軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

閑話:お門違い

「待ちわびたぞこの時を。石ころ屋ニクスキー」

「…………」

ウェイトが槍を構えてはいるが、まだ臨戦態勢というわけでもない。

その隙を縫うかのように駆け、ニクスキーがウェイトに肉薄する。

「っ……!」

それからキーチに当てるよりも数段激しい突きの雨を放つ。意識を刈られ、倒れるウェイトに目を向けることもなく、横に並ぶウェイトの手下にも同じように。

キーチに向けた温情はない。どれも全て、キーチならば死ぬ攻撃。

けれどもその手応えに、ニクスキーはどの命も奪えなかったことを感じた。

(恐れか)

ほぼ同時に倒れた三人の地面に落ちる音を背後に聞きつつ、ニクスキーは内心呟く。

恐れというものは厄介だ。ウェイトではなくプリシラに向けたその感情は、自分の踏み込みを半歩遠くにさせ、突きの『押し』を半端にする。

結果、倒れた人間の息は、まだニクスキーの耳にも届いていた。

しかし、これがプリシラの策でなければ彼らに用はない。用心の必要もない。

決心したニクスキーは駆け出す。今すぐこの場から離脱し、ひとまず姿を隠そうと。

だが。

「…………」

広場から出る路地。そこに足を踏み入れようとしてニクスキーの足は止まる。

高い日の光に紛れ露のような光が空中に浮かぶ。

目の前の路地では、縦横夥しい数張り巡らされた鋼線が行く末を阻んでいた。

気づいてみれば、編まれた蜘蛛の巣のようなごく細いものまでもが足下を這っている。常人ならば、近寄って目をこらさなければわからないほどのものが。

先ほどウェイトが飛び降りた屋根の上。広がっているはずの狭い空。そこまでも、今となっては天井の隅に張られた蜘蛛の巣のように鋼線があった。

背後で呻く声がする。

ニクスキーがゆっくりと振り返れば、倒れたウェイトがやっとのことで体を起こしてこちらを見ていた。

ウェイトは口元に笑みを浮かべる。奥歯に仕込まれた気付け薬を噛み砕きながら。

「……気づいてしまったか」

「罠か」

ニクスキーは納得する。ウェイト・エゼルレッドの在籍する第三位聖騎士団〈日輪〉は、他の聖騎士団ではまず行わぬ策を練る。

そのうちの一つが鋼線や縄を使った罠。いわゆる 間抜け落とし(ブービートラップ) である。

団長であるエーミール・マグナはその名手としても知られており、魔法使い以上に魔法の如くに罠を扱うともいわれている。そしてそれに準ずるように、その部下たちも。

張り巡らされた鋼線をニクスキーは視線で辿りながら考える。

鋼線は全てそれに触れる聖騎士により強化されており、並の人間に切ることは出来ない。そして見る限り、その使い方は多種多様。引っかかった者の足を取り逆さ吊りにするようなものから、串刺しにする槍が落ちてくるもの。さらに、何の仕掛けもない偽装のものや、鋼線の細さを変えた二重仕掛けまである。

猫すらも通る隙間のない配置。自身に悟られないようそれを張る手際は手放しで褒めるべきだろう、とニクスキーは思った。

「解除は我だけが出来る。千載一遇の機会だ。この機を逃せばまた貴様は街のどこか深くに潜るだろう。逃しはしない。貴様はここで我に捕縛されるか、もしくは死ぬしかないのだ」

もっとも、どの道を辿ろうともその先には『死』あるのみだ、とウェイトは内心締めくくる。首を鳴らし、もう奇襲はさせないと気を引き締めながら。

ニクスキーは鋼線の森を通る風の音を聞き、その成果を確かめる。

なるほど、これはどうにかして罠を排除しなければ通れず、そうしなければ誰もここを出ることは出来ない。そうしなければ、ここに 入(・) る(・) ことは出来ない。

確信できた。

今、唯一恐れるべきプリシラは、ここにいない。

「ふっ……!!」

視線を切っているニクスキーの胴に、雷のようなウェイトの槍突きが迫る。

ウェイトは、当たったと思った。しかしその手応えはない。

透けるように消えたニクスキーの姿が瞬時にウェイトの真横に現れ、その拳が頬に迫る。

その頬に焼けた感触を覚えながらも槍を反転させ影を斬れば、次の瞬間、ほぼ頭上に現れたニクスキーの蹴りが頬の同じ位置に当たり、ウェイトが吹き飛ばされた。

死ぬ打撃を当てた。なのに気絶をしない。そう怪訝に思うニクスキーが着地しウェイトを追うがその次の瞬間にはウェイトは回転しながら跳ね起きてニクスキーへと槍を定めていた。

