにしない。
そう言ったつもりだ。
エレオノーラは目を細め、ほんの少しだけ息を吐いたように見えた。安堵かどうかまでは断定は出来ない。ただ、張っていた糸が少し緩んだようには見えた。
「まぁ。ギルバート様自ら動いてくだされば、家の者も安心ですわ」
家の者も、か。
ギルは内心で頷く。
アバルディア家としても、俺が動くことを了承している。少なくとも、エレオノーラ個人の思いつきではない。そう伝えてきたのだろう。
「ええ」
ギルは笑みを崩さなかった。
「国境近くは、変わった山賊なども出ますから」
言ってから、少しだけ思う。
あんまり含みになっていなかったかな。
謎の上品な赤布の山賊が、本来なら襲われるはずのない強い貴族を襲うかもしれませんよ、という意味なのだが、言い方としては少し雑だったかもしれない。
エレオノーラは小さく微笑んだ。
「そんな山賊が居ては、もう見つからないかもしれませんね」
なるほど。
見つからないようにしてね、ということだな。
「私も出来るだけ早く動きますので、ご安心ください」
とっとと処理して、誰にも見つからないようにする。
言葉にはしない。
言葉にしないから、この場は成り立つ。
エレオノーラは静かに頷いた。背後の騎士は動かない。セバスチャンも口を挟まない。ただ、後ろから妙に機嫌の良さそうな気配がする。やめろ。今は楽しむ場面じゃない。
ギルは茶器を戻し、指先を膝の上で軽く重ねた。
ここまでで、本題の一つは終わった。
だが、エレオノーラはまだ視線を外さない。
「実は、もう一つお願いがあるのです」
ん?
ギルは表情を変えなかった。
今の言い方には、さっきまでのような危ない遠回しさが薄い。少なくとも、同じ種類の話ではなさそうだった。
「なんでしょう。私に出来る事なら、ご遠慮なさらずに」
「実は、その知り合いの知人が、心配してこの館まで来ているのです」
知り合いの知人。
ギルは茶の香りを吸いながら、頭の中で言葉を転がした。
長男の関係者か。
もう一つある貴族反応のことだろう。館の中にいた二つの貴族反応。そのうち一つがエレオノーラなら、残る一つは別室にいるはずだ。
「ほう。それは心優しい方ですね」
無難に返す。
分からないことを分かったふりで踏み込むのは危ない。ここは相手に続けてもらおう。
「ええ」
エレオノーラは微笑んだ。
「彼女はとても心優しく、美しいんです」
彼女。
女か。
「その方は、その知り合いしか頼る方がいなくて、不安がってしまって」
ああ、なるほど。
長男の女だな。
ギルは、ようやく形が見えた気がした。メガレア家長男が動いた。王国側へ亡命を求めた。帝国内では、その立場に近かった女も当然、危うくなる。長男しか頼れない女なら、後ろ盾を失えば扱いに困る。貴族の女は保護するにも、捨てるにも、使い道を誤ると火種になる。
そして、それをこの場で出す。
つまり、報酬ってことだよなぁ。
楽しみのような。
面倒なような。
微妙だ。
女性貴族は貴重と言えば貴重だ。血筋も、情報も、価値もある。もちろん、好みかどうかは別問題だが。
好みじゃなかったら父上に押し付けるか。
いや、ひどいな俺。
でも父上ならうまく処理してくれる気もする。
ギルは内心の雑さを顔に出さず、ゆっくりと首を傾けた。
「その方は、この場へ?」
「今は別の部屋で休んでおります」
「なるほど」
すぐ会わせるとは言わないのか。
なら、エレオノーラとしても、まだこちらの反応を測っているのだろう。いきなり女を連れてきて、どうぞ受け取ってください、では露骨すぎる。まして相手が貴族なら、物のように扱うにも作法が要る。
「不安がっている方を、無理に動かすのはよくありませんね」
ギルは言った。
「まずは落ち着かれるのを待つべきでしょう」
エレオノーラの目が、少しだけ柔らかくなったように見えた。
「お優しいのですね」
「どうでしょう」
ギルは苦笑する。
「私は、目の前で怯えられると困るだけかもしれません」
「それでも、困ると思ってくださるのでしょう?」
「まあ、そうですね」
これは本音に近い。
恐怖で固まった女を渡されても扱いにくい。情報も取れない。こちらに懐かない。そんなものは報酬というより手間だ。なら、せめて落ち着かせてからの方がいい。
それに、女である。
雑には扱いたくない。
少なくとも、今のところは。
「その方は、私がお会いしても問題のない立場なのですか?」
ギルは、少しだけ踏み込んだ。
直前の話題を受けている。相手が長男の関係者なら、会うこと自体に意味が生まれる。そこを確認せずに受けるのは危ない。
エレオノーラは一度だけ茶器へ視線を落とした。
「問題がない、とは申し上げにくいですわ」
だろうな。
「ですが、このまま帝国内に残す方が問題は大きくなると、私は考えております」
