軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

閑話:惨めに格好悪く

テレーズが長い髪をなびかせ、二人に向けて軽い動作で跳びかかる。

「お待ちくださいテレーズ様!!」

槍を構えるのを忘れ、ウェイトが慌てて片手を上げてテレーズを制する。

しかし、その横に立つニクスキーの臨戦態勢に、テレーズの動きは止まらない。

「問答無用!!」

半ば巻き添えのようなものだが、致し方ないともいえる。明らかに争い合っていた二人、それも刃物を手に。ならば仮に片方の男だけを制したとすると、残った片方が止めを刺しに来る恐れもあるのだ。

明らかな騒乱の場。しかもそこには、そこかしこに血が飛び散っている。

テレーズの見たところ倒れている人間は全員息があるが、しかしそれでも最悪の事態を想定できる。

ならばテレーズは、命に関わらない範囲で、手加減はしない。

左にいたウェイトを掴もうと手を伸ばす。

ウェイトはそれを咄嗟に体を槍で庇いつつ引くが、手が届かないと悟ったテレーズは空中でもう一歩足を踏み出し加速、その襟を取った。

「っぉ……!!」

通常、人を投げるというのは両の手を使い行うことだ。人にはそれぞれ重心があり、そして意思がある。体の平衡を無意識に保つもので、それを外部から崩すのは容易ではない。

しかしテレーズは、片手で容易に人を投げる。そしてその洗練された技術は、いかに鍛えられた聖騎士相手といえども通用する技術だ。

ウェイトの体が、まるで手拭いのように宙を舞う。足が地面から離れ、空が足下に見えた。

ニクスキーは逃走を考え、テレーズの動きを見守る。

柔法。それも、 葛(関節技) の要素も加わったおよそ完璧なもの。そこまで読み切ってから、もとテレーズのいた広場を抜ける路地へと駆けだした。

拘束を考えているのだろう。武器は抜かず、殺傷力の高い攻撃ではない。

そして柔法は、多人数を相手するのには向いていない。ならばウェイトの動きを制している今、簡単に動けは……。

「ふっ!」

しかしテレーズは身を翻す。宙を舞うウェイトを掴んだまま、体をかがませながら回転しつつ右手でニクスキーの足下を払う。

ニクスキーは脛に軽い、気のせいとまでも思ってしまうほど小さな衝撃を感じる。

しかし効果は絶大。

ただその動きだけで、ニクスキーまでもが宙を舞い、方向感覚を失った。

「っ……!」

「元気がいいな……怪我をしているようだが」

右肩から腕にかけて。地面に強かにぶつかり、ようやくニクスキーは自身の体の支配権を取り戻す。

瞬時に体を跳ねさせるように動かし、受け身を取りつつようやく自身の居場所を把握したニクスキーは驚嘆する。立ち上がったそこは、先ほど駆け込もうとした路地の反対側。

テレーズを見れば、その片手に捕まれたウェイトは既に首の血管を締め上げられ沈黙。テレーズが手を離すと、まともに地面に頭をぶつけながら倒れた。

ニクスキーは唾を飲み、緊張を自覚する。

理解した。人を一人投げるという簡単な動作だけで、目の前のテレーズの力を。

テレーズがウェイトを投げ飛ばしていたとき、ニクスキーは無警戒に横を駆け抜けようとしたわけではない。間合いは確認していた。明らかにテレーズの攻撃は届かず、遠く、そして安全な場所のはずだった。