そして、はらりと何かが落ちた音がした。

ニクスキーの袖、そのわずかな端が土混じりの石畳に落ちた音だ。

「打たれ強い」

ニクスキーが呟き、ウェイトを褒める。その頬への打撃に耐え、さらにニクスキーの袖を裂いたその腕前を。

ウェイトの得意とする水天流大火の型。その型は、相手の武器を破壊しつつ自らの攻撃を通すという単純な術理による。

開祖ジャン・ラザフォードが開眼し、型へと昇華させたその動きはその力強さ故に月野流と比較されることが多い。

とある時、ジャン・ラザフォードはとある武芸者との草試合でその槍を折られたことがある。

その武芸者はラザフォードの手により折られた槍で昏倒させられ決着を見たが、その際にラザフォードは思った。

相手の防御ごと叩きつぶせばこちらの攻撃は防がれないのではないか? と。

そうして磨かれたその動きは俊敏にして重い。いなす、躱す、などの防御行動はほとんどとられることがなく、ただひたすら敵の攻撃を金剛のように堅く受ける。

そして。

ウェイトが一歩踏み込み、ニクスキーはそこから繋がるであろう槍を躱すべく足を踏み出す。だが来ると思っていた突きは一拍遅れて、その一拍はウェイトに行き先の微修正を許した。

ニクスキーが手近な寸鉄を右掌に滑り出す。躱せるはずだったウェイトの槍が、その鉄に突き刺さる。

俊敏にして重い一撃。

その一撃は、相手の防御を防御として見做さない。槍も敵の一部、剣も敵の一部。

火が全てを焼き尽くすように、その全てが壊さなければいけないもの。

現状でも闘気では圧倒的に勝るニクスキー。

しかしその技術故、強化された寸鉄に罅が入り、ニクスキーの掌の肉にわずかに槍の穂先がかかった。

(……!)

咄嗟に体を反転させ、槍から掌を抜いて屈みながら回転。左足による後ろ回し蹴りに切り替え、ウェイトの体を突き飛ばす。まるで堅い岩を蹴ったように、貫けなかったのがニクスキーにも意外だった。

ウェイトが背中を壁にぶつけた衝撃で、近くにいた雀たちが騒いで飛び立つ。そのうちの一羽が、鋼線に足を絡め取られて落ちる。

落ちた先で違う鋼線に引っかかり、いくつかの肉片となり地面にへばりついた。

頬を打たれた際に切った口の中の血を吐き出しながら、よろよろとウェイトが立ち上がる。

それを見つめて、ニクスキーは一歩踏み出した。

確かに頑丈だ。拳足ではなかなかに決着は難しい。そう考えたニクスキーの手にまた違う寸鉄が滑り落ちる。

人間の手足というものは柔らかい。余程実力差があるか、もしくは環境というものを利用しなければ人を殺すことなど出来はしない。……あの青年でもなければ。

このまま続けても、殺すことは出来るだろう。だがそれは嬲るということでもあり、無駄なことだ。

ならば次だ。ニクスキーの知る限りは、人間、もしくは高度な知能を持つ生物にだけ許された特権。

素手で無理ならば、道具を使えばいい。武器を。殺すための道具を。

「……ぉ、ぉぉぉおおおお!!」

喊声を響かせ、ウェイトも意気を奮い立たせる。

この数合でわかっていた。この相手は簡単に勝てるものではない。レイトン・ドルグワントほどではないにしろ、その手強さは有り余る。

迫る〈幽鬼〉の影を振り払うように槍を振るう。しかしその影は影、槍の軌跡にはもはや誰もいない。

単純な勘で振り返りつつ横に槍を構えれば、鉄筋を束ねた豪槍に鋭い衝撃が走った。

「天佑! 我にあり!!」

そして防げた。その事実にウェイトの胸が高鳴る。

単純な賭け。だが上下左右どこから来るかもわからない攻撃を防ぐという、分の酷く悪い賭けに勝った。ならばこれは天意だ。信じてもいない神が、我に勝てと言っている!

