作品タイトル不明
第四十八話 迷宮前夜
帝国から帰還して三日。
ギルはかなりゆっくりしていた。
生産拠点へ少し顔を出し、調理場へ行って揚げ芋をつまみ食いし、ダリアと茶を飲み、レティシアとイチャイチャし、さらにレティシアとイチャイチャした。
実に有意義な三日間だった。
特にレティシアとの時間が素晴らしかった。
うむ。
本当に素晴らしかった。
少し長くなりすぎた気もする。
いや、かなり長かったかもしれない。
途中からレティシアが日常業務へ出られなくなった日もあったし、ダリアに冷たい目で見られたりもした。
だが問題は全くない。
レティシアが最高だった。
それが全てだ。
ギルは中庭へ向かいながら、一人満足げに頷いた。
朝の空気は少し冷たい。
空は高く晴れ、城壁の向こうから吹く風が髪を揺らす。兵たちはすでに朝の訓練を始めていて、木剣のぶつかる音や怒鳴り声が遠くから聞こえていた。
中庭にはすでに何人か集まっている。
セバスチャン。
オルド。
ジノ。
クレイン。
トール。
その他、帝国遠征へ同行した騎士たち。
ダリアはいない。
今はまだ城内側だ。レティシアと一緒にいるはずで、こういう集まりへ出すつもりはなかった。
「若様」
セバスチャンが片手を上げた。
「待っておりやした」
「うむ」
ギルは頷き、中庭の中央付近で足を止めた。
騎士たちの視線が集まる。
帝国帰還後、初めてのまともな集合だ。空気は軽いが、どこか期待も混じっている。こいつらは荒事が好きなのだろう。
まあ、俺も嫌いではない。
「父上より、迷宮探索の許可をいただいた」
一瞬静まり、それから軽い歓声が上がった。
「おお」
「ようやくですな」
「迷宮か」
若い騎士たちの顔が少し明るくなる。
迷宮。
魔力持ちの男にとって、分かりやすく胸が躍る場所だ。魔物、未知、戦い、資源。危険もあるが、それ以上に魅力がある。
セバスチャンが顎を撫でた。
「ふむ。迷宮の規模にもよりやすが、人数はちと絞った方がいいでしょうな」
「ああ」
「どこを狙いますかい?」
ギルは少し胸を張った。
ちゃんと調べていたのだ。
ただレティシアを愛でていただけではない。
もちろん、実際にはレティシアがかなり調べてくれた。資料を集め、危険度を確認し、移動日数まで整理してくれている。
半分どころか、かなり助けられている。
だが、そこは内緒だ。
「領都から五日ほど行ったところにある迷宮だ」
セバスチャンがすぐに反応した。
「あそこですかい」
「知っているのか」
「もちろん」
セバスチャンは鼻を鳴らした。
「大した資源はありやせんし、魔物もそこそこ。最初の肩慣らしにはちょうどいいでしょうな」
「うむ」
ギルも頷いた。
最初から深い迷宮へ行くつもりはない。
俺は迷宮そのものが初めてだし、他の連中も帝国遠征から戻ったばかりだ。まずは感覚を掴む方がいい。
「ダリア嬢はどうしやす?」
セバスチャンが聞いた。
ギルは少し考えるように腕を組む。
「ダリアは、しばらくレティシアへ預けるつもりだ」
「ほう」
「城内の仕事というか、俺の仕事のやり方に慣れてもらわないといけないからな」
ギルはそこで、ふと思い出した。
あの赤い服。
帝国で買ったやつだ。
何度か勧めた。
かなり勧めた。
だが、ダリアは一回も着なかった。
うーむ。
もったいない。
絶対似合うと思うのだが。
まあ、別に叱られたりはしないだろう。
たぶん。
セバスチャンがニヤリとした。
「若様のお仕事、でございますか」
「何だその顔は」
「いえ別に」
「絶対に何か思っているだろ」
「気のせいでさぁ」
腹立たしい。
だが、今さらこのじじいに何を言っても無駄だ。
ギルは咳払いした。
「準備して、明日には出発するつもりだが問題ないか?」
「問題ありやせん」
即答だった。
騎士たちも頷いている。
