軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

薬酒の噂

昼下がりの厨房には、刻んだにんにくの香りが満ちている。

薄く切った玉ねぎを鍋に放り込む。オリーブオイルが熱を受けて揺れ、玉ねぎが透き通り始めると、甘い香りが広がった。フサタケを加え、木べらでゆっくりとかき混ぜる。土の風味が空気に溶け込み、鍋の中に深みが生まれていく。

かまどの火を消し、ふたをする。あとは余熱が仕上げてくれる。リーナは手を拭い、買い物籠を手に取った。調味料の補充に行こう。

市場に着くと、いつもの活気が迎えてくれた。

焼きたてのパンの香ばしさが風に乗り、魚屋からは威勢の良い声が響く。並んだ野菜の間を人々が行き交い、呼び込みの声に混じって、商人たちの立ち話が耳に飛び込んでくる。

「王都では薬酒が大流行だそうだ」

「美容にいいとか、疲労回復に効くらしい」

「貴族の奥方たちがこぞって求めているんだと」

薬酒。リーナは籠の中から、ひときわ鮮やかな赤いトマトを手に取った。手に取ると、張りのある皮の下に詰まった果肉の重さが伝わってくる。

「こんにちは、リーナちゃん」

八百屋のベラが声をかけてきた。陳列台のレタスは、まるで今朝畑から届いたばかりのように、水滴を弾いて瑞々しい。

「こんにちは、ベラさん」

「さっき聞いたんだけどね」

ベラは声を弾ませ、人差し指を立てた。

「ミリンシュっていう薬酒が王都じゃ特に人気なんですって。もう手に入らないほどらしいわよ」

「ミリンシュ……」

名前を繰り返すと、ベラは大きく頷いた。

「東方から来た薬酒らしいの。甘くて飲みやすいんですって」

トマトを袋に詰めながら、リーナは耳に残ったその響きを反芻する。ミリンシュ。

(ミリンシュねぇ。何か聞き覚えあるんだよな)

ベラは別の客に呼ばれ、「また今度ね」と手を振って立ち去った。

市場を後にして、石畳の道を歩く。

籠の中で野菜が揺れる音。すれ違う人々の話し声。遠くで響く鐘の音。

ミリンシュ。頭の中で、さっきの言葉が繰り返される。

(ミリンシュ。ミリンシュ。東方から来たって言ってたっけ? ミリン、シュ……? ミリン?)

リーナの足が、止まった。

周りの音が、遠のいていく。市場の喧騒も、風の音も、すべてが遠い場所のもののように感じられる。石畳を見つめる。灰色の石が、午後の陽射しを受けて白く光っている。

(ホントに……味醂?)

前世の惣菜屋の厨房。並んだ調味料の瓶。照り焼きに使った。煮物に使った。魚の臭みを消すために使った。砂糖では出せない、あのまろやかな甘みと旨み。素材を引き立てる、あの上品な照り。

(でも、薬酒って言ってた。美容に良いって。じゃあ違うのかな)

リーナは顔を上げた。視界が鮮明になる。音が戻ってくる。市場の喧騒。人々の足音。籠を握る手に、力が入る。薬草店に行って確かめなくては。

足が、自然と動き出していた。

***

薬草店の前で、リーナは息を整えた。

店先の棚に並んだ瓶の中で、ひときわ目立つところにミリンシュが置かれていた。

瓶に近づき、顔を寄せる。甘やかな香りの奥から、爽やかなハーブの香気が立ち上ってきた。鼻先をくすぐる青々とした匂い。いくつかのハーブが混ざり合っている。

「いらっしゃいませ」

奥から現れた店主が、笑顔で声をかけてきた。

「ミリンシュですね。甘くて飲みやすくて、特に女性のお客さまに人気なんです。疲労回復に効くって評判で」

リーナは瓶から視線を外さず、意識を集中させた。淡く文字が浮かび上がる。

『 美醂酒(ミリンシュ) ハーブ入り』

『品質:中級』

『特性:甘味が強く、ハーブの香りを持つ酒類。東方由来』

『用途:飲用、調理』

指先が、わずかに震えた。

「あの」

声が、少しだけ上ずった。

「これ、どこから来たものなんでしょうか」

「ああ、東方の商人が持ってきたものなんです」

店主は嬉しそうに答えた。

「最近入ってきたばかりで、詳しいことは私もよく分からないんですけどね。ハーブを漬け込んで作る薬酒だそうで、美容にもいいらしいですよ。王都では貴族の奥方さまたちが買い占めてるって聞きました。うちにもこれしか残ってなくて」

東方の商人。

エドワードさんかもしれない。いや、他にも東方交易をしている商人はいるだろうけど。

リーナは瓶を手に取り、傾けてみる。とろみのある液体が、ゆっくりと瓶の内側を滑り落ちる

(味醂っぽいんだよな。ハーブの香りでよく分からないけど)

これを料理に使えば、ハーブの主張が強すぎて、素材の味を覆い隠してしまう。これは飲用として楽しむためのものだ。

「あの、ハーブが入っていないものは、ありませんか」

「ハーブなしですか? うーん、見たことないですねえ。美醂酒っていうのは、ハーブを漬け込んで作る薬酒ですから」

でも、鑑定には「調理」と出ていた。本来は、調理に使うものだったはず。ハーブが入っていない、純粋な甘みと旨みだけを持った酒。

「そうですか……」

リーナは瓶を棚に戻した。琥珀色の液体が、名残惜しそうに揺れる。

「もし、ハーブが入っていない美醂酒を見かけたら、教えていただけますか」

「はあ、まあ……分かりました」

店主は戸惑いながらも、頷いた。

礼を言って店を出ると、午後の風が頬を撫でた。空は高く晴れ渡り、遠くで鳥が鳴いている。

リーナは籠を抱え直し、歩き始めた。

本物の味醂が、この世界にもあるかもしれない。

ハーブが入っていない、調理用の。それを手に入れることができたら、料理の幅が一気に広がる。照り焼き。煮物。魚の煮付け。前世で当たり前に作っていたあの味を、やっと作れるかもしれない。

エドワードさんに会ったら、聞いてみよう。東方の調味料について。もしかしたら、彼なら何か知っているかもしれない。リーナの足取りは、来る時よりもずっと軽かった。