そうだ、そうでなくては!

正義は勝つのだ。必ず。

飛んできた汗の滴を躱し、ニクスキーはもう一度、と目を細めて気を引き締める。

用いるのは葉雨流。

葉雨流の歩法。それは、人の認識に干渉することに特化している。

仮にそのごく小さい一部分だけを切り取り、今代の勇者に見せれば、『バックスライド』という踊りの技法に似ていると感想を述べるだろう。

前へ歩いたかと思えば後ろへ。右へ歩いたかと思えば左へ。熟練者ともなれば、全くの同じ動作で前後左右から上下に至るまで自在に動くことが出来る。

それを用い注意から抜け、時には人の瞬きという視覚の時間的な影に潜み、動作の盲点を突き、見えない位置から近づき命を刈る。それが暗殺剣としての使い方である。

そして武術の剣としては。

「がああぁぁ!!」

目の前にいるのに影しか追えぬ相手。見えない位置から迫る剣撃を、ウェイトは必死に凌ぐ。

正面からの奇襲。それは葉雨流の必勝戦術。

ウェイトが転がるようにして避ければ、見つめる地面にあった鋼線が切れ、勢いよく弾け、風切り音を立てながら遠くの石壁を抉った。

(……まだか! まだ!!)

裂けて血を吹き出す首の横を押さえて止血する。白い光が立ち上り、鋭い痛みが治まっていった。

時間的にはそろそろだろう。

(……まだ!!!)