しかしテレーズの手は届いた。まるでテレーズの腕が伸びたかのようにも感じたが、そんなことはあり得ない、とニクスキーは自身の印象を訂正する。

腕が伸びる。そのようなことはそういう生物か、もしくは魔法使いにしかあり得ない現象だ。

目の前の女性のしたことはもっと単純。

驚異的な速度と身のこなしで、間合いを詰めて距離を伸ばした。ただそれだけのこと。

まるで虎のようだ、とニクスキーは思う。身のこなしは柔らかく俊敏。だがその勢いには裂帛の気合いと恐ろしい爪が隠されている。

簡単に逃げられる敵ではない。

まだ剣すら抜いて抜いていない素手という不利を、身のこなしだけで埋めて見せた。それもその技巧は超一流。万全ならばともかく、今の片足の使えない状況では……。

ウェイトとの攻防でも流れなかった汗がニクスキーの額を伝う。

立ち上がり、置物のように動かなくなったニクスキーを見やり、テレーズも不信感を募らせる。

おかしい。喧嘩を見咎められ、誰かに仲裁に入られた者の反応ではない。

テレーズの経験上、彼らの反応は多くの場合分けて三つ。

一つ目は、逃げる。最初に目の前の男が選んだように。これは半数ほどの場合に当てはまるもの。だがそれを止められると、たいていは他の二つに合流する。

二つ目はこちらに食ってかかってくる。不満を激しく表に出し、場合によっては手まで出してくる。

三つ目は、謝罪と弁解。どうにかしてその場を逃れようと、拙い弁舌を尽くし取り繕おうとする。

目の前の男は最初逃走を選んだようだが、今はその気はないらしい。

手の武器はいつの間にか消えていた。敵意がないようにも見える。

「降伏するならその場でしゃがんで両手を地面につけろ」

テレーズは、稀にある四つ目を疑いニクスキーに呼びかける。

目を細め、警戒を露わにし。

しかし動かないニクスキーに、武器の使用を解禁しようか悩みはじめた。

自身の足下で意識を失っている男。こちらの動きにわずかでも対応できたということは、尋常ならざる腕ではない。そして先ほどの二人の体勢から、今目の前で佇む男のほうが優勢だった。

その事実に加えて、先ほどの逃走を図ったときの身のこなし。

こちらの男のほうが、油断できない相手。まるで、聖騎士団長にもひけを取らぬほど。

「…………」

「どうした? あくまで抵抗するなら、今度は剣を抜かなければいけないようだが」

黙って立ち尽くすニクスキーに、テレーズは冗談めかして笑いかける。

だが内心は笑えなかった。『聖騎士団長にひけをとらないほど』と考えたが、その事実は目の前の男の足の怪我をあるものとした上でだ。

まさか、クロードに匹敵する男が天下にそういるとはテレーズも考えていない。しかし、本来の実力はそれ以上かもしれない。

クロードの名前を一瞬考え、テレーズの心臓が緊張に一度跳ねる。

国王の前で行う、聖騎士団長の上欄試合。過去十数回参加したそれで、一度もクロードに勝てなかった事実を思い返し。

いつも、いつもだ。いつも試合中盤まではこちらが押す。しかし最後には必ずクロードの動きが上回り、一本を取られ負けるのだ。

勝てない相手。負けたくない相手。

その相手よりも上かもしれない。もしも抵抗されたら。丸腰はまずい。

ニクスキーの返答を聞かず、それでも動かないニクスキーの直立を答えと認め、テレーズは腰の剣を鞘ごと抜く。

通常任務ではほとんど持ち歩くこともない魔道具。それは鍔に羽の装飾があしらわれた両刃の細い直剣。テレーズが闘気を込めれば、全く重さなど感じなくなる聖剣だった。

「……少々痛い思いをするのは覚悟してもらうぞ」

テレーズの脳裏に、先ほど否定できなかった四つ目の選択肢が浮かぶ。

すなわち、喧嘩の続き。目の前の男はまだ虎視眈々と狙っているのかもしれない。今は足下に倒れているこの男に、何かしらの制裁を加えたいのかもしれない。

しかしそれはやりすぎだ。既に気を失っている状態。ならば、その上での暴行は、やはり命に直結する。

足下の男を守るため剣先を上げたテレーズに、一歩足を引きずりながらニクスキーは歩み寄る。

その足の感触に、確信した。逃げることは出来ない。この足では、テレーズを振り切ることは。

足を止め、ニクスキーは静かに口を開いた。

「戦う意思はない。通してくれ」

「お前、今頃それか?」

呆れて眉を上げ、テレーズは返す。取られた選択肢は一つ目と三つ目の混合。弁解し、この場を去るというもの。

だがそれは出来ない、と手に力を込めた。

「まあ、無理だな。事情も聞かず解放は出来ん。これでも治安維持に協力しなけりゃいけない立場なんだ私は」

それに、とテレーズは内心付け加える。鼻の奥で何かを感じた。かすかに感じ取れる臭いは金属の香り。それに他の何かが混ざっていて、それはテレーズにとって逃すことの出来ない違和感だ。

