作品タイトル不明
第七十七話 夜を駆ける牙
夜の街道を、二頭の馬が駆けていた。
月は出ている。
だが明るい夜ではない。薄い雲が流れ続けていて、月光は時折ぼやけ、街道脇の林へまだらな影を落としている。湿った夜気が頬を撫で、土と草の匂いが高速で後ろへ流れていった。
馬の息は荒い。
蹄が地面を叩く音も重い。
それでも速度は落ちない。
いや、普通ならとっくに潰れている速度だった。
ギルは馬上で手綱を握ったまま、薄く肉体強化魔法を維持していた。
自分へ。
そして馬へ。
筋肉の奥へ流し込むように魔力を通し、呼吸、脚、視界、反応速度を底上げする。全身の感覚がわずかに鋭くなり、暗闇の輪郭が昼より少し鈍い程度まで浮かび上がっていた。
街道脇の木。
湿った轍。
遠くの岩。
夜露を吸った草。
全部見える。
完全に昼間みたい、というわけではない。色は薄いし、細部もぼやける。だが、少なくとも馬を全力で走らせるには十分だった。
隣を走るセバスチャンも同じだ。
あのクソじじい、年齢のわりに普通に付いてきやがる。
しかも、まだ余裕がある。
馬上姿勢がまるで崩れない。
背を丸めるでもなく、力むでもなく、ただ当然みたいな顔で夜道を駆けている。風に煽られた灰混じりの髪が揺れ、傷だらけの横顔へ月明かりが薄く落ちていた。
「若い頃なら、もっと飛ばせたんですがな」
「まだ飛ばせるのかよ」
「若様が飛ばせるなら付き合いますぜ」
「やめとけ。馬が保たん」
言いながら、ギルは前方へ視線を戻した。
街道は帝国側へ向かって伸びている。
昼間なら荷車や商人の姿もあるのだろうが、今は静かだった。遠くで虫が鳴き、風が木々を揺らす音だけが断続的に耳へ届く。
今回の会談場所は、国境近くにある帝国の小都市。
エレオノーラ側から指定された場所だった。
最初に聞いた時、なるほどな、と思った。
村では駄目だ。
貴族が複数集まれば、それだけで目立つ。騎士まで動けばなおさらだ。逆に大都市だと、人が多すぎる。密偵も紛れ込みやすいし、誰が誰を見ているのか分からなくなる。
その点、指定された小都市はちょうどいい。
人はいる。
荷も動く。
宿もある。
だが、大都市ほど目立たず、管理も比較的しやすい。
たぶん、そういう判断だ。
それに、エレオノーラ側は最初から少人数接触を望んでいた。
こちらの同行はセバスチャンのみ。
直属騎士たちは置いてきている。
危険はある。
あるが、まあ、どうにでもなるだろうとも思っていた。
エレオノーラ個人については、ある程度信用している。
少なくとも、ここで俺を殺そうとして得する立場ではない。
それに。
多少の貴族や騎士程度なら、別に問題ない。
その辺りの自信は、もうかなり現実的になっていた。
以前なら慢心だったかもしれない。
だが今は違う。
実際に戦って、殺して、壊して、感知魔法で騎士たちを捉えながら走ってきた。自分がどの程度やれるのかも、少しずつ分かってきている。
だから今回も来た。
……まあ、そのせいで。
出発前は、かなり面倒だったのだが。
「危険です」
レティシアは珍しく、かなり強い口調だった。
部屋の中にはそろそろ夜の静けさが落ちてきている。机の上では灯りが揺れ、窓の外には城壁の影が沈んでいた。
その中で、レティシアだけが妙にはっきりこちらを見ていた。
「帝国側です。しかも、相手側指定の場所でございます」
「だから少人数なんだろ」
「だからこそです」
即答だった。
普段より少し低い声。
隣ではダリアも黙っていたが、表情はかなり硬い。
「若様ほどの魔力なら隠し切れません。相手側も当然それを理解しています」
「まあ、理解はしてるだろうな」
「でしたら」
「逆に、分かった上で来るなら、大規模な待ち伏せはしにくい」
ギルは肩を竦めた。
「貴族同士の会談で、いきなり何十人も伏せてたら、さすがに後が面倒だろ」
「それでも危険です」
「危険じゃない国境会談なんてあるか?」
言うと、レティシアはわずかに口を閉じた。
その反応を見ながら、ギルは小さく息を吐く。
もちろん、心配しているのは分かる。
分かるのだが。
だからといって、行かないという選択肢もなかった。
エレオノーラ側が、わざわざ非公式接触を続けている理由は明白だ。表で動けないからだ。だったらこちらも、ある程度は応じる必要がある。
それに。
正直、興味もあった。
誰が来るのか。
何を話すのか。
帝国内部が今どこまで崩れているのか。
その辺りは、実際に見たい。
ダリアが静かに口を開く。
「……本当に、セバスチャン様だけで行かれるのですか」
「ああ」
「オルド様たちも連れて行った方が……」
「人数が増えると、向こうが警戒する」
ギルは椅子の背へ身体を預けた。
「今のところ、少人数接触って建前で動けてるんだ。ここで騎士をぞろぞろ連れて行くと、次から全部面倒になる」