「…………ニクスキーさん……」

か細い声が広場のどこかから聞こえる。

その声にウェイトが顔を上げれば、ニクスキーの足がはっきりと見え、そしてその驚き路地の外を見つめる目までもがようやく確認できた。

ウェイトも息を整えながらそちらを見る。やはり、天佑。間に合った。天意は我にある。

どろりとウェイトの鼻から血が流れ落ちる。鼻の根元を押さえつつ立ち上がれば、無防備なニクスキーの体が目の前にあった。

そのニクスキーの視線の先。そこには大人と子供が一人ずつ。

「……ごめん、なさい……」

橙色の髪の毛の少年が一人、衛兵の革の鎧を着た男性に首を抱えられ、小刀を突きつけられている姿があった。

泣きそうになりながら、ホウキは路地の奥、鋼線の森の中を見る。

そこにはニクスキーと聖騎士を名乗っていた男、ウェイトがいた。

急いで逃げたつもりだった。ニクスキーの言葉に従い、急いであの場所を離れたつもりだった。

しかしニクスキーと別れて貧民街に入った直後に襲われたのだ。

同じ、貧民街の住民に。

引き渡されて、大きな袋に詰められてここへと運ばれてきた。逃げようにも声を出せなかったのは、衛兵により施された点穴のせいだと彼は知らない。

「……今日の目撃情報から念のため手配した。貧民街の連中は話が早い。簡単に金で転ぶ」

残っていた鼻の内部の血を強く噴き出して、ウェイトは笑う。形勢逆転、という心持ちだった。

槍を手に、ウェイトは呟く。

「避けるなよ」

それから思い切り薙いだ槍。しかしそこにニクスキーの姿はなく、ウェイトは一歩後ろに下がったニクスキーに舌打ちをした。

舌打ちに応えるように、衛兵の刃がホウキの首にちくりと食い込む。その痛みに、少々の痛みには慣れていると自分では思っていたホウキが小さく声を上げて息を飲んだ。

気を取り直し、ウェイトは勢いよく片手で槍を振り下ろす。常人では三人でようやく持ち上がる重さの槍が、低い風切り音を鳴らした。

「取引といこうか。貴様が石ころ屋の遺産の場所を素直に吐き、素直に捕縛されればあの小僧は逃がしてやる」

「…………」

人質。それを考えてニクスキーは言葉を失う。

卑劣といってもいいこと。それは、正義を名乗る者がすることだろうか、という非難をかろうじて飲み込んだ。

遠く、言葉が明瞭には聞こえなかったが、ホウキはその雰囲気と二人の装いにほとんど全てを察する。

ほぼ無事のニクスキー。そして首元や腹部に血を滲ませるウェイト。

おそらくニクスキーはあのウェイトと名乗っていた聖騎士に襲われたのだろう。そして今まさに撃退していたのだろう。

そのままならば、きっとニクスキーならば逃げられた。なのに、今おそらくニクスキーはウェイトに脅迫を受けている。そしてその脅迫材料は、自分。

恐怖に加え、慚愧の念で涙が出てくる。申し訳なさに、拘束されていなければ首元の刃に自分から貫かれてもよいとまで思った。

親も知らない、友もいない。そんな貧民街で育った自分にとって、唯一の信頼できる人間といっていいニクスキーの迷惑になる。そんなことは、およそ無価値な自分にとって許されることではない。

