軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

60話 夏の終わりと薬物誌

8月中旬に次期皇帝の側近に内定しかける超極大厄物イベントがあったのが嘘のように、避暑後半は穏やかに過ぎ去っていった。

早いもので 暦(こよみ) はもう9月。

もうすぐローマで始まるのは、戦車レースや剣闘士試合などの多彩な興業が行われる ローマ大祭(ルディ・ロマーニ) と呼ばれる祭り。

そして、同時に開催される ユピテルの饗宴(エプルム・ヨウィス) という祭事は、元老院階級にとって重要な行事であったので、元老院階級が避暑を切り上げる時期でもあった。

当然ながら、それに呼応するように他の豪商や 騎士階級(エクィテス) といった上流階級たちも時期を前後してローマに戻ってゆく。

それは、俺たちにとっても同じ。

プッさんの 別荘(ヴィラ) の俺たち一行に割り当てられたエリアでも、ローマに帰るための準備が進んでいる。

廊下ではルシアとデキムスの奥さんが、てきぱきと ムニウス家(デキムスさん) の奴隷さんたちに荷物の指示を飛ばしている。

中庭(ペリステュルム) に面したテーブルでは、ルクレティアお嬢様が秋の新作つくりのための調香に集中している。

その先の 広間(アトリウム) では、デキムスさんが皇帝から派遣された、おそらく帝国政府の中でもそれなりの地位にいると思われる会計官を前に、滝のような脂汗を流しながら複式簿記の講義を行っている。

皇帝の別荘に拉致された時は押し付けられなかったが、それ以降は無事デキムスさんを弾除けにできたので、ここ数週間は比較的平穏だった。

ちなみに、何も俺は特に理由がなくデキムスさんにお偉方の会計官を押し付けているわけではない。

まあ理由がなかったら押し付けないかというと、押し付けるけどそれはそれ。

俺は俺で面倒な、デキムスさんに押し付けられないほうの来客の対応に追われているのだ。

「――だから何度も申しているではないですか、プリニウス殿! 理屈がどれほど美しく通っていようとも、それが実践、事実に基づいていなければ役に立たぬのですよ!」

「いやいや、ディオスコリデス殿!それは違うぞ、たとえ実際にマンドラゴラの悲鳴を聞いたものがいなかったとしても、その事象と効果効能を記載しておくのは万物の蒐集という意味で非常に重要なのだよ!それはまだ、解明されてないだけだったり、非常に珍しい事例なだけなのかもしれないのだから!」

「だが私が今求めているのは、事実の列挙なのですよプリニウス殿」

「それは分かるが――」

俺がプッさんの 執務室(タブリヌム) に入ると、俺の入室に気づかないくらい、目の前にある丸テーブルを挟んで、激論を交わしているプッさんともう一人の壮年の男。

そう、特に避暑に来てからは、プッさんはちょいちょいこうやって俺から知識を聞き出す場で変な学者を呼び出したりするのだ。

今日の来客も、そうやってプッさんが遠方から拉致ってきた学者の一人。

訛りから、ギリシア人であることが分かる。

プッさんから名前を聞いた時はびっくりした。

歴史に詳しくない俺でも知っているビッグネーム。

今日の来客。それは、西洋薬物学の祖、ペダニウス・ディオスコリデスだった。

中世どころか近世に至るまで薬理学のデファクトスタンダードとなった『薬物誌』の著者というと、有機化学とか医学関係分野の人ならピンと来る人もいるかもしれない。

基本的に『薬物誌』は理論より事実という思想で書かれており、いわゆる実践書。

一方のプッさんの『博物誌』は空想上の産物や効果が怪しいものもバンバン盛り込んでいる、知的好奇心全部盛りセット。

物事の探求という部分では同じなのだが、根本的な思想が異なるので、一度歯車の嚙み合わせに不整合を起こすと、こうやって延々と議論が白熱するわけだ。

朝からところどころ不整合を起こし、俺への質問もそこそこに討論し合っている二人。

一応、今日も俺から知識を搾り取ることが二人の目的なので、長時間離席するわけにはいかないが、今日はあんまり話していない。

……いっそのこと今日はずっと二人で討論しとくれないかな。

「ええい、とにかく 麦の蜜(水あめ) に関する執筆の共同化は一旦保留です!それよりも今日は事実ベースでの効能確認についての相談を行いたいのですよ!!というわけで少年ルシウス!!!」

しかしそうは問屋が卸さないようで、強引にプッさんとの会話を打ち切ったディオスコリデス様は刺すような目線を俺に向けてくる。

……これ前世で下手な回答すると『素人質問で恐縮ですが』から始まる徹底的なゴリ詰めしてくる人と同じ目線だ。

「少年ルシウスよ、私も帝国軍で軍医をしている身だ、医学に対しては精通している自負がある、その上で、だ」

あ、これそのさらに上の臨戦モードじゃん。

そう俺が感じると同時に、ディオスコリデス様のむき身の剣のような質問が飛んでくる。

「基本的に私は、実践で効果があった薬や調合、その材料について記録を取っている、しかしその中には同じ薬草を同じ症状の治療に用いたのにもかかわらず効果が見られないものも多い。これについて、効能が間違っているかまたはそうでないかを見分ける方法の、何かいい案はないだろうか?」

また答えづらい質問投げてきたなこの人……。

流石は薬物誌の著者。

実践に裏付けされた検証は、もう既に行ってるわけか。

それで効果に有意な差が出るってことは、サンプリングに問題があるんじゃないかな?

「ちなみにそれはどのような例ですか?」

「例えば葉の裏側が白い柳の樹皮などは解熱や鎮痛の作用があるが、この調合が難しくてな。良く効く時と、まったく効かぬ時の差がとても激しいのだ」

柳の樹皮……サリシン、アスピリンの原料か。

その例だと原料の植生とか収穫時期が原因っぽいけど……。

具体的な数字で比べないとこれ系気づくのは難易度高いよなあ。

だけど逆に言えばそれをすれば効率爆上がりするのも事実。

たぶん、ふわっとした経験則でやってることを統計的なアプローチに落とし込めば解決するんじゃなかろうか。

思ったより難しい質問じゃなくてよかったわ。

そう考えた俺は、そもそもこの案が採用できるかを一応確認するためにディオスコリデス様に何個かの質問を投げかける。

「ディオスコリデス様はたしか軍医でいらっしゃいましたよね?」

「あぁ、そうだが……」

「と、するとこの例で挙げた症状もかなり診られます?」

「あぁ、特に発熱を伴う病などが流行ることも多いからな。酷い時は日に百人を診ることもある」

とすると母数の確保は特に問題ないか。

じゃあ行けそうだね。統計的アプローチ。

突っ込んじゃおう。

「それでは、数による罠をつかい、樹皮の効能を邪魔している犯人の特定を行う―― 数の俯瞰(統計) を行うというのはどうでしょう?」

今日の質疑応答はあっさりすみそうでタイパうまあじだね。