軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

将軍は妻から離れられない

本日はあいにくの雨模様。

邸の中では、使用人たちがいそいそと今夜の準備に勤しんでいる。

「私も何か手伝いたいところだけれど、きっとおとなしくしているのが一番なんでしょうね」

「そうですね。ソアリス様は、奥様ですからね」

ユンさんが苦笑する。

「アレンが戻ってくるのと、ニーナたちが到着するのはどっちが早いかしら」

サロンでハンカチに刺繍をしつつ、夫と家族を待つ私。

ニーナの社交界デビューがいよいよ五日後に迫り、今夜には一家で王都へ出てくるのだ。

エリオットはパーティーに出席しないけれど、一人で田舎に置いておくことはできないので一緒に来ることに。本人は大人ぶりたい年頃なので「平気だよ、一人でも」と言っていたそうだが、やはり末っ子のことは心配だ。

それに、ようやく暮らしぶりが安定してきて、弟妹が毎日働かなくてもよくなったんだから、王都で少しくらい楽しいことを知ってもらいたい。

私の仕送りだけでは、2人は好きな菓子も本も買えなかっただろうな。自分のために時間を使うっていう経験が、そもそもあの子たちにはない。内職と学校の勉強だけで2人の10代の時間がなくなってしまったら……と心配していた。

だから、2人にはこっちでおいしいものをいっぱい食べて、何か素敵なものをお土産に持たせてあげたいと思う。

ニーナとエリオットの喜ぶ顔が早く見たい。そんなことを考えながら、白い生地に針を刺す。

今私が刺繍を施しているのは、アレンのためのハンカチとアスコットタイ。買ったお店で刺繍を入れてもらうこともできるけれど、せめて名前だけは私の手でやってみようと思ったのだ。

「できた」

ただ、私の考えは甘かったと早々に気づいた。

ここ数年、まったく刺繍をしていなかったのでなかなかうまくいかなかった。ヘタじゃないけれど、うまくない。

それでも2カ月ほど空き時間に練習を続け、なんとか身体が思い出してきたので本番に挑んでいる。

「お上手ですね」

「ありがとう」

ユンさんはまったく刺繍はしない。嫌いなんだそうだ。一通り習ってはいるけれど、興味がないのでやりたくないと言っていた。

特務隊に入れるほどの騎士でダンスがうまいところからすると、身体を動かすのが好きなんだろう。

「アレン様、お喜びになるでしょうね」

「そうだといいわ」

12歳のときに渡したあのハンカチを、アレンは後生大事に持ち続けてくれていた。ほつれた部分を直そうかと提案したけれど、「あのときのソアリスがくれた物をそのままにしておきたいんだ」と彼は微笑んだ。

どんなにくすんでも、糸がほつれても、宝物なのだと言ってくれたときはうれしかった。ただ、あまりに状態がよくないので持ち歩かずに邸に置いておくのはどうかと提案したら、額縁に入れて私室の壁に飾りそうになったので全力で止めた。

新しいハンカチに刺繍をして贈るから、と必死で説得した。もちろん、店で名入れをしてもらったハンカチはあるんだけれど、至らぬ妻でもせめてこれくらいはさせて欲しい。

そんなわけで、私は今せっせと刺繍をしている。

「まだまだあるわね、先が遠いわ~」

「私なら30秒で破り捨てています。私の腕ですと、労力と成果が見合いません」

「成果を求めていたらこんなことできないわよ」

今度は私が苦笑する。

今日のユンさんは侍女スタイルで、刺繍で疲れた私のために温かい紅茶を淹れてくれた。お茶を淹れるのはメイドの仕事なんだけれど、ユンさんはいつもこうして自ずから淹れてくれる。

「ありがとうございます」

そろそろ夕方なので、焼き菓子は控えてお茶だけをいただくことにした。

湯気を立てる紅茶には、りんごと砂糖を少しだけ入れる。優しい甘さに、ほぅっとため息が漏れた。

「あ、そういえば鍵はどうなったんですか?ルードさんの……」

寮に忍び込むために、鍵を作っていると言っていたのをふと思い出した。

あの日はヘンデス様に絡まれて大変だったわ。彼は配置換えとなり、もう私に会うことはないとアレンから聞いた。

ご両親であるヘンデス侯爵夫妻から、直々に謝罪の手紙をいただいて、それと共に慰謝料として受け取って欲しいと貴重な紅真珠が送られてきたけれどそちらは丁重にお返しした。二度と息子が愚行を起こさないよう、しっかりと教育をやり直すと聞いている。