ダリアは黙った。
納得した、というより、反論を飲み込んだ感じだった。
レティシアもまだ不満そうだ。
まあ、そりゃそうか。
ギルは少し考えてから、立ち上がった。
「大丈夫だ」
言いながら、レティシアへ近づく。
細い肩へ手を回すと、レティシアは小さく息を飲んだ。
「俺を誰だと思ってる」
「……若様です」
「そうだ。凄い若様だ」
「自分で言いますか」
「言う」
ギルは笑った。
「それに、エレオノーラ側も馬鹿じゃない。ここで俺をどうにかしたら、マバール家と完全に敵対する」
「ですが」
「本気で俺を殺しに来るなら、貴族が百は要るぞ」
レティシアの髪へ指を通しながら言う。
その横で、ダリアが少し困った顔をしていた。
いや、困ったというか。
なんか察している顔だ。
そこから先は、正直、説得だったのか何だったのか、自分でもよく分からない。
レティシアを抱き寄せたら、ダリアも離れられなくなって、気づけば寝台の方へ移動していて、途中からは「危険です」とか「お気をつけて」とか「本当に無茶をなさらないでください」とか、そういう言葉を何度も聞いた気がする。
たぶん説得はした。
かなり熱心に。
最終的には二人とも疲れ切って眠っていたので、納得はしてくれたのだと思う。
女を抱くと腰が抜ける、みたいな話を前世で聞いたことがある気もするが、俺の場合はむしろ抱いた後の方が妙に調子がいい。
真の漢に、また一歩近づいた気がする。
「レティシア嬢やダリア嬢が、よく納得してくれましたな?」
隣から飛んできた声に、ギルは現実へ引き戻された。
「俺の熱意が通じたのだ」
「ははぁ」
セバスチャンが妙な顔で笑う。
絶対分かってる。
このクソじじい、絶対全部分かってる。
だが、あえてそこへ踏み込んでこない辺りがセバスチャンだった。
そのまましばらく走り続ける。
やがて、前方の暗闇に小さな灯りが見え始めた。
指定された小都市だ。
城壁の輪郭もぼんやり浮かんでいる。
ギルは手綱を軽く引き、速度を少し落とした。
同時に、感知魔法を展開する。
意識を外側へ拡げていく感覚。
自分を中心に、魔力の反応が浮かび上がっていく。
点。
大小の点。
距離。
強弱。
動き。
街の中に、いくつもの反応がある。
平民は映らない。
だから空白も多い。
その中で、強い反応が二つ。
さらに周囲へ散った騎士反応。
ギルは目を細めた。
「……貴族が二人か」
「ほう」
「騎士もいるな」
反応の一つに覚えがある。
以前感じたエレオノーラの魔力に近い。
完全に同じとは言わない。感知魔法で分かるのは魔力反応だけだ。顔も姿も見えない。だが、近い。
たぶん本人だ。
もう一つは知らない反応。
少し警戒する。
だが、二人なら問題ない。
「騎士は何人ですかい?」
「二十」
セバスチャンがわずかに眉を動かした。
「ちと騎士の数が多いですな」
「怖いなら帰っていいぞ」
「舐めんでください」
傷だらけの口元がにやりと歪む。
ギルも笑った。
夜風が二人の赤布を揺らしていく。
小都市へ正面から入ることはしなかった。
城門近辺には普通に門番たちがいる。夜間閉鎖もされているだろうし、わざわざ正面を通る理由がない。
ギルたちは速度を落としたまま、城壁沿いを回った。
湿った石壁が夜気を吸っている。
ところどころ苔が生え、細い水路の音も聞こえた。街の内側からは酒場らしい笑い声が遠くに漏れているが、外壁沿いは静かだった。
「確か、この辺りのはずだが」
ギルが周囲を見回した時だった。
「若様」
セバスチャンが顎を動かす。
「あそこにおりますぜ」
少し先。
城壁の影に、男が立っていた。
平民。
魔力反応はない。
だから感知魔法にも映っていなかった。
ギルは小さく鼻を鳴らす。
「若様もまだまだですな」
「歳の割には目がいいな」
「若様ほど化け物じゃありませんので」
男はこちらへ気づくと、軽く頭を下げた。
無駄口は叩かない。
薄汚れた外套を羽織り、灯りも持っていない。だが、足取りには迷いがなかった。
ギルとセバスチャンは馬を降りる。
手綱を引きながら男の後へ続くと、城壁沿いの細道へ入った。
近づくにつれ、小さな門が見えてくる。
荷運び用だろうか。
人が二人も並べば窮屈になる程度の幅しかない。分厚い木扉の片側だけが細く開いていて、その隙間から橙色の灯りが漏れていた。
男が短く合図を送る。
内側で金具の擦れる音。
扉が少しだけ広がった。
ギルは一瞬だけ感知魔法を拡げ直す。
けっこう近い。
貴族反応が二つ。
騎士反応も散っている。
建物の位置までは分からないが、こちらを囲める距離にはいる。
まあ、当然か。
ギルは赤布の奥で笑った。
「行くぞ、セバス」
「へい」
二人は馬を引いたまま、小さな門から帝国側の小都市へ足を踏み入れた。