迷宮探索は遠征ほど大掛かりではない。数日程度なら、今日から準備しても十分間に合う。
「では装備を見に行くぞ」
一行はそのまま城内倉庫へ向かった。
マバール城の倉庫は広い。
武器、防具、予備の道具、遠征用の荷、訓練器具。様々な物が整理され、厚い木箱や棚に並べられている。油と革と金属の匂いが混じり、足音が石床へ低く響いた。
管理役の男がギルたちを見ると、すぐに頭を下げる。
「若様」
「迷宮用の装備を見る」
「すぐに用意いたします」
倉庫の奥から、何人かが装備を運び出してきた。
軽めの鎧。
革を重ねたもの。
金属板を組み込んだもの。
動きやすさを重視した作りが多い。
ギルは一つを持ち上げた。
重すぎない。
だが、弱くもない。
迷宮では狭い通路もあると聞く。重装備すぎると動きが鈍る。
「これくらいが良いでしょうな」
セバスチャンが言う。
「迷宮は足場も変わりやすい。動ける方が大事でさぁ」
「ふむ」
ギルは頷いた。
剣もいくつか確認する。
長剣。
短剣。
厚刃。
細身。
ギルは少し短めで厚刃の剣を手に取った。
振る。
悪くない。
「迷宮内ではこれくらいが扱いやすいかと」
クレインが言った。
「狭い場所では長すぎると引っかかります」
「なるほど」
ギルは感心した。
こういう経験は、やはり実際に潜った者の方が詳しい。
「遠距離用はどうする?」
ギルが聞く。
オルドが肩を竦めた。
「弓も持って行きますが、主力は魔法でしょうな」
「まあ、そうだな」
騎士たちは全員魔力持ちだ。
攻撃魔法も使える。
遠距離戦そのものは問題ない。
ただし、ギルほどの規模ではない。
魔力量も魔力強度も違いすぎる。
それでも迷宮程度なら、普通の攻撃魔法で十分対応可能だろう。
「感知役はどうする」
「複数で回しましょう」
トールが答える。
「一人に負担を集中させるより安全です」
「そうか」
ギルはまた感心した。
迷宮はただ潜るだけではない。
役割分担が重要なのだろう。
装備選びは続いた。
縄。
予備の短剣。
携帯食。
水袋。
簡易治療用の道具。
そして外套。
ギルは外套を見て眉を寄せた。
「迷宮内で外套なんかいるのか?」
セバスチャンが鼻を鳴らした。
「迷宮内で雨が降る事もありやすからね」
「雨?」
「ええ」
「地下なのにか?」
「地下とは限りやせんよ」
ギルは少し黙った。
そういえば、迷宮について詳しく聞いたことがない。
前世のゲームみたいな石造り地下迷宮をなんとなく想像していたが、実際は違うのかもしれない。
「迷宮ごとに違いやす」
セバスチャンが続ける。
「洞窟みてぇな場所もありゃ、森みてぇな場所もある。水場が多いところもありやすし、空が見えるような場所すらある」
「意味が分からんな」
「みんなそう言いやす」
騎士たちが小さく笑った。
ギルは外套を手に取りながら考える。
迷宮。
ますます興味が湧いてきた。
「まあ、こんなところですな」
セバスチャンが装備を見回した。
「細けぇもんは店に用意させておきやす」
「店?」
「城下の馴染みでさぁ。保存食やら油やら細かいもんをまとめて揃えられやす」
「なるほど」
「明日、出発してから受け取りに行きやしょう」
ギルは頷いた。
「誰を連れて行く?」
「半分ほどでいいでしょう」
セバスチャンは即答した。
「多すぎても動きづれぇ」
「残った者たちは?」
「決まってるでしょう」
セバスチャンがニヤリとした。
「訓練ですよ」
騎士たちの顔が少し歪む。
「鈍ったやつもおりやすからね」
「そうか」
ギルはちょっと同情した。
帝国遠征へ行った連中も疲れているが、残った側も楽ではない。むしろ訓練漬けになるなら、残留組の方が大変かもしれない。
「同行はどうしやす?」
セバスチャンが確認する。
ギルは騎士たちを見回した。
「オルド」
「はっ」
「クレイン」
「はい」
「トール」
三人が順に返事をする。