そんなわけで私には平穏が訪れ、今一番気になるのはニーナの社交界デビューとユンさんの夜這いである。

ドキドキしながら尋ねると、ユンさんは鼻高々に言った。

「すでに仕上がっております。後は機を見るだけです」

おおっ、準備は万端なようだ。

感心していると、ユンさんはクスッと笑う。

「奥様も一緒にいかがですか?アレン様なら歓迎してくれると思いますよ?」

まさかの勧誘。

私は「とんでもない!」とぶんぶん首を振った。

「あぁでも、アレン様は鍵なんてかけていませんね」

「そうよ?それに鍵ならマスターキーがあるし……ってそういう理由じゃないわよ」

「まったく、アレン様ったらいつまで婚約者だなんて言い張るおつもりなんでしょうね?騎士たるもの、いつ倒れてもいいように心残りはなくしておくのが基本ですのに」

ユンさんが呆れているのを見て、私も笑う。

「アレンは優しいですから。私がまだ心の準備ができていないと思って、婚約っていうことにしておいてくれているんです」

そしてここで思い出した。

つい先日、はっきり「抱きたい」と言われたことを。

思い出すだけで顔に熱が集まってくる。

背後から抱き締められていた感覚やぬくもりまで思い出してしまいそうで、私は思わず両手で顔を覆った。

「どうしたらいいの……!?」

「ふふっ、アレン様がソアリス様を必要以上に構う気持ちがわかります。そんな反応をされては、つい遊んでしまいたくなります」

「からかわないでください……。もう毎日毎日、私は限界を感じています」

声も所作も、笑顔も何もかもが甘くて死んでしまいそうなのだ。こんな風に誰かに愛されたことも、私がいないと淋しいだなんてそんな態度を取られたこともない。

私はかわいがられる側ではなく、両親と一緒になって幼い弟妹をかわいがっていた側なのだ。

長女だからしっかりしなくては。

お姉ちゃんだから、我慢するのが当たり前。

どれも勝手に思って勝手にやってきたことだけれど、こんな性分だからアレンのまっすぐな愛情には戸惑ってしまう。

「早く素直になれるといいですね。向こうはいつでも大歓迎なのですから、いっそ寝室を同じにしてみてはどうですか?そもそも、愛する人と肌を合わせたくなるのは当然です。恥ずかしがる必要はありません。ただのステップに過ぎないのです」

「ユンさん。前から思っていましたが、ユンさんのその欲望に忠実なところが本当に羨ましいです」

自分から手を繋ぐことすら小刻みに震えるくらい緊張するのに、肌を合わせるなんてとんでもない冒険だと思った。「結婚しているのに?」「この年齢で躊躇うの?」みたいなことを私自身が一番思っているけれど、怖いものは怖いのだ。未知の世界すぎる。

本来なら、結婚前にこういう緊張感とか準備とかを経てようやく同居するんだろう。まぁ、世の中には結婚式で初めて互いの顔を見る夫婦もいるとは聞くが、それはそれで勢いがあるので混乱しているうちに流されるのでは。

「アレンは夫で、私は妻なのよね」

「?」

あぁ、ユンさんが不思議そうな顔で私を見つめる。

そして何をどう解釈したのか、突然「閃いた!」という表情に変わった。

「わかりました!とっておきの参考書をご用意いたします」

「はぃ?」

どうしよう。

とんでもない本が来そうだわ。

「あの、大丈夫よ?多分、そのうち時間が解決してくれると思うから」

「いいえ!こういうことは何事も早い方がいいのです!何より私が読みたいんで」

「読みたいんだ!?」

「何事も挑戦ですよ、ソアリス様」

「わ、私は遠慮します!後悔しそうです!」

取り乱す私を見て、ユンさんがにんまりと笑った。

「ソアリス様、かわいい。もう、箱入り娘すぎてかわいいです」

箱に入ったまま結婚して、10年間箱から出ていませんけれどね!

