作品タイトル不明
97話 ルクレティアの手のひらの上
「もう無理だ。お前をどうこうすることも、俺にはもう出来ない」
「なんで?」
「今のルクレティアお嬢様が、お前に操られたわけではない、あるがままのお嬢様であり、あの恐るべき策謀すらお嬢様ご自身のありようだというなら。……俺の行為は 私怨(しえん) 、憂さ晴らしだ。私怨でお前を処して、お嬢様の最大の武器を奪うことは、ルクレティウス家――いや、マルクス様への裏切りになる。そんなこと、俺にはできない」
「じゃあ、どうするの?」
「お前が、お嬢様を裏切るその時まで。この感情は心の奥底にしまう」
誓いを立てるかのような声色と共に、おっちゃんはゆっくりと立ち上がった。
その顔は、ルクレティウス家を支えてきた男の顔。
「そして、お前がお嬢様を裏切り、食い物にしようとした時……俺は、どんな手段を使っても、必ずお前を殺す。幸いなことに、お前がそれを出来る力をくれたことだしな」
「お嬢様の策謀が上手く行ったら、俺、ルクレティウス家を継いでルシウス・ルクレティウス・フロントになるんだけど。そこんところはどうなの?」
「俺が忠誠を誓ったのは、マルクス様だ。そしてマルクス様の子で、俺を奴隷の身分から解放してくれたルクレティアお嬢様にも、生涯忠義を誓う。だが、ルクレティウス・フロントという『家名』そのものに盲目的な忠誠を誓っているわけじゃない。だからお前がルシウス・ルクレティウス・フロントとなったからといって、お前に忠誠を誓うことはない」
明確な拒絶。
だが、それがおっちゃんにとっての俺への誠意と謝罪、として筋の通し方なのだろう。
「わかった。じゃー俺とおっちゃんの関係は元通りだ。何も問題はないね」
そう、何も問題はない。
だって俺がお嬢様を裏切ることはあり得ないから。
「……お前な」
俺の軽い返答に、おっちゃんは毒気を抜かれたかのような顔になる。
「頼むぞ? 俺に、お前を殺させるようなことは……絶対にしないでくれよ」
そしてそのままナイフを床に放置したまま、おっちゃんは部屋に入ったときに比べれば少しだけ軽い足取りで扉を開け、再び熱狂の渦巻く中庭へと一人で戻って行った。
「……」
おっちゃんがいなくなった部屋で、俺はそのまま座っていたベッドに身体を放り投げ、
「あーーーーーー……とりあえずデスノボリ回避! あっぶねえ!!」
全力で脱力し、小声で叫んだ。
ひとまず背中からナイフで刺される心配はなくなったけど、寿命が十年くらい縮んだ気がする。
「仲直りはできたかしら?」
そうしていると、頭上からルクレティアお嬢様の声。
顔を上げると、お嬢様がため息顔で俺の前に立っていた。
たぶん、おっちゃんと入れ替わりで部屋に入ってきたのだろう。
「俺がお嬢様を裏切ったら俺を殺すそうです」
「そう。じゃあ、何も問題はないわね。あり得ない仮定だもの。家の高級奴隷全員をフェリクスごと奴隷から解放した甲斐があったというものだわ」
げっそりした顔で言ったであろう俺の言葉に、なんともあっさりとした言葉を返しながら、お嬢様はそのままベッドに座る。
「……? どういうことです?」
なぜ話がうまく行ったことと、フェリクスのおっちゃんを解放奴隷にしたことが繋がるのだろうか?
「家の高級奴隷たちを解放したのは、今後旧ポンペイの面々を監視するために自由民として要職に送り込むってのもあるけど。……メインの理由は、フェリクスが自棄になって、変な暴発をしないようにするためよ。フェリクスの状態はネアポリスに着いた時にドラコから聞いていたからね」
そう言えばあの場には料理人奴隷のドラコのおっちゃんもいたっけ……。
家の奴隷筆頭、家財管理奴隷が精神的にやばい状態だったらそらお嬢様に話は共有するか。
だけど、暴発を防ぐって……。
「いや、まさに今さっき暴発寸前なフェリクスのおっちゃんに刺されそうになったんですけど? 俺……」
「でも刺されなかったでしょう? なんでだと思う?」
全然わからない。俺はいつも雰囲気で生きてるから。
「……奴隷という『何も持たない』『何もできない』状態で放置しておけば、絶望から感情を処理できなくなって、貴方と刺し違えかねない。でも、守るものや止まる理由、あるいはなんとかできそうな希望があれば、人はそうそう凶行には及ばないのよ。例えば私への忠誠とか、お父様が残したモノを守る、とかね」
「あ……」
それはまさに、おっちゃんが言っていた、俺を刺さない理由だった。
「まあつまりどっちも私だけど」
そしてお嬢様は俺の驚きを放置してしたり顔で説明を続ける。
「解放奴隷だったら、自由民だったらできる可能性があるでしょう? なんとかがんばれば、守れそうでしょう? 私を。そこに希望が見えたら次は、目の前にある自由民としての地位とローマ本国基準でも富裕層と言っていい財産、つまり自分の幸福な人生の希望にも、また目を向けることができるでしょう?」
「でもこれ仲直りって言えるんですかね? ただ自分の感情をしまって表面上だけ取り繕っただけでは? また新しい疑心暗鬼で殺意再燃しません?」
なんとなくそうならないことはわかるのだが、あえてお嬢さまに疑問を投げかけてみる。
「例え表面上だけであろうが、きちんと裏付けがあれば仲直りは仲直り。人はそうやっていろんなものをなあなあにして、時には自分自身の思いや記憶すら騙したりして生きていく生き物なのよ。そして今回のフェリクスの妥協は、私という存在の安全。その禁域を犯さない限り、貴方がフェリクスから処される心配はないわよ」
いろいろなもの、時には自分の心すら騙して……。
脳裏に浮かぶのは、執着を自覚した日のお嬢様の露悪的な言葉。
家族の死を都合が良いと言い切ったあの言葉。
お嬢様もそうなんですか? あれが、そうだったんですか?
そんな言葉が喉の奥から出そうになるが、止める。
なんとなく、聞いてはいけないような気がした。
そうか、これがなあなあにするということか。
もうおっちゃんとの関係は、本質的には以前のようにはならないだろう。
それでも、表面上は元通り。
今回の件は、全てルクレティアお嬢様の手のひらの上で、解決。
今はそれでいいじゃないか。
「それにね、ルシウス」
「?」
「復讐? 疑心暗鬼? そんな、余裕がある時に思い浮かぶようなことをする暇、今後私がフェリクスに持たせると思う?」
「え?」
「私のルシウスを処そうとするくらいの元気があるなら、ルシウスがデキムスにする10倍くらいの無茶振りなら余裕よねぇ?」
いや、デキムスさんの10倍って……死ぬのでは?
「定期的な睡眠が取れれば涙を流して喜ぶくらいにはこき使ってやるわ……ふふ、ふふふふふ」
あ、これルクレティアお嬢様、わりかしバチボコにブチギレてらしゃる。
「あ、あの、ルクレティアお嬢様? おっちゃんはおっちゃんで殺意を飲み込んだんだし、お嬢様の手のひらの上でちゃんと鎮静化したわけですし、ちょっとこう、手心とか」
「ルシウス、いい事を教えてあげるわ」
そうして、お嬢様はとても い(・) い(・) 笑(・) 顔(・) で言葉を続ける。
「人間、痛くなきゃ覚えないものよ」
まあ、今はそれでいいか(震え声)
……おっちゃん、来年まで生きてるかな。