作品タイトル不明
44話 お前は何者だ?
プリニウス閣下が乗る 輿(こし) が屋敷の前の道から闇に溶ける。
家の 広間(アトリウム) に戻ると、宴のために焚いた灯りがまだ 爛々(らんらん) と光っていた。
広間(アトリウム) の先にある 中庭(ペリステュルム) に植えた、草花が夜風に触れる音が、異様に大きく聞こえる。
私は 広間(アトリウム) から動くことができなかった。
頭の整理が、追いつかない。
指先が、わずかに震えている。
「……お前は何者だ。本当にルシウスなのか?」
ようやく発せられた声は震えていた。
自らの口に手を当て、唇が震えているのに気付いた。
私は、目の前の小さな少年に怯えているのか?
ポンペイの有力騎士である、このマルクス・ルクレティウス・フロントが?
「何者なんでしょうね。俺にも、もう分かりません」
肩をすくめて笑う。
それは少年の仕草だったが、今夜の後では仮面にしか見えない。
体中を悪寒が襲う。
足が勝手に一歩、後ろに下がった。
「……ふざけるな」
怒鳴り声は出なかった。
代わりに、喉が鳴った。
数か月前まで、ただ少し賢いだけの高級奴隷……そう、ただの奴隷。
所詮は奴隷のはずだったのだ。
それが今夜、皇帝の側近、帝国最高峰の学者と対等に論じた。
今夜だけじゃない、私の気づかぬ間に、いつの間にかポンペイ政財界の勢力をかき乱すような商品を作り、それを問い詰めても 飄々(ひょうひょう) としている。
怒り、困惑、期待、恐怖が混ざる。
それをごまかすように、ルシウスから視線を外し、私の後ろで隠れるように気配を消していたデキムスに向き直る。
「デキムス…貴様、勝手に解放の約束をでっちあげたな」
きちんと、威厳を含めた低い声が出せた。
しかし、これは叱責ではない。
確認だ。
私の言葉に、デキムスは膝を折る。
「ル、ルクレティウス様、あの時は……ルシウスをプリニウス様の元に連れて行かせないためには私にはあれしか思いつかず……」
デキムスの声は震えていた。
怒鳴ろうかどうか一瞬迷ったが、止めた。
私に無断で嘘の美談を作り上げ、あまつさえしていない数々の約束をでっち上げたのは万死にする。
しかし、同時にこいつがついた嘘は、利も膨大だ。
特に、プリニウス閣下の前で語られた『恋と立志』。
心に灯した熱い思いを燃やし、自らの才覚をもって奴隷としての責務と想い人との幸福の両方を完遂しようと立志する。
そしてそんな『理想的な奴隷』の立志を、主人は快く助ける。
ローマを目指すうえで、このような理想のローマ人像と言っても良い物語は、ルクレティウス家にとって強力なカードとなる。
だが、それは立志を果たせてこそだ……そこには特大の障害もある。
「……なぜ、あの額を言った」
デキムスへの対応を保留し、ルシウスにまた問い直す。
「それが俺の誠意だからです」
「お前は本当にその価値を、100万セステルティウスという価値を理解しているのか」
これがローマ社会でどれほど重いか、貴族だけが理解している。
奴隷であるルシウスが理解しているはずはない……普通であれば。
しかしこいつは、普通ではない。
ルシウスを睨む私に、フェリクスが口を挟む。
「し、しかし マルクス様(ドミヌス) 、これを利用すれば今年の二人官選挙への後援はもとより、来年の マルクス様(ドミヌス) の二人官当選も約束されたものです」
確かにそうだ。
既に化粧品という政財界重鎮の妻子への特大の人質があるのだ。
そこに『100万セステルティウスの忠義と恋』という、劇場の演目としてすぐに出しても市民を惹きつけてやまないであろう美談。
そんな演劇の中の人物が現実に現れたような展開。
誰がわざわざ邪魔をして『悪役』になりに行くだろうか。
今から二人官に立候補するのは流石に難しいので予定通り今年は後援、来年に立候補としても、当選は既に約束されたようなもの。
そしてその後は二人官としての実績を携えてのローマ政界入りが見えている。
ポンペイ政界を統一し、その後援を一身に受けてローマに入り、プリニウス閣下とピソ家の縁を活用して中央政界にルクレティウス家の立ち位置を作る。
ローマへの進出は、自治都市の騎士階級であればだれでも夢見る栄達ルートだ。
プリニウス閣下との 知己(ちき) は得れた。
閣下の私に対する印象は『理想的な貴族』として最上のものだろう。
軍資金? 金の卵を産む鶏を得たばかりだ。
敵派閥は妻子の圧を前にひれ伏しており、ローマまでの障害物は一切ない。
理想的だ。
理想的すぎる。
状況だけを並べれば、向かうところ敵なしの状態だ。
それなのに、私は背中をなでる、うすら寒い感覚に襲われ続けていた。
まるで、太陽を目指したイーカロスの翼が溶け堕ちる直前かのような。
言い知れない恐怖を感じていた。
違和感は、言うまでもない。
目の前で私に微笑みを携えている、ルシウスだ。
「数か月前まで、お前はただの賢い少年だった。それが、閣下と対等に……いや、閣下をしのぎ、欲しい成果を得て見せた」
声がかすれる。
「……不気味だ。私はお前が怪物にしか見えない」
主人から 怪物(バケモノ) と言われたのにもかかわらず、ルシウスは眉一つ動かさない。
「ルシウス。本当に可能なのか……?2年で100万セステルティウスを?」
私の問いに、ルシウスは、ただ当然のように微笑むのみ。
「おい……聞いているのか……」
思わず、本当にそこにいるのかが疑わしくなり、ルシウスに手が伸びる。
「……っは!らしくないなルクレティウス殿」
そんな私の手を、ウンブリキウスがつかみ、笑いながら私を止める。
お前、プリニウス閣下と共に帰ったのではなかったのか?
