作品タイトル不明
96話 ルシウスの手のひらと
『マルクス様と若様を切り捨てたのか?』
絶対に聞かれると思っていた内容。
「ルシ坊、頼む。教えてくれ……」
いつのまにか無意識にベッドの上で壁側まで後退していた俺をじっと見据え、おっちゃんは言葉で詰め寄る。
「あの日、あの山が噴火することを、お前は知っていたんじゃないのか? なんとかする方法を、お前は知っていたんじゃないか? 知ってて、マルクス様と若様を見捨てたんじゃないのか?」
「…………」
というかこれ、回答間違うと刺される奴では?
テーブルの上で光るナイフがそれを予感させ、どう答えればよいか迷ってしまう。
「……刺さない?」
結果出たのはアホ丸出しの言葉。
「それは、答えを言っているようなものだろう」
しかし意外にも、おっちゃんはそんな俺の言葉を聞いて少しだけ笑った。
そして、机の上のナイフを手に取り、そのまま椅子から遠く離れた部屋の隅、俺がいる方と反対の壁際に向かって無造作に放り投げる。
ガラン、という乾いた音が部屋に響く。
「これでいいか? 何ならそのままお前が扉の前まで移動するか?」
「いや、いい」
たぶん本当にもう刺すつもりはないのだろうと理解した俺は、あえてその提案を断る。
「じゃあ、教えてくれ」
そう言って、おっちゃんはテーブルに両肘をついてうなだれてしまう。
そんな様子を見て、俺も覚悟を決めることにした。
マルクス様に直前まで付き従っていたおっちゃんには『なぜ?』を知る権利がある。
これも、俺の勝手な取捨選択だ。
「……近い将来に噴火が起こることは知っていた。そしてそれがポンペイの破滅をもたらすことも、知っていた。理由は、教えない」
「お前……やはり未来が――」
おっちゃんが、顔を上げてつぶやく。
その顔は、やはりそうだったのかという感情と、信じられないものを見るような感情がごちゃ混ぜになった顔。
「見えないからね?」
ミネルヴァ様の神託、あるいは呪われた預言者か何かだと思っているのだろうおっちゃんの想像を、俺は否定する。
「見えてたら、もっとうまく立ち回ってるよ。確かに噴火が近い将来起こることは知っていた。でもそれが、『あの日』か、その次の年か、はたまた十年後かは分からなかった」
「……本当か?」
「おっちゃんは勘違いしてるけど、俺の手のひらは、おっちゃんが思っているほど大きくないんだよ。いや、むしろ驚くほど小さい」
言いながら、俺は自分の手を広げる。
大人の手よりも一回り小さい手だ。
言葉はあくまで比喩だけど、俺は自分の手が伸ばせる範囲、未来知識というアドバンテージで何とかできる範囲をそれなりに正しく把握しているつもりだ。
そしてそれと抱えてしまったモノを比較すると、まさに俺の手は、今のこの、子供の手だ。
とてもじゃないが全部は抱えられない。
そして、現実は不確定な部分も多くあることも、わかっている。
どうしてこうなった。やっちまった。ミスった。ガバった。
アドバンテージがあろうとなかろうと、人生なんてそんな事ばかりだ。
「だから、その中で絶対に手からこぼれ落としちゃいけないもの、できればこぼしたくないもの、こぼしてもしょうがないものは分けなきゃいけない」
俺にとってお嬢様は前者、マルクス様を始めとするお嬢様の家族は、2番目だった。
「あえて取りこぼすつもりなんてなかった。でも、何が何でも抱え込むつもりもなかった。結果、こぼれ落ちちゃった」
たらればでしかないけど、方法はあった。
来年、マルクス様はポンペイ 二人官(市長) の実績を持って満を持してローマ進出を図る予定だった。
「たとえば、化粧品や 麦の蜜(みずあめ) のように、蒸留酒産業の法人化についてのポンペイの立ち位置を協議するとかなんとか適当なお題目をつければ、今年の夏の間、リエーティにルクレティウス家全員を拘束することはできた。たったそれだけで、ルクレティウス家だけなら全員助かったんだ」
「なぜやらなかった……」
「 多(・) 分(・) 今(・) 年(・) じ(・) ゃ(・) な(・) い(・) と読んでたから、その時点で考えなかった。今年じゃないって読みは、一応根拠はあったんだ。間違っていたけど」
そして、万一今年であっても、ポンペイオールスターズにバラまいたBCP計画が実行されればマルクス様たちも避難すると、勝手に思っていたから。
結果は、ご覧の有様だ。
もしポンペイにお嬢様も残っていたら、俺は確実にリエーティ招致案を考えついて、実行していただろう。
でもそうはなかったのは『絶対に手からこぼれ落としちゃいけないもの』じゃなかったからだ。
そして、何より度し難いのが、俺は既にこの結果を『どうにもならない事』として感情の処理を片付けてしまっていることだ。
マルクス様、若様、奥様三人の死から最初の パレンタリア祭(死者祭祀) すら迎えてないどころか、ひと月しか経っていないのにだ。
フェリクスのおっちゃんと違い、俺にとっては既に過去のこととして感情から切り離したこと、それが三人の死。
それは、おっちゃんにとっては到底許容できない事だろう。
だけど、俺はそう言う俺自身のありようを今後もどうこうするつもりはない。
この一見穏やかに見えるが残酷な古代ローマという時代で生きるための、俺の強みでもあると思うから。
「……そうか」
扉の隙間から聞こえる歓声がにかき消されるかと思うくらい小さな声で、おっちゃんはつぶやいた。
「聞きたいことは、それだけ?」
「ああ。……なんとなく、そうだと思っていた。その通りだった」
「そっか」
おっちゃんの感想に短く返し、おっちゃんの顔を見る。
その顔は少し落ち着いていたが、代わりに深い苦悩を抱えた顔になっていた。
「俺は……やっぱりお前を恨んでしまう。筋違いだってことは、頭では分かってるんだ、でも、どうしてもだめだ……お前は、マルクス様を、若様を……助けられたのに、助けられなかった。助けなかった。すまん……」
何故か恨み言を口にしつつも謝り、おっちゃんは言葉を続ける。
「お前のおかげで、お前の周りの多くの人が助かったことも分かってる。お前の計画がパニックを引き起こしたというのも、理不尽なこじつけだ。筋違いだってことは、頭では十分に分かってるんだ」
「おっちゃん……」
「でも、どうしてもだめだ。俺の心が、なぜだかどうしてもお前を恨んでしまう。おかしいよな。マルクス様の隣にいたのは俺だ。灰が街を飲み込む前に迎えの船を寄こせなかったのも俺だ」
「俺だ。俺がマルクス様を、若様を助けられなかったんだ……なのに、どうしても……だってお前なら、やっぱりあり得たってことじゃないか。ローマに居ようが、できたってことじゃないか。お前にとってマルクス様が、お嬢様のように、取りこぼしたくない手のひらの対象だったら生きていたってことじゃないか……」
「……それで、どうするの? 刺す?」
そのつもりはなさそうというのは分かっているけど、あえて俺は踏み込んでみる。
流石にいつ刺されるかわからない状況はまずい。
もし本当に感情に溺れたおっちゃんがまだ俺を害そうとするなら、俺も覚悟を決める必要がある。
俺は、後ろ手でベッドのシーツに隠した手のひらサイズの試作銃に雷管を嵌めながら、おっちゃんの反応を伺う。
だけど、それはいらない準備だった。