「大人しくついてきてくれるんならありがたい、衛兵の詰め所までご同行願おうか」

もっとも、テレーズはここがどこだかもわからないのだが。

ニクスキーは逡巡する。

ついていくのは簡単だ。だがその先に何がある。

この聖騎士は、未だにここで行われていたのが単なる喧嘩だと思い込んでいるらしい。衛兵や騎士を巻き込んでいることは彼らの姿形からわかっているだろうが、それでも。

何の事情も知らない人間が会話も聞かずに外から見れば、自分はただ襲われ、撃退しただけだ。仮にニクスキーが無辜の人間ならば、簡単な取り調べの後釈放されるだろう。

だがそんな街角で行われるような口喧嘩の延長とは事情が異なる。

取り調べが行われれば、ウェイトの身分が明らかになるだろう。そしてウェイトの口から自分の罪状がつらつらと並べ立てられ、これは喧嘩ではなく熱血の聖騎士による捕り物とでも姿を変えるのではないだろうか。

正義の手により裁かれるのは構わない。

だがこの結末には納得がいかない。

「……お断りする」

「だろうな」

呟いたニクスキーに、テレーズはため息で応える。

尋常ではない腕。それに、この裏路地で行われていたという特殊性がこれを単なる喧嘩とは見せない。

これは喧嘩ではなく、なにかしらの戦いだったのだろう。互いに何かしらを賭けて戦っていたのだろう、と何故だか憐憫に似た感情が湧いていた。

「すると私は、お前を叩きのめしてこの男たち共々強引に出頭させるしかないのだが」

「やってみろ」

「そうするよ」

テレーズが一歩踏み込み手を伸ばす。

先ほどウェイトに仕掛けた投げ技と同様のものと思いニクスキーは下がって跳ぶ。そして思った通り、テレーズの特殊な踏み込みにより、その手は伸びるようにニクスキーの襟へと到達した。

「…………!?」

だが、テレーズは掴んだ襟の感触に違和感を覚える。これは、ただの布。

ほんの摘まめるような一部分。ニクスキーの《陰斬り》により既に切り取られていた外套の襟の一部分は、テレーズが掴んだことで分離し、蜥蜴の尻尾のように本体の身を守る。

そして逆にその腕をニクスキーが掴めば、立場は逆転した。

「ぅに……!!」

腕を逆間節に取りながらの背負い投げ。常人であれば、肘を折られた上で背中から地面に叩き付けられるものである。

テレーズは、自身の体が軽々と地面から離されるのを感じ、やはりとその腕前に感服した。

しかし、感服したきりではしょうがない。

空中でテレーズは体をひねる。その動作で逆関節を逃れ、反転。ニクスキーと正対するようにしつつ両足を正しく地面に向ける。

そして足が接地した瞬間、雷のような速度で振るわれた拳がニクスキーの顔に飛んでいく。

ゴ、という鈍い音と共に腕でそれを防いだニクスキーは、闘気を込めているはずの自身の腕の骨が軋んだのを如実に感じた。

「まるで猫だな」

「可愛いという褒め言葉と受け取っておこうか」

打撃と共に腕を抜いたテレーズが、その勢いのままニクスキーに数発の拳をぶち当てる。だがそれを全て防ぐニクスキーに、この日何度目かもわからない感嘆の息を吐いた。

一方、ニクスキーはその腕の痛みと共に焦りが増していった。

(……腕が……)

