作品タイトル不明
試作
1565年夏
照りつける日差しが駿府の緑を色濃く染め上げる頃、氏真は側近である富士信忠を密かに執務室へ呼び出した。長年温め、研究を重ねさせてきた通貨、それも紙幣、富士札の構想がいよいよ結実の時を迎えようとしていたのだ。
「左京亮。伊勢神宮との交渉は順調だ。いよいよ、あの紙幣の試作に入りたい」
氏真は机の上に、全国から取り寄せた極上の素材の数々を並べた。
「まずは紙だ。越前の最高級の和紙を用い、そこに富士の透かしを入れる。そして印肉には飛騨で産出される極上の辰砂を、文字や記号には熊野の松煙墨を用いる。さらに、紙の耐久性を高めるために駿河の茶を漉き込み、仕上げに柿渋を塗布して光沢と手触りを加えるのだ」
信忠は並べられた素材を前に、真剣な眼差しで頷いた。
「見事な素材の数々にございます。しかし、これらをどのようにして一枚の札に仕上げるおつもりで?」
「原案は、京で庇護している狩野永徳に描かせる。あの天才の筆致を版画の精緻な彫りで和紙に写し取るのだ。だが、最も重要なのはその製造工程だ」
氏真は地図を広げ、各地の拠点を指差した。
「製造は一箇所で行ってはならない。紙を漉く越前、印を押す飛騨、墨を入れる熊野…工程を各地の拠点で完全に分割するのだ。全体の配合や最終的な工程を知る者は、私とそなたを含めた極一部の者のみに秘匿する。拠点を遠く離すことで、内部の人間による不正な知識の流出や、勝手な増刷を物理的に抑え込むことができる」
ここまで徹底すれば、偽造は不可能に近い。長年、職人たちに研究させてきた偽造防止の知恵が、ようやく花開くのだ。
「そして権威付けだ。この富士札には、あえて今川の印は入れない」
氏真の言葉に信忠は驚いた顔を見せたが、氏真は笑って続けた。
「今川が己の権力を誇示するために発行するのではない。これは、あくまで日ノ本の共通した権威のもとに作られる、天下の理なのだ。ゆえに、神々の頂点である伊勢神宮の御印と、朝廷が下賜する五七の桐のみを押す。これを偽造し、欺くことは、神仏や伝統に対する大逆罪となる。誰も手出しはできまい」
伊勢神宮からの正式な返事が来れば、最後に朝廷に奏上する手はずである。
「この富士札が完成した暁には、税の納入をこの紙幣で行わせるようにする」
氏真は新たな経済の青写真を語った。
「農民は収穫した重い米を長距離運ぶ必要はない。米は最寄りの市場や蔵で買い取らせ、その対価として富士札を渡す。そして、その軽く持ち運びの容易な紙幣で税を納めるのだ。耐久性のある和紙で作られたこの札は、必ず民の信頼を得る」
もちろん、最初からただの紙切れを信用しろと言っても無理がある。
「ゆえに、富士の麓に製造拠点とともに巨大な両替所を設ける。万が一の時は、この札を金や銀と交換できると保証するのだ。いわば、権威による信用と、物質による信用の両輪である。徐々に金の準備率は下げていくつもりだが、まずはここが落とし所であろう」
急激な移行は経済の崩壊を招く。自由経済の波に呑まれぬよう、しばらくは今川の手で米の値段を厳密に管理し、徐々に調整していく必要がある。
「上手くいけば、いずれ北条や三好にもこの札を使ってもらおう」
氏真は扇を広げ、不敵に笑った。
「将来的には、この富士札を己の領内で使うか否かが、今川との関係を推し量る踏み絵になるやもしれんな」
信忠は武者震いをするように深く平伏した。銭と理による天下布富の総仕上げが、静かに始動したのである。
早川殿:長年の夢、黄金の紙
「御前!これは凄いことだ。かねてより私が思い描き、実現させたいと思っていたことが、ようやく花開きそうだ。伊勢に行き、あの羽書を見た時、私は脳に衝撃が走ったんだ。この富士札が流通すれば、日ノ本の経済は変わるぞ。気をつけねばならぬことは多々あるが、より便利に、より早く、より正確に物が、銭が流れるのだ。これは絶対に失敗されるわけにはいかないな…!」
殿が珍しく興奮しております。普段は穏やかに、そして冷静な殿ですが、ここ数日、このような様子で、私に様々なことを教えてくださります。
「まずは金額を分けて五種類ほど作るのが良いだろうな。市場の需給はどのように計ろうか、諜報班にも共有せねばなるまいな。そして持ち運びが容易になるということは盗まれる危険も増すということだ。道や村の警備を増やし、安全に使ってもらわねばなるまいな」
殿は改革が大変お好きなようです。こうして新たなことを始めようとする時、いつも多くのことを考え、時には寝食を忘れて評定衆や重臣の方々にお話する草案を作られております。私には身体は問題ないか、不調はないかと気にかけてくださるのですが、ご自身のことは後回しにしてしまいます。
「殿。殿のお話が素晴らしいことは大変よくわかります。ですが殿、本日はもう休まれませんか?お食事のあとも働き詰めではありませんか」
「うーん、そうだな。だが丁度煮詰まってきたところでな…」
「殿は普段から、家臣の皆様に対し、根を詰めすぎるな。休息も務めである。と仰っておりますよね。殿のお務めは違うのですか?」
「あ、いや。違わないな。すまない、御前。もう寝るとしようか」
いくら灯りを使う余裕があるとは言え、身体の方はいつまでも無理は効きません。殿のお務めの邪魔をする申し訳なさはありますが、誰かが止めなくては、殿はいつまでも働き続けるときがあるので、心配なのです。
「さあ、殿。こちらへいらっしゃってください。五郎丸ももう大きくなりましたね。伊勢も落ち着きました。そろそろ…」
「よし、御前。夜はまだまだ長いぞ」
そう言って殿は布団に潜り込んで参りました。殿を休ませることも妻の務め、となれば私は務めを果たすことが出来ているのでしょうか。
少々、自信が無くなってしまいました。