「……返事をしろ」

ウェイトがニクスキーの腹を槍の石突きで叩く。今度は避けなかったニクスキーは、その衝撃に体を一瞬歪ませた。

「…………」

無言でニクスキーがウェイトを見る。

先ほどまでは圧力を感じていたその視線。しかしウェイトは、今となってはその視線が心地よかった。

ニクスキー。

人を殺し、盗人を支援し汚職を隠し、街に禁止薬物を蔓延させてきた石ころ屋の幹部。

彼個人の罪状は殺人に偏るが、その上で、その悪としての立場が気に入らない。

大悪人ニクスキー。そんな男が今自分を敵視している。

当然だ。正義を行う者は、悪から憎悪される。

ニクスキーの敵。ならば、自分は今正義なのだ。そうでなくては。そうでなくては。

「見捨ててもいいぞ。奴も貧民街の住民だ。不法占拠は確実で、さらに余罪も相当あるだろう。ならば我らはいつかは裁く。それが早まるだけのこと」

「…………脅しが下手だな」

嘲るウェイトの言葉に苛つき、ニクスキーが端的にその問題を指摘する。

人質を取り、ようやく有利になった今。それを自ら捨てようという無意味な行為を。

「俺が、あんな子供のために手を緩めると?」

「緩めるさ。大事に連れ歩いていたそうじゃないか。次の石ころ屋幹部候補か?」

ウェイトはホウキとニクスキーが関係しているのを今日知った。

だが、それは推測するには充分な情報だった。誰からも接触を断っているニクスキーが、唯一連れ歩く相手。ならば、そう遠い関係ではあるまい、と。

「…………」

ニクスキーは否定もせず、ただ目を閉じる。その反応に、ウェイトは一瞬気を抜いた。

「…………くだらない」

「う゛っ…………!!」

ニクスキーの拳がウェイトを正面から殴り飛ばす。

顔面の骨が陥没したような痛みと共に、ウェイトは地面を背中で滑った。折れた鼻が揺れているのが自分でもわかった。

「俺はそんな子供は知らない。殺すなら殺せ」

「…………」

ニクスキーさん、と言おうとしたホウキは、その言葉にまた息を飲む。

否定できない。本当はそうではないと知っていながらも。ニクスキーに殴られたウェイトが、まだ生きていることを見ても。

六年ほど前。物心ついたときには貧民街にいた。

右も左もわからず、いつの間にか飲食店の残飯を漁ってその日を凌ぎ生活することを覚えた。

石ころ屋にも行った。捨てられた家財を自分なりに修理して持ち込み、その日の金を得たことも何度もある。

ニクスキーからも仕事をもらった。食料や小銭と引き替えに、多くは見張りや盗み聞きなど、ごく簡単なものを。

ホウキは知っている。貧民街で、小さく力もない自分が生きてこられたのは石ころ屋の、そしてニクスキーのおかげだ。

街で仕事を得ることなど出来ず、戦う術も鍬を振るう術も、森に入る術もない自分が生きてこられたのは。

正しいことなど何一つ知らない。街の法など気にしたこともない。

けれども、ホウキは思う。

世話になった人間を裏切ることは、してはいけないことなのだ。

「ぅっ!!」

懸命に力を入れ、ホウキが体をくねらせる。掴んでいた衛兵も、見ていたウェイトも、それが逃げようとする抵抗だと思った。

それは正しい。彼は逃げようとしていた。その首元に突きつけられた小刀で、この世から。

「動くんじゃない!!」

衛兵が押さえようとするが、必死のホウキの力は思いの外強く、拘束も完璧ではない。

もう少し。その首と小刀が当たる。その感触に、殺すまではしないと思っていた衛兵の力が緩んだ。

「くっ!」

そして誰にとっても予想外に、ホウキは解放される。腕を払いのける勢いのまま、前方に投げ出されるように。

受け身もとれず、転がるように。

ただし、その先にあったのは。

鋼線の藪に頭からホウキが突っ込む。

そのほとんど一つ一つが致死の罠で、それが数百種も絡まり合う複雑なもの。

いくつかの鋼線が外れ、その設置の意図に沿った動きを無感情に遂行しようとする。

瞬時にホウキの腕に鋼線の輪が絡まる。引き込まれるようにして体が引きずり込まれれば、視界の端で打ち出される金属製の杭が見えた。

屋根の上で何かがぐらつく。油か、それとも何かの薬品か。それはわからないが、ホウキは危険に際しゆっくりとなった視界でそれを見つめていた。

ああ、きっと死ぬのだ。これで。

よかった、足手まといにならずに……。

瞬間、ニクスキーの腕が外套の前を開き、空中に長さも形状も違う数々の刃物を展開する。その数は三十二本。

まとめて掴み、五本を投擲し、足を踏み出して落ちてきた三本を蹴り飛ばす。

ニクスキーの修める流派の一つ。黒々流。

その修練の半分ほどは、反射速度を高め知覚速度を下げるものが占める。炎の中に手を突き入れ、熱さを感じる前に引き抜く訓練。壁に記されたいくつもの数字を、指導者が指定しそれに触るという訓練。その他、多くのものが、そういったもので構成されている。

そうして鍛え抜かれた感覚は、瞬間瞬間の体感時間を大幅に引き延ばす。

空中で物から手を離す。そんな単純な動作すら、彼らにとっては『空中に物を置く』という感覚となる。

故に、黒々流の皆伝ともなれば、その知覚速度は常軌を逸する。

人は言う。

彼らは、違う時間を生きているのだと。

駆け出し、五百本を越える鋼線の藪へとニクスキーは踏み入る。

遮る邪魔なものを全て切り離し、迫る準備を追えた槍や樽などには小剣を投擲する。

止まった時間の中。切り離されたしなやかな鋼線の断端をねじ曲げれば、ニクスキーには針金のような感触だった。

ホウキは、全身に強く柔らかい衝撃を感じた。しかし覚悟していた痛みはなく、目を瞑った暗闇の向こうには温かさだけがある。

恐る恐る瞼を開けば、そこには自身を抱きかかえる男性の顔。

急所を打たれ倒れる衛兵を視界の端に、ニクスキーの無感情な顔がこちらを見ていた。

不意に、抱きかかえられていた腕が外され、ホウキは何故か喪失感を覚える。

「逃げろ。今度は捕まるな」

「ごめんなさい……」

「謝るよりも先に足を動かせ」

ホウキを放り投げるようにしてから血だまりを立ち上がり、ニクスキーはウェイトを見る。

ウェイトは、その光景を奥歯を噛みしめて見つめていた。

(全ての罠を、同時に……!!)