渾身の一撃、という風ではない。しかしその身に込められた途方もない闘気に、体の使い方。ただ単純なそれが、手打ちに近い一撃を完璧な打撃に変貌させている。

骨が軋み、痺れに似た痛みが広がっていく。既にいくつも入った腕の骨の罅が、ニクスキーにその腕の使用の中止を進言していた。

昔ニクスキーは、竜と戦ったことがある。

そのときに受けた、端の見えない巨体から繰り出される尻尾の一撃。それを防いだときの腕の痺れに似て、それでいてなおあまりある衝撃だと感じた。

このまま打ち続けられていれば、根性などの問題ではなく機能的に腕が上がらなくなる。

もちろん、ニクスキーは本来ならばそのような打撃を受け流すか躱すかする。しかしそれも、片足で出来ることではない。

じっとただ凌いでいるわけにはいかない。

テレーズの打撃のうち、ほんのわずかにある一瞬の間隙。決意したニクスキーが、そこに攻撃を差し込もうとする。

だがそこでニクスキーは気づいた。

未だその片手に握られている彼女の剣。

あまりにも鋭く強いもので気づかなかった。今までテレーズは、片手で……。

顎を狙い、繰り出されたニクスキーの左の手刀。黒々流の流れを汲んだ、常人ならば全く気づかぬうちに闇の中に落とすような鋭いものだったが、テレーズは見逃さない。

その伸ばされた腕を鞘で包まれた剣で払う。 交差法(カウンター) で打ち込まれたその打撃は鋼より強いニクスキーの腕を容易くねじ曲げ、両者の耳に、骨が砕ける鈍い音を届けさせた。

堪らずニクスキーは一歩跳んで下がる。テレーズはそれを追わず、ただ鋭い目つきで見据えていた。

「…………」

「睨むなよ。叩きのめすと最初に言ったはずだ」

無表情に近いニクスキーの目を見つつ、テレーズがせせら笑う。そんな挑発など、目の前の男には一切効果はないと思いつつも。

折られた腕に力は入らない。ニクスキーは右手で揉むように整復しつつ闘気を濃くしその治癒を早めようとするが、その暇もなかった。

今度はテレーズが跳びかかる。それも今度は狙うは投げによる制圧ではなく、打擲による沈黙。

鞘越しの剣の打撃。片手片足が使えないニクスキーは、それを舌打ちをしつつ迎撃しようとする。しかし、出来ない。

「……! …………!」

右手を存分に使い、体をひねり、躱し、逸らし、テレーズの攻撃を防ぐ。

しかしテレーズの技巧の前にその防御はほとんど意味をなさず、ただただ素人が達人に殴られるように、一方的な殴打を受けた。

上段からの振り下ろしの軌道を、右手を添えて合わせ変える。後はただ身をわずかにひねれば回避できていたはず。肩を狙った突きはわずか下がれば当たらない。嵐のような連撃の最中でも、ニクスキーはいつものようにひとつひとつそれをこなし、そして失敗した。

右足が使えないから、左腕が使えないから、と言い訳のような言葉がニクスキーの脳裏に浮かんだが、すぐにそれは分析に変わる。

自身の変化のせいではない。それは、テレーズの太刀筋の影響だ、と。

ふ、と短く息を吐いてテレーズが左斜め下から切り上げる。それを体を反らし回避したニクスキーに、その切り上げは引かれもせず、仕切り直しもせず斜め上から襲いかかり右腕を打った。

(これが〈飛燕〉か)

折れてないことを確認しつつ、急所に打ち込まれる剣を右掌で受け止める。既に中手骨も折れているその掌は、急所でなくとも衝撃に激痛を発していた。

実際に目にしたのは初めてだが、テレーズの名前は、その〈飛燕〉という二つ名と共にニクスキーは知っていた。

彼女の主な流派は青星流と呼ばれている。

エッセン西部のごく一部地方で学ばれている流派。その攻撃は変化に富み、いかな達人であろうとも防ぐことは出来ないという。

その流派のうち、テレーズも得意であり今まさにニクスキーが苦しめられている技法は《燕返し》と名付けられている。他の流派でもたまに見られるその技法は打撃斬撃全般に使われ、その性能を底上げする。

《燕返し》の術理は、軌道の変化。彼らの使う斬撃はまるで宙を舞う燕のように急制動し、一振りのうちに切り上げ切り払い切り下げと複数の要素を持たせる。ごく簡単に言えば、曲がるのだ。