私は、か。
家の総意とは言っていない。
だが、エレオノーラがこの場で言う以上、完全な独断でもないだろう。
「その方は、私に何を望んでいるのでしょう」
「安心できる場所を」
エレオノーラは即答しなかった。ほんの少し間を置いてから、言葉を選んだように続けた。
「そして、もう一度、自分の価値を失わずに済む場所を」
価値。
ギルはその言葉を聞いて、茶の温かさを舌の上で転がした。
貴族女性の価値は重い。誰の庇護下にあるか、誰へ渡るか、誰の子を産むか。綺麗事だけでは済まない。むしろ、綺麗事だけで扱う方が失礼になることもある。
「難しいお願いですね」
「承知しております」
「私も、私一人ですべてを決められる立場ではありません」
「ええ」
エレオノーラは静かに頷いた。
「ですが、ギルバート様がまず受け止めてくだされば、道は開けると思っております」
また俺か。
便利な三男坊、ここでも便利に使われてるなぁ。
ギルは笑みを深めた。嫌ではない。面倒ではある。だが、こういう面倒を捌けなければ、自分の今の生活も守れない。
レティシアとダリアの顔が頭に浮かぶ。
いや、これを持ち帰った時の説明がまた面倒だな。
レティシアはたぶん静かに聞く。静かに聞いた上で、必要なことだけを確認してくる。ダリアは少し呆れるかもしれない。レアはたぶん関係なく指をつつく。
うん。
やっぱり面倒だ。
「まずは、お会いしてから判断しましょう」
ギルは言った。
「ただし、今すぐではなくて構いません。こちらも急に怯えた方を見て、良い判断ができるとは限りませんから」
エレオノーラは微笑んだ。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことはまだしていませんよ」
「そうでしょうか」
彼女は茶器を持ち上げた。
「私には、十分ありがたいお言葉でした」
ギルも茶器を取る。
互いに口をつける。
温かい茶が喉を通り、室内の沈黙が少しだけ柔らかくなった。
これで、二つ目の話も受けた形になる。
メガレア家長男を探す。
見つからないようにする。
そして、長男の近くにいたらしい女を受け取るかもしれない。
なんだこれ。
夜にこっそり館へ呼ばれて、やることが山賊と女の引き取り相談って。
貴族社会、ほんとろくでもないな。
だが、不思議と嫌いではない。
ギルは器を置き、エレオノーラを見た。
「エレオノーラ殿」
「はい」
「その知り合いの旅路について、こちらで探すにしても、多少の手掛かりは必要になります」
エレオノーラの表情が少しだけ改まった。
「分かっております」
「急ぎすぎて見落とせば、余計に見つけにくくなりますからね」
「ええ。後ほど、私から分かる範囲でお渡しいたします」
分かる範囲。
つまり、全てではない。
アバルディア家にも出せない情報がある。出したくない情報もある。こちらも、すべてを聞くわけにはいかない。
「助かります」
ギルはそう答えた。
これ以上、この場で深掘りしない方がいい。今は合意の輪郭だけで十分だ。具体は紙か、別の者か、あるいはもっと安全な形で渡されるのだろう。
ふと、背後のセバスチャンがほんのわずかに重心を変えた気配がした。
ギルは気づいたが、振り返らなかった。
館の中の騎士反応は動いていない。外にも急な動きはない。なら、老騎士の反応は警戒ではなく、会話の区切りを感じ取ったものだろう。
エレオノーラも立ち上がらない。
まだ終わりではないらしい。
「ギルバート様」
「はい」
「今夜ここへ来てくださったこと、感謝いたします」
「こちらこそ、良い茶をいただきました」
「茶だけで済めばよかったのですが」
「貴族の夜会で、茶だけで済むことは少ないでしょう」
エレオノーラは小さく笑った。
疲れはある。
だが、先ほどよりは少しだけ顔色がましに見えた。
ギルはその変化を、断定せずに眺める。彼女が本当に安心したのか、ただそう見せているのかは分からない。だが、少なくともこの会話は失敗していないはずだった。
「では、その心優しい方については、落ち着かれた頃に」
「はい。ご迷惑をおかけします」
「迷惑かどうかは、会ってから考えます」
「ギルバート様らしいお言葉ですわ」
「そうですか?」
「ええ」
エレオノーラは微笑む。
「優しいようで、ずいぶん現実的ですもの」
ギルは肩をすくめた。
「現実的でなければ、辺境では生きにくいですから」
これは、余計な飾りのない本音だった。
エレオノーラはそれ以上踏み込まなかった。代わりに、もう一度だけ茶を勧める。ギルはそれを受け、短い沈黙の中で飲んだ。
茶は、最初より少し冷めていた。
それでも芯のある味は残っている。
柔らかいのに、簡単には崩れない。
なるほど。
エレオノーラ殿らしい茶だな。
ギルはそう思い、少しだけ笑った。