ウェイトに見えていたのは、ニクスキーが外套を開く残像までだった。その次の瞬間には用意していた鋼線は全て切断され、緊張のかかっていた鋼線が弾ける音と共に、衛兵も昏倒させられていた。

二十歩ほどは離れていたそこに瞬時に移動する脚力や速度。それが、先ほどまでは本気を出していなかったと思える十分な要素だった。

もはや罠の壁はない。子供を捕らえるにしても、部下は全員昏倒した。この場ではもう自分一人。

逃がすしかないのか。このまま。

黒々流の動作は、ほんの一瞬しか保てないという。それは朗報ではあったが、しかしそれでもあの速度だ。

次の瞬間走り出されてしまえば、もはや自分には追い縋れない。ましてやあの葉雨流を使った歩法も混ぜられてしまえば。

どうする、どうする、とウェイトは思考を巡らせる。

逃がしてしまう。千載一遇のこの機会を無駄にしてしまう。

その悔しさにニクスキーを睨むが、一つの気づきに唇の端が歪んだ。

ニクスキーの足下に血だまりが出来ている。

その滴る血は衛兵のものではなく、先ほどの子供のものではない。

一歩体を揺らしたニクスキーが、右足を引きずっているように見えた。

鋼線が当たったか。

未だ逃げていないホウキも、それに気づいてニクスキーを見る。

しかしニクスキーはその顔を見返すことなく、そしてホウキは、その深刻さに気づいて慌てて体を反転させた。

危ない。ニクスキーさんが。俺のせいで。

駆けてゆく足音を視界の外で聞きながら、ニクスキーは右足の動きを確認する。

膝から下に力が入らない。おそらく腱を断たれ、その上気脈まで断たれているのだろう。

鋼線に当たった気はしなかった。もしかしたら当たったのかもしれないが、気脈まで断たれていることからして偶然とも考えづらい。

これは。

「……あんな子供を庇い深手を負うとはな。悪名高い石ころ屋が聞いて呆れるぞ」

ウェイトが折れた鼻の位置を直してから、折れた前歯を一本吐き出す。治療師にも治せない歯の損傷だったが、この程度、ニクスキーを捕まえられるならと気にもならなかった。

今度はウェイトが駆けだし、跳んで槍をニクスキーに叩き付ける。しかしニクスキーの動きに先ほどまでの精彩はなく、小剣でいなすだけに留まった。

追撃はない。そう確信できたウェイトは、ニクスキーに肩を当てる。それも踏みとどまれずに蹈鞴を踏んだニクスキーが左足だけで跳んで下がったのが可笑しかった。

「残念ながらもう策はない。だが充分らしい。ははっ」

黒々流の手の動きに警戒は必要だ。

けれども、もはや葉雨流は使えず、移動速度は蝸牛のよう。ウェイトの顔に、余裕が戻っていた。

ウェイトが踊るように槍を繰り出す。

ニクスキーはそれを小剣でいなす。その繰り返し。

そのしぶとさに呆れながらも、ウェイトはひるまず攻撃を続けた。

ニクスキーはその連撃をいなしながら、ウェイトの行動への違和感を頭の中でまとめ続けていた。

そして違和感がその他の要素と混じりはじめ、結びつく。グスタフの手記を読んで、納得がいかなかったこと。グスタフを失い、今後の行動を決めかねていたこと。

そして気づく。先ほど死にかけたホウキを見ての、ウェイトの反応が嫌いだ。

今もなお笑い続ける目の前のウェイトが、間違っていると思った。

「……?」

ぱし、とウェイトの槍を掴んで止める。ウェイトに対し、的外れかもしれない怒りが湧き上がっていた。

「……何故笑う? 子供を殺しかけて」

「関係ないな。我が笑っているのは、お前の捕縛が適いそうだからだ」

ニクスキーが睨むが、ウェイトは笑って返す。

ニクスキーに打たれた骨が軋んでいる。血が止まった傷は、動かせば引きつるように痛い。満身創痍ともいえる状況、だがその高揚感に全てが打ち消されていた。

ニクスキーを捕縛できる。殺せる。石ころ屋を継いだという噂もある男を。

悪が、この街から、この世界から一つ消え去る。それは世界がまた一つ良いものとなるということであり、そして亡き親友も望んでいたことだ。