しかし斬撃や打撃を曲げるといえば簡単なことともいえない。

楽団の指揮者のようなふわりとした動きなら常人でも可能ではあるが、これは『全力での攻撃でも可能』という注釈もつけられるのだ。

自身の全力の攻撃には、もとから自身の全筋力が動員されている。そこに新たに要素を付け加えるというのは必ず筋肉に無理をさせるということであり、時には自身の筋肉が引き千切れることすらもある。

鍛錬中に、自身の攻撃が原因で自身が痛めつけられる。そんな不条理な鍛錬。修行者には、肩が外れ癖になるものも大勢いる。素振りすら苦痛を伴う訓練に嫌気がさし、その道を自ら閉ざす者もいる。

テレーズも例に漏れず、修行中は幾度となく自分の手で傷を負った。その苦痛の果てに手に入れた技法、《燕返し》。

その技法は達人に見られる見切りという動作を躱し、その体に攻撃を加える。

たとえば、体を揺らすだけで攻撃を躱す水天流六花の型の天敵。現水天流当主クロード・ベルレアンがまだ未熟だった修行時代、テレーズに勝てなかった要因の一つである。

とん、と平時では鳴らさない足音を鳴らし、ニクスキーがまた一歩下がる。

その背に軽い衝撃を覚えた。ふと見れば、背には石の壁。

追い詰められた、と気づいたときには遅かった。

ニクスキーの胸に、テレーズの固い掌が押しつけられる。剣もニクスキーの首に押し当てられ、鞘がなければ死を覚悟するような状況だった。もっとも、テレーズは常人相手ならば鞘のままでも首を飛ばすことが出来るのだが。

「降参するか?」

「…………」

返事をしようにも、乱れた息に出来ないニクスキー。元々返事などする気はない。

一拍待って、テレーズは「そうか」と残念に思いながらも掌に力を込める。

瞬間、響く轟音。

「ぐ……ぁ……!!」

ニクスキーの口から苦痛の声が漏れる。

テレーズがまったくの距離なく掌で放った《無寸勁》と呼ばれる打撃はその大半の威力をニクスキーの全身に浸透させ、なお余った衝撃が背後の石壁にニクスキーよりも大きな円形の打撃痕を残した。

ニクスキーが、ついに膝から崩れ落ちる。肋骨が全て砕かれたような感覚に、痛み。事実、ほとんどの肋骨には罅が入っていた。

倒れ伏そうとする体を、右腕の力でかろうじて止める。ニクスキーが俯き汗を垂らし、唾すら落ちるのを止められないのは修業時代以降初めてのことである。

そのもはや反撃すら出来ないと思える姿を見下ろしつつ、テレーズはまた尋ねる。死ぬとも思ってはいなかったが、意識を失っていないそのニクスキーの強さを認めつつ。

「……降参するか?」

「…………」

荒い息を吐きながら、ニクスキーは俯いたままだった。

しかしその右手が何かを握りしめるのを見たテレーズが、その奥襟を掴む。

まるで、ただ荷物を放り投げるように、ニクスキーがテレーズの頭上を舞う。ニクスキーの握っていた寸鉄がテレーズの横に落ち、それと同時にニクスキーの背中も地面に叩き付けられた。

テレーズの手から離れたニクスキーが、重病人のようにのそりと体を這わせ、懸命に顔を持ち上げる。まるで跪くような形で止まり、テレーズはその姿に自身の騎士の叙任式を思い出した。