さらにもう一人、中堅の騎士を選ぶ。
「お前も来い」
「はっ!」
「セバスチャンも当然来るだろ」
「もちろんでさぁ」
ギルは頷いた。
「ジノは残れ」
ジノが少し肩を落とした。
「訓練教官役だ」
「……承知しました」
周囲が少し笑う。
ジノは不満そうだが、命令には従う。
「その年で迷宮探索なんて大丈夫か?」
ギルがセバスチャンをからかう。
セバスチャンは肩を鳴らした。
「なに、まだまだ若ぇもんに負けやしやせん」
「口だけじゃないだろうな」
「試してみやすか?」
「遠慮しておく」
ギルは苦笑した。
まあ、このじじいなら大丈夫だろう。
帝国遠征でも普通に暴れていたし、年齢を理由に弱る気配がない。
「では、明日朝出発するぞ」
「はっ!」
騎士たちが応じる。
そのまま解散となった。
ギルは一度、自室へ戻ることにした。
廊下を歩き、扉の前まで来る。
中から声が聞こえた。
レティシアだ。
ダリアもいる。
ギルは少しだけ扉を開け、そっと中を覗いた。
レティシアとダリアが向かい合って座っている。
二人ともメイド服だ。
レティシアの白い肌と整った金髪。
ダリアの褐色肌と灰色の髪。
並ぶとかなり目立つ。
そして、かなり良い。
ギルは少し満足した。
「若様のお茶ですが」
レティシアが説明している。
「朝は少し熱めを好まれます。ただし、書類を読んでいる時は温度を少し落としてください」
「なぜですか?」
「熱すぎると飲むのを忘れる事があります」
「なるほど」
ダリアが真面目に頷く。
ギルは扉の外で少し複雑な顔になった。
いや、忘れる時はあるけど。
「布の畳み方はこちらです」
レティシアが実演する。
「若様はあまり細かいところを気にされませんが、雑すぎると微妙なお顔をされます」
「微妙なお顔」
「はい」
ダリアが小さく頷いた。
何だそれは。
ギルは黙って聞く。
「あと、机周りは特に注意してください」
レティシアの声が少し真剣になった。
「ただ片付ければ良い訳ではありません」
「はい」
「ある程度、散らかしておく必要があります」
「散らかす?」
「はい。あまり綺麗に整えすぎると、若様のやる気が削がれる事があります」
ギルは眉を寄せた。
そんな事はないぞ。
……いや、あるかもしれない。
綺麗すぎる机を見ると、何か触りたくなくなる時はある。
思い当たる節があった。
「書類も積みすぎてはいけませんが、整列させすぎてもいけません」
「難しいですね」
「慣れです」
レティシアは淡々としている。
かなり真面目に教えている。
ギルは何とも言えない気分になった。
「若様が黙っている時は、あまり話しかけない方が良いです」
「考え事ですか?」
「はい」
レティシアは少し間を置いた。
「真面目な事を考えているか、すごく不真面目な事を考えている時です」
ギルは扉の外で少し傷ついた。
ひどくないか。
「見分け方はありますか?」
「あります」
あるのか。
「膝を指で軽く叩き始めた時は、悩んでいる事が多いです」
「その時は?」
「そっと新しいお茶を出してください」
「はい」
「逆に、机を軽く指で叩いている時は」
レティシアが静かに続ける。
「あまり真面目な事は考えていない事が多いです」
「その時もお茶ですか?」
「はい」
「なぜです?」
「そうしないと暴走します」
「なるほど」
ダリアが真剣に頷いた。
ギルはかなり傷ついた。
そんな危険人物みたいに言わなくても良くないか。
しかもダリアが納得している。
この三日で何を見たのだ。
ギルは静かに扉を閉めた。
そっと離れる。
廊下を歩きながら、少し悲しくなる。
うーむ。
レティシア、かなり俺を理解しているな。
いや、理解されすぎている。
ダリアへ何を教えているんだ。
ギルは腕を組み、しばらく考えた。
そして、静かに頷く。
よし。
今夜は眠らせんぞ、レティシア。
ギルは真剣な顔でそう決意した。