「それに、あの小僧も悪。死んでわずかでも痛痒など覚えるはずもない。仮に死んでも、貴様の捕縛に役立ったと、むしろ胸を張るべきだ」

「…………」

掴んだ槍の先で、ウェイトの笑みが歪んで見える。

ニクスキーはその笑みが、酷く醜く見えた。

ウェイトが槍を引こうとする。しかし、ニクスキーの手により万力で押さえられたように動かなかった。

「あの子供が悪人か」

手に力を入れると同時に、ニクスキーの力が緩む。そのわずかな緩みを逃さず、ウェイトは槍を引き抜いた。

「たしかに……そうだな」

呟くようにニクスキーは言う。グスタフならそう言うのだろうと、頭の中に響くグスタフの声に従って。

「ウェイト・エゼルレッド」

名前を呟きつつ、ニクスキーが大げさな動作で小剣を振り下ろす。そんな隙だらけの動作だったが、ウェイトはそれを焦りとともに槍で受け止めた。

「俺たちは、悪か?」

ぎりぎりと槍の軸が軋む。両手で受け止めているウェイトは、わずかでも力を緩めれば次の瞬間には両断されてしまうだろう予感がした。

そんな余裕のなさを隠しながら、ウェイトは言い返す。

「悪だろう。貴様らがいるから盗人は生活を豊かにする。詐欺師は金の匂いを嗅ぎつける。貴様らがいるからこそ、副都城の金の流れは淀んでいる」

悪の黒幕石ころ屋。貧民街を維持してきた不思議な力は、その雑貨店が中心だ。

「貴様らがいなければ、貧民街など存在しない! 盗まれるか、殺されるかと! 街の住民たちが貴様ら貧民街の影に怯えることもない!」

ウェイトは不思議な圧力を感じた。ニクスキーの手に込められている力で、これほどまでに押さえ込まれることなどないはずなのに。

「貴様らの支援で! あんな小さな子供まで、悪に染める貴様らこそ、……!」

「あの子供たちは、それ以外の生き方を知らない」

何を、とウェイトは思った。それこそまさに自身が今言おうとしたことで、そして石ころ屋の最大の悪事だとも。

「庇護する親もなく、庇い合う友もなく、地面を転がり泥の中を這う。そんなあの子供たちは、残飯を漁り、盗み、騙し、そうしなければ生きていけない」

ウェイトは不思議だった。震える両手の先にいるはずのニクスキーの顔が見えない。まるで影に覆われたように。

そしてその声が、誰だかわからない知っている人間の声に聞こえた。

「絹に包まれ生まれてくる子供と何が違う? 生まれたばかりのお前と、あの子供。何が違う?」

「……環境が悪に染めたとでもいうのか? 貴様らがいなくとも、奴らは悪に染まったとでも」

「悪にも染まらず、死ぬ」

押し切られそうになり、堪らずウェイトはニクスキーの胴に蹴りを入れて強引に体を離す。双方共に、先ほどまでの技巧は一切見せられなかった。

俯くニクスキーをウェイトは息を整えながら見る。外套の頭巾に隠された目元に、力なく落とされた肩。広がる足下の血だまりが、雨が降った水たまりに見えた。

「生きていけないから仕事を与えた。盗むために金目のものを見分ける術を教えた。騙すための話術を教えた。貨幣の価値を、物の数え方を」

ぽつりぽつりとニクスキーが言う。

だがウェイトには、それが言い訳にしか聞こえなかった。

槍を構えたまま笑い飛ばす。

「偽善だな。あの子供たちのためにやったから許せとでも言うのか」

子供たちが、そうしなければ生きていけなかったから、教えた。それが悪いことだと知っていたが、子供たちが生きていくためだから許してほしい。

そう、ニクスキーが口にしていないことまでウェイトは言葉を継ぐ。もちろん、ニクスキーの意に沿わないことを。

ニクスキーの口元が綻ぶ。

「偽善か」

言いながら、先ほど取り落とした小剣の代わりにまた剣を構える。どこから取り出したのかと、ウェイトはそれを不審に思った。

「なるほど、偽善だ。悪意を持ってあの子たちに生きる術を教え、そして悪行をさせ生活をさせてきた俺たちの行為。それがあの子供たちのためというのなら、それは偽善なのかもしれない」