睨み合うような一瞬の姿。だがその次の瞬間には、テレーズがため息をついて気取った姿で右掌を天に向けた。

「あのなぁ。もうどう見てもお前の負けだろ。降参してくれないか、悪いことはいわない」

「…………」

「もしくは事情を話すんならここで聞いてやる。お前の強さはわかったから」

テレーズは余裕を見せて語りかけているが、内心焦っていた。

自身の攻撃がこれほど凌がれるとは思ってもいなかった。全力で放った《無寸勁》は聖領ウラテムにある鉄の小山すらも崩せるものなのに、とも。

強引につれていくことも可能かもしれないが、点穴すら効くだろうか、とも疑問に思ってしまう。

そしてもう一つ、焦りとは違う感情が胸の内に湧いた。相手は自分以上かもしれない武人。その腕前を練り上げた鍛錬の日々や、その技術自体に感じる畏敬、尊敬の念。

足が万全ならば、勝てなかった。そんな気がする。

そもそもこの腕があれば、今転がっている男たちも殺すことが出来ただろう。

しかし死んでいない。ならば殺意などなかったのだ、と納得も出来た。

「…………負け、か」

テレーズの言葉にニクスキーは呟く。確かに負けなのだろう。

満身創痍。生殺与奪の権はテレーズに握られ、もはや反撃も功を奏さない。ふと口元に笑みが浮かぶ。もう勝てないのだ、と悟って。

ちらりとウェイトを見れば、未だに眠ったまま。しかしその姿に、ほんのわずかに賞賛が浮かんだ。

今この場にニクスキーがいるのは、ウェイト・エゼルレッドがそう運んだからだ。

自身の立ち寄る場所を特定し、店主をどうにかして抱き込み、現在の居場所を特定した。足止め役に配置したキーチ・シミングは確かに自分の足止めを成功させ、ウェイトに罠を作らせる時間を与えた。

ウェイトの罠と、ホウキを捕獲するという用意周到さが隙を生み、おそらくプリシラがこの足を奪った。

そして逃げられないままに、……おそらくこれもプリシラの用意した刺客、テレーズ・タレーランが現れた。

全ての流れはたしかに自身の捕縛というものに向かい、そして成功した。

もはやこの足ではテレーズからは逃げられず、反撃の力も残っていない。

捕縛されるのだろう。このまま、テレーズの手で。

お世辞にも正義に属するとは思えないウェイトの作った流れのままに、愉しみで手を貸したプリシラの力も借り、何も事態を理解していないテレーズの手で。

望ましい終わり方ではない。

このまま捕縛され、処刑されるにしても、それはまだ見ぬ正義の手によるものだ。

決して、こんな流れは望んでいない。

ニクスキーは、乱れた息を強引に吐いて吸って元に戻す。折れた肋骨が肺に触って激痛を発した気がした。

「降参を認めるな?」

「…………」

テレーズの声に、思わずニクスキーは反論しようとする。嫌だ、こんな終わりなど認めない、と駄々をこねるようにしたいと思った。

けれども、出来なかった。グスタフの死を思い出して。

グスタフは、正しい正義に負けたいと望んでいた。

いつか誰かが、この街を、国を、世界をより善いものに作り替えてくれるはずだと信じて、その誰かを待ち望んでいた。

だが死んだ。その望みは達成されず、ただ貧民街の片隅で、惨めな老人として独り寂しく。

老いに負けるなど、望んでいなかったのだろう。悔しかったに違いない、とニクスキーは察する。

いつか劇的な死が訪れるように、と願い、それが叶わず静かに死んだ。

今の自分も同じだ。

テレーズ・タレーラン。腕前は称えようもないほどだが、何も知らない部外者だ。

キーチ・シミング。その心意気は認めたいが、腕前も思想も充分ではない。

ウェイト・エゼルレッド。腕前はテレーズに劣り、ニクスキーには善いものには見えない。

関わり名前を聞いた三者。それに、プリシラ。そのどれに対しても、自分は望んでいない。

だが、望みは絶たれた。

ここで自分は負けた。もう抗いようもなく、そして石ころ屋の遺産の場所までも吐けば、それはもう完全なる敗北といってもいい。

テレーズにより護送され、ウェイトの証言により自分の罪は明らかになる。

テレーズは第七位聖騎士団長と聞く。そして、聖騎士団長は、番号の若い者ほど強い、と。

ならばこれよりも強い者が複数、少なくとも一人以上は今この街にいる。ならばどこかで脱走なども出来ず、戦時下といえども彼らの協力で粛々と刑は執行されるのだろう。

顔を上げたニクスキーの目に、テレーズは並々ならぬ決意を見る。それはまるで、死を賭した男の顔。

「……先ほど俺が戦っていた男。タレーラン殿が締め落とした男に伝えてほしい」

「お? おう?」

静かな言葉に、思わずテレーズが応えてしまう。本来なら、聞き流してよいことなのに。

ニクスキーは思う。引き継いだ事業は成されず、自身の才覚では今後も成す展望は一切立たない。元々無理だったのだ。グスタフがいなくなった途端に、このような事態に追い込まれる。これこそが、器の差だったのだろう、と。