「怪物か。最高じゃないかルクレティウス殿」
「……どういう意味だウンブリキウス殿」
「商人にとっては未知は財宝だ」
そして奴は、冷静に自らの計算結果を開示する。
「可能だぞ。100万セステルティウス」
広間(アトリウム) にウンブリキウスの言葉が響く。
「そこの坊が言った通りだ。 儂(わし) も計算してようやく積算ができた。いろいろと甘い部分もあるが十分可能だ。……儂も噛めば確実に成るだろう」
「だが、元手はどうする?さすがに今の元手だけでは厳しいだろう?」
私はウンブリキウスに反論する。
どうせお前もソキエタスに絡むとか言い出すのだろう? そういうのは許さんぞ。
「そう身構えるな。噛むとしても販路提供や普通の貸付などに抑えるさ。ルクレティウス殿が、目の前の黄金を生み出す鶏をむざむざかっさらわれるような愚鈍な男ではないことは、かつて儂の息子と 鎬(しのぎ) を削っていたころから知っている」
数年前に死んだ、私を押しのけて二人官にまで上り詰めた、かつてのライバルである奴の息子を話に出すウンブリキウス。
「……」
「ポンペイの有力者に話を出すだけでそこのデキムスに借りさせたとしても十分な資金が集まるとは思うが……それが嫌ならば 儂(わし) のノウハウを貸してやろう」
「加盟工房形式と 暖簾(のれん) 貸しですか?」
ウンブリキウスの言葉に、ルシウスが反応する。
「ほう、儂が作り上げた仕組み、わかるのか……?」
「 麦の蜜(水あめ) も化粧品もウンブリキウス様が作られた仕組みとは相性が良いですからね。 魚醤(ガルム) も、僕の商品も、『質』と、質を担保する『誰が作ったのかという名』が売り上げに直結する商材です。品質管理とメインの新商品製法の開発さえ押さえてしまえば、製造そのものは外に出しても大丈夫だと思います」
「……なあ、ちょっとあの恋物語の対象、今からうちの孫娘テルティアに替えられないかなルクレティウス殿?今ならウンブリキウス家がルクレティウス家の 被保護者(クリエンテス) になっても良い!」
「ウンブリキウス殿。お引き取り願おうか」
流石に我が家が名門と言っても、お前の 庇護者(パトロヌス) になれるわけがないだろうが。
お前んところの規模がでかすぎるわ。
「ダメかぁ……惜しい……今の所は引いておこう。……まあそれはさておき、だ」
ウンブリキウスはコホンと仕切りなおして、私を見据える。
「少年、ルシウスが理解している通り、私の仕組みでローマ入りすれば、利益は10分の2程度になるだろうが、逆に爆発的に事業の展開ができるぞ?しかもこの方法ならローマだけではない。自治都市や、属州でも同時に展開できる。そうすれば規模は十数倍どころではない、数十倍も目指せるだろう。そうすれば結果的に利益も元の案より増える」
数十倍だと……!?
ウンブリキウスの商売に関しての嗅覚がずば抜けているのは私とて理解している。
そんな男が言い切った。
ルシウスが想定している数十倍の規模が行けると。
「初めに確保する元手を少なくしても十分行ける。少年の額は、妄想ではない。むしろ控えめだ」
ウンブリキウスが結論を言い切る。
その目線はルシウスを見ていた。
ウンブリキウスだけではない。
全員がルシウスを見る。
しばらく黙った後、私は静かに口を開いだ。
「……すでに 賽(さい) は投げられていた、か」
そしてそのままウンブリキウスを見る。
「アウルス、お前のことは嫌いだ。いけ好かない成り上がり者が」
あえて敬称を投げ捨て、名前を呼び、腹を割る姿勢を見せる。
「あぁ、知っている。マルクス」
そんな私の態度に、ウンブリキウスは楽しそうに返してきた。
「だが、すでにそんな私の考えは些事になった。協力してもらうぞ」
「はははっ!その言葉を聞くためにここに残ったんだ!最高だよ!息子を失って、あとはテルティアのために、いかに穏便に家業を解放奴隷たちに受け渡すかだけを考えていたが……ここにきてこんなに愉快なことに嚙めるとはな!!」
ウンブリキウスのたわ言は無視だ。
今はそちらよりも、ルシウスだ。
ウンブリキウスとの合同を決断した私は、覚悟を決めてルシウスを見る。
「お前をデキムスに貸し出す。ローマに足場を得よ。必要な支援があれば都度申せ。全力で支援する」
「かしこまりました。 マルクス様(ドミヌス) 」
私の言葉に何の気負いもなく返すルシウス。
そんなルシウスを見て、なんなしに、言葉が出ていた。
「……神々はお前で何か戯れをしようとしているのかもしれないな」
冗談で言ったはず。
しかし、自ら言っておきながら、それが事実のように私は感じてしまった。
そんな私の顔を見ながら、ずっと携えている微笑を崩し、ルシウスは言った。
「神が戯れ好きなのは常識じゃないですか、 マルクス様(ドミヌス) 」
それはとても、とても無邪気な笑顔だった。
クピードー……。じゃないよな?
お前は、ルシウスだよな?
……こいつは……本当にルシウスなのだろうか。
お前は何者だ?
私には、もうわからない。