一歩ニクスキーが近づく。足を引きずりながら、何の歩法も使わずに。

「だが、それが偽善だというなら何故」

偽善。偽の善。善意からではなく、悪意を持って行った善行。相手のためではなく、自分のために行った善行。偽善とは、言葉にすればそんな行為。

しかし、だったらそれは。

「偽善。善なる心を持って行えば慈善となる行為だというのなら、何故」

ゆっくりとした剣がウェイトを襲う。まるで害意などなさそうな小剣を横に構えた槍で受ける。だがその圧力は、先ほどよりも……。

ニクスキーの目元がウェイトに見える。その目は今までの無気力なものではなく、生気を持った人間の目。

驚いたようにウェイトは身を固める。身を固めるということは、踏ん張りが聞かないと言うこと。

「だったら何故! 何故貴様らがやらなかった!!」

「…………!」

振り切られた双剣はウェイトを宙に浮かべ、尻餅をつかせる。

白い闘気がニクスキーの全身を覆う。見上げるウェイトは、その光に目が眩み青空が曇って見えた。

「食うに困った子供が誰一人としていなければ、俺たちはそれが出来なかった。盗みを教えることも、詐欺を教えることも」

唆しても汚職を考える貴族がいなければ、それに手を貸すことは出来ない。盗むよりも働く方が簡単ならば、好き好んでやる者しか残らない。殺人の罪がきちんと暴かれ裁かれるならば、暗殺者などやっていけない。

ウェイトの顔に汗が垂れる。冷えたそれが、雨が降ってきたようにも思った。

「俺たちは悪。純粋な」

滅ぼされるべき悪。最後には負けるべき悪。

グスタフの遺した石ころ屋。それは、そうでなければならないのだ。

「俺たちからその全てを奪い取れ。俺たちの狩り場を残すな。俺たちの行動全てを悪と断じろ。それがお前たち正義に許されている唯一のことだ」

尻餅をついたまま、ウェイトはニクスキーを見返す。

わかっている。その程度、わかっている。そう言い返そうとして言葉に詰まった。

その気概はある。そのつもりだ。

悪を許さない。そのために今までも殺人を重ねてきた。手にかけた命に対しての責任も、とらなければならない。

この世で唯一正しい絶対正義。そうならなければ、死んだ親友二人に申し訳が立たない。

そう思って続けてきた。

何かを言い返したかった。しかし、ニクスキーの目に言い返すことが出来なかった。

ニクスキーの暗い影の向こうで、雷が落ちたようにも見えた。全くの幻覚だが。

手の先にあるはずの槍が掴めない。指先に触れてもなお。

二人の視界の外。どこかでパキと音が鳴る。

「なんだこれは?」

女性の声がして、二人は揃ってその先を見る。そこには、路地の壁に仕掛けられた鋼線の端を弄ぶ聖騎士の外套を着た女性。

その姿に意識を取り戻したようにウェイトが槍を掴んで跳ね起きる。その理由は本人もわからなかったが、無様な姿を見せてはいけないという羞恥心か、と考えた。

女性は中を見回し、足下に倒れている衛兵を含め、四人がすでに気を失っていることを目に留めた。

薄い青の猫目が細められる。

「事情がわからんが、お前らがやったのか?」

帯剣しててよかった、と呟いた女性を見て、ニクスキーの血の気が引く。

薄い緑のような金の髪をさらりと揺らし、組んだ手をひねって準備運動をする女性の姿に。

闘気を活性化していなくとも、迸るように目に見えると思ってしまうほどの武威。

ニクスキーは、竜ならば簡単に討てる。素手では難しくとも、武器を持てば。

しかしそれは知性を持たない竜相手だから出来ること。

「事情もここがどこだかもさっぱりわからん。とりあえず両方とも制圧させてもらうぞ」

まるで、竜を人の形に収めたような。まるで知能を持った竜のような。

そんな恐るべき女性。

「第七位聖騎士団《露花》団長。テレーズ・タレーラン。参る」

堂々と名乗ったその姿に、『これか』と、ニクスキーは直感した。