箱からちらっと顔を出してみれば、アレンが手を差し出して待っていてくれるという状態なんだろうな……。

「私の入っている箱は、鋼鉄製かも知れないわ」

「壊し甲斐のある箱ですね!ふふふ、私が男ならあの手この手で引きずり出すことでしょう」

ユンさんに抱きつかれてスリスリされていると、サロンのガラス扉がするっと開いた。

「何をしている」

そこに立っていたのは、嫌そうに眉根を寄せたアレンだった。

どうやら今日は早く帰れたらしい。

ユンさんは私を抱き締めたまま、「おかえりなさいませアレン様」と満面の笑みで言った。

「おかえりなさい、アレン」

「ただいま。これは一体どういう状況だ?」

苦笑交じりに尋ねるアレンは、さすがにユンさんには嫉妬しない。ルードさんを情熱的に追い回していると知っているからだそうだ。

好きな人がいなければ女性まで警戒するのか、と尋ねたら「全方位に警戒するのは警護の基本だ」と返されて絶句したのは記憶に新しい。

「えーっと、どういう状況かと言われても」

「ソアリス様がかわいすぎるので、愛でていました」

腕を放したユンさんは、すぐに騎士団モードの顔になる。

アレンはスッと私のそばに寄ると、何も言わずに長い腕で私を抱き締め、頭に唇を落とした。

「っ!?」

「今日はまだこうしていなかった」

「そうですが……」

今朝、アレンはまだ夜が明けないうちに邸を出た。だから今初めて顔を合わせるのだが、まるで毎朝抱擁しないといけないみたいに言われると困惑する。

「あぁ~、大変ですわ。茶葉がありません。取りに行かなくてはー」

わざとらしい声を上げたユンさんは、にやつきながら茶葉のケースを手にする。

うん、どう考えてもまだまだ入っていますよね?

「それは大変だ。ゆっくり厨房へ行ってこい」

アレンが悪ノリしている。

「かしこまりました」

「何ならしばらく休憩していい。戻って来なくてもいい」

「ふふっ、それではリンドル家の皆様が到着なさるまでおいしい菓子をいただきます」

「いってよし」

「はい!失礼いたします!」

ビシッと敬礼したユンさんは、侍女服のスカートを翻して風のように去っていった。

なにこれ、騎士団喜劇でも見せられた?

じとっとした目でアレンを見上げると、世にも幸せそうな顔で微笑みを向けられる。

「早く帰ってきた甲斐があった。これで少しだけでも二人きりになれる」

「あ……」

もうすぐリンドル家の家族が到着する。

きっとニーナは私の部屋で一緒に寝ようとするだろうし、今日アレンと2人きりになれる時間は多分今だけだ。

「まさかこのために早くお戻りに?」

「それ以外に何がある?」

言い終わると同時に、彼は私の唇にキスをした。

チュッと一瞬触れるだけのキスだったけれど、私は動揺して目を泳がせる。それをまたアレンが楽しんでいるのがわかるから、居心地が悪い。

「ソアリスは、仕事から帰ってきてずっとここに?」

「え、ええ。ここでずっと刺繍を」

テーブルの上に視線を向けると、彼も同じく目をやる。

「アレンに使ってもらうためのハンカチとタイなんです。しばらくブランクがありましたから、練習をして今日やっと本番ができました。あの、どうでしょうか?」

大丈夫かしら。

やっぱり本職の人がやってくれた刺繍には劣ってしまう。

心配していると、アレンは私の右手を持ち上げそこにもキスをする。

「ありがとう。大事に持ち歩く」

まるで縁起物をもらったかのような反応に、私はクスッと笑ってしまった。

「使ってくださいね?」

「もったいないだろう」

当然のようにそう言うアレンは、本気で使わないつもりだろうか。

私は彼の頬に手を添え、宥めるように言う。

「毎日そばにいるんですから、もったいないとおっしゃらずに使ってください。ね?」

蒼い瞳がまっすぐに向けられている。

この人と過ごす穏やかな時間がとても好きだと思った。

アレンはうれしそうに目を細めると、私の手に自分の手を重ねて優しく握ってくれた。

「離れがたいな」

「……はい」

もうすぐ家族がやって来る。

会いたいのに、もう少しアレンと2人きりでいたいとも思ってしまった。私は薄情な娘かもしれない。

しとしとと降り続ける雨音。

アレンと共に長椅子に座り、何を話すわけでもなくただ寄り添って過ごした。