グスタフが死んだためにウェイトはこの街に来たが、その他は本来は偶然だ。テレーズがこの街に来たのも、ウェイトの企みがプリシラの助けもあり成功したことも。

だがその偶然が、もはやニクスキーには偶然とは思えない。

一番街にある副都城、その中で、ここ数百年は使われていない隠し通路の迷わすための行き止まり。そこにはいくつかの犯罪者を追うための記録や手がかりと共に、次の隠し場所を示す手がかりがある。その手がかりを元に調べれば、一番街の貴族の隠し倉庫、その中に勝手に作った隠し扉に辿り着く。

同じように隠し倉庫にも、次の手がかりが置いてあり、辿ればまた次へ。それを繰り返し、時には以前の手がかりも統合して考え、解き、最後に辿り着いた場所に、石ころ屋の遺産が隠してある。

その最初の手がかりをウェイトに教えれば、有効に使ってくれるだろうか。

数々の犯罪を暴きつつ、時には王族や貴族の妨害に立ち向かいながらも辿り、手に入れてくれるだろうか。

そんな誘惑が、ニクスキーの胸中にほんのわずかに湧き出てくる。

死は甘い誘惑だ。敗北により解放され、この苦しみから逃れられるならば。

グスタフに託された重い荷。それを手放すことが出来るのならば。

もとより、納得できる死を選べるとは思っていない。

グスタフは死んだ。望みを一切叶えられず。

悪人とは、邪悪とはそういうものなのだろうとニクスキーは思う。レイトンにも昔聞いたことがある気がする。『邪悪は必ず最後に負ける』と。

ならば負けるのだ。自分は、決して望む敗北は得られない。

ならばそうしよう。

ここで死のうと、処刑されようと、真の敗北ではない。

ならば、敗北をするためには。

「……石ころ屋の遺産、その場所は……」

テレーズは、何の話だ? と首を傾げる。知らない固有名詞。遺産という言葉。

聞きながらも、後でその男に尋ねればわかるだろうかと考えた。

何故だかその詳細を、ニクスキーに尋ねる気にはなれなかった。

ニクスキーはほんの一瞬言葉に詰まる。

ここで吐けば、敗北できる。抱えきれない重い荷物を下ろし、あとはウェイトに託すことが出来る。テレーズでも構わない。彼女の性格についても、その思想についても知らないニクスキーにはその効果を考えることも出来なかったが。

鳥が鳴いた。

テレーズはやけにうるさいと感じた。

それでも鳥たちは続ける。一瞬の沈黙に抗議するように、ガアガアと。

ニクスキーは王城内の隠し通路の場所を吐こうとする。

だがその言葉は詰まり、吐き出せず自身でも戸惑う。言いたくない、と感じた。論理的でもなく、感情に至るまでもない何か小さな引っかかりが心のどこかにあった。

小さな雀が鳴き、鋼線を避けて舞い降りる。

その感情の見えない瞳を見て、ニクスキーはどこかから自分の声を聞いた。

先ほどレイトンに言われた言葉も交えて。

正義にしか負けたくない。それ以外には、敗北など認められない。

言葉を出さず、ゆるやかに笑ったニクスキーに、テレーズはまた戸惑う。

笑うところだろうか、と場違いなことまでも考えた。

ニクスキーは晴れやかに微笑み、残りの言葉を口にする。

「自分で探せと言ってくれ」

沈黙のまま、死ぬ。

敗北を認めず、惨めにあがき続ける。処刑場に上がるまで。

ニクスキーは見つけた。それが自分に出来る、最後の仕事だ。