作品タイトル不明
第2話 秀長という男
生まれてから、十数日が経った。
目を開けるたびに、世界は少しずつ輪郭を持ちはじめていた。
視界を覆っていた白い 靄(もや) が薄れ、人の声が耳の奥に残り、言葉の端々が意味を帯びてくる。
私は乳母の温もりに抱かれ、城の奥へと運ばれていた。
足の裏に伝わるわけではないが、揺れ方でわかる畳の感触。
障子を透かして差し込む、淡い冬の光。
地響きのように遠くで鳴り響く太鼓の音。
城の中だということは、もはや疑いようがない。
回廊を進むにつれ、空気が変わる。
人の気配が増え、衣の擦れる音や、おびただしい数の紙を繰る音が混じり始めた。
やがて、控えめに開いた襖の向こうから、男たちの低い声が漏れ聞こえてきた。
「……長浜の城下は、ようやく人心が落ち着いてきましたな」
長浜
その地名を聞いた瞬間、頭の中で点が線になる。
近江、浅井旧領
羽柴秀吉が織田信長から与えられた新領地
そして、秀長が政務を一手に引き受けることになった場所。
別の少し若い声が割り込む。
「春までに領内の国人共を完全に従えねばなりません。信長公の軍勢が東へ動かれる前に」
「三河・遠江の境が、きな臭いと聞きますな」
「武田が出張ってくるなら、今年が山場でしょう」
私は、それらの断片を頭の中で並べる。
羽柴が長浜にいる。
東国で武田が動く。
信長は大軍を動員する準備。
この組み合わせから推測できるのは―
織田信長が武田騎馬軍団に決定的な勝利を掴む、長篠の戦い、その年。
おそらく、天正三年(1575年)
歴史の大きな節目。
時代の歯車が音を立てて加速し始める直前。
私は、乳母の腕の中から、襖の隙間を凝視した。
おぼろげな視界の先、畳の上にこれでもかと広げられた帳面と、山積みにされた書状が見える。
ツンと鼻を突くのは、濃い墨の匂いだ。
その部屋の中央に、背筋を正して座る男がいた。
私の父、羽柴秀長である。
細身の体躯だが、体幹は微動だにせず、その表情には静かな穏やかさが漂っている。
周囲には、眉間に皺を寄せた数人の家臣が控えていた。
「高島郡の村々の石高でございますが…去年より下がっております」
「雨が少のうございましたから」
父は小さく頷き、帳面に目を落とした。
「……そうですか」
声は静かで、柔らかい。
「用水路の修繕は、どうなっていますか」
「は、冬のうちに終えております」
父はほっとしたように息をついた。
「それなら、今年は半免にしましょう」
半免。年貢を半分に減免するという、この時代には破格の決断だ。
案の定、家臣の一人が慌てて声を上げる。
「殿、それでは……今年の収支が合いませぬ!」
父は苦笑した。
「ええ、分かっています。ですが、今年は米を無理に刈り取る年ではありません」
家臣たちの顔を一人ずつ、諭すように見渡しながら穏やかに続ける。
「田が荒れれば、来年も取れなくなります。まずは村を休ませ、元気になった村から、少しずつ戻してもらえばよい。来年、再来年、彼らに余裕がある形で返してもらえれば、それで十分です」
短期の収奪ではなく、長期の育成と収穫。
父はそれを、さも当然の義務であるかのように選んでいた。
別の家臣が進み出る。
「城下の町割りについてでございます。商人が予想以上に増え、道が手狭になっております」
父は少し考え、微笑んだ。
「では、広げましょう」
即断だが、押しつけではない。
「道が広ければ人が集まり、人が集まれば商いが生まれます。商いが生まれれば銭が動き、銭が動けば、兵を動かせます」
家臣たちは深く頷いた。
政(まつりごと) と戦を、無理なく一本の論理で結ぶ視座の高さ。
この人は、単に兄・秀吉を支えるだけの武将ではない。私はそう思った。
家臣が、次の書状を開く。
「浅井旧臣の件ですが……未だ、三名が帰順の証を立てておりません」
父の端正な眉が、わずかに寄せられる。
「……困りましたね」
家臣たちが、厳しい処罰が下るかと身構えた。
だが、父は静かに首を振った。
「斬らずに済む道を探しましょう。彼らの田地を一度、預かってはどうですか。土地を失えば戦はできませんが、家族を養うことはできる。生きてさえいれば、彼らも考え直す時間を持てますから」
乳母が、私の耳元で気の毒そうに小さく囁いた。
「殿は……本当に、いつお休みになられているのか……」
見ると、父の机の隅には、昨夜の食事がそのまま残っていた。
箸もつけられていない。
「深夜を過ぎても、あのお部屋の灯りが消えぬことも珍しくございません」
乳母の言葉に、私は胸の奥が凍りつくのを感じた。
知っている。私は、歴史を知っているのだ。
この、他人のために命を削るような働き方を、これから十数年も続けた男の末路を。
過労、発病、そして早すぎる死。
父はふと、私の方を見た。
几帳(きちょう) の隙間にいる赤子の私と、視線が交差した。
「……竹若」
その声は、政務の時よりもずっと柔らかい。
父は立ち上がり、そっと私を抱き上げた。
強くしなやかな腕だ。
「この子を見ると、不思議と心が安らぐ」
そう言って、やさしく元の場所に私を戻し、すぐにまた山積みの書類が待つ机へと戻っていった。
その背中を見つめながら、私は思った。
この人は、国のために、兄のために、自らの命を削っていく。
それは美徳であり、この人の最大の長所だ。
そして同時に、豊臣という家における、決定的な弱点でもある。
父が倒れる未来を、私は知っている。
そして、この巨大な政権を裏で支えていた最大の支柱が折れたとき、豊臣の家が音を立てて崩壊していったことも。
今は、何もできない。
この不自由な赤子の身体では、ただ見ていることしかできない。
それでも、時間はある。
ゆっくりと備える時間がある。
私は、まだ頼りない小さな手を、ぎゅっと握りしめた。
すべては、ここから始まる。私の、二度目の生が。