作品タイトル不明
15.策略は、香り高く
side ライラ
「そろそろ、来る頃かしら?」
応接室の窓から差し込む午後の光は、すでに少し傾きはじめていた。私はソファに腰を下ろしたまま、カップの中で冷めかけた紅茶をくるりと揺らす。琥珀色の水面に、小さな波紋が幾重にも広がった。
隣に控えるオスカーが、静かに一度だけ頷く。
「そうですね」
彼の声はあくまで穏やかで、いつもと変わらない。けれど、私の耳にはすでに聞こえていた。廊下の奥から近づいてくる、慌ただしく、そして苛立ちを隠そうともしない足音。
――走っている音。それも、相当感情を乱して。
予想通りだわ、と心の中で小さく微笑む。次の瞬間、扉が勢いよく開かれ、空気が乱暴にかき混ぜられた。
「これは何だ、ライラ!」
荒々しい怒声とともに、父が部屋へと飛び込んでくる。額には脂汗が浮かび、顔は紅潮し、息も整っていない。その手には、分厚い封筒――査問機関の紋章が押された書類が、くしゃりと握りしめられていた。
私はあえてすぐには答えず、ゆっくりとカップを受け皿に戻す。陶器が触れ合う小さな音が、やけに大きく響いた。
それから顔を上げ、にこやかに首を傾げる。
「あら? 何かの請求書でも届きましたか?」
もちろん、そんな軽口を受け止める余裕など、父にあるはずもない。
「そんなかわいい物ではない。なぜお前は、っ……! 実の親を告訴するのだ!!」
怒りと困惑がない交ぜになった声。その必死さを前にしても、私は心を乱されることなく、あらかじめ胸の中で温めていた言葉をなぞるように口にした。
「ああ、そちらでしたか? 私、お父様から爵位を継ぐとばかり思っていましたので、黙っていたのですが――継がないのであれば、国民として。明らかにした方が、国のためかと思いまして」
口元に指を当て、少しだけ困ったように微笑んでみせる。
――正義感から、だなんて言うつもりはないけれど。
「なっ……!」
父の顔から、さっと血の気が引く。その変化があまりにも分かりやすくて、私はつい、じっくりと眺めてしまった。
「事実でしょう? お父様が領地の税率を国に黙って上げていることも、国に納める税を巧妙にごまかしていたことも。……それから、私が亡き母から受け継いだ鉱山の利益の一部を、黙って自分の懐に入れていたことも」
父の手がぴくりと震え、封筒の角が無残に折れ曲がる。
「なぜ……なぜお前がそんなことを知っているんだ!」
思わず、心の中で肩をすくめた。
「知らないわけないですわ。爵位を継がせると豪語して、商会の仕事や領地の書類仕事をすべて私に回してきたのは……他ならぬお父様ですもの。帳簿の流れを見れば、お金の“異常な動き”なんて一目瞭然ですわ」
「くそ……! よりによって、査問機関から呼び出しを受けるとは……。くっ、追加税を払うことで何とかなるだろうか……。いや、それより……娘のお前の金を使ったことを咎めるなど、大袈裟な真似を……っ! 親が娘の資産を管理することは当然だろう!」
その必死な自己弁護に、私は小さく喉を鳴らして笑った。
「私の財産を“管理する”のと、“勝手に使う”のは違いますわよ。鉱山の利益はすべて私の正式な個人資産。国の法律にもそう記されています」
立ち上がり、ゆっくりと一歩、父へと近づく。逃げ場を塞ぐように、堂々と、まっすぐにその目を見据えた。
「使った分をすぐにでも返してくださるというのであれば、私の分の訴えは取り下げてもいいのですけど」
微笑む私を、父はまるで悪夢を見るかのように見つめ返していた。
「……と、とりあえず、今すぐ行かねばならない。帰ってからだ。この話の続きは……!」
逃げ口上。情けない台詞ね。
「ああ、そうだ、決めた! お前の結婚相手は、一番金を持っていそうな者にする! どんな人物だろうがな……覚悟しておくとよい!」
捨て台詞を残し、父は踵を返して部屋を飛び出していった。
その背中が、あまりにも滑稽で。ふふ。
扉が閉まると、張り詰めていた空気が嘘のように静まり返る。私は再び椅子に腰を下ろし、すっかり冷めた紅茶を一口含んだ。渋みだけが、舌に残る。
*****
夜も更け、館全体が冷たい静寂に包まれた頃。重く、軋むような音を立てて扉が開く。
「あら、お帰りなさいませ。お父様」
私はオスカーが淹れてくれたナイトティーを、ゆっくりと味わっていた。
「……っ!」
父の足取りは重く、顔色は土気色。昼間よりもさらに疲弊した様子で、汗も拭い切れていない。その手には、査問機関で渡されたであろう“支払命令書”が握られていた。
「あの査問官ども……! まるで、悪魔だ!」
ずかずかと部屋に入り、私の前の机に紙を叩きつける。
「支払い額は……十年分の追加税と、鉱山収益の返還……罰金も加えて……五千万リーヴル超えだぞ!? しかも、まずは今週中に五百万払えなど、どうやって払えというんだっ!!」
さも理不尽だと言いたげな怒声。
でも、ね。
「五千万、でしたか? 思っていたより少ないですわね。一億はいくかと」
肩をすくめて笑ってみせると、父の顔が怒りと絶望で歪んでいく。その様子に、胸の奥がすうっと冷えて、けれど同時に、どこか愉快でもあった。
「貴族にあるまじき行為をした対価ですわ。お金を払うだけで許されるのですもの。お父様は運がいい方よ」
「……っ! 貴様……っ」
「ふふ、娘に“貴様”呼ばわりですか? もう親子の情もありませんのね」
とっくに分かっていたことだけれど。
私は微笑みを崩さず、父の目をじっと見据えた。
「納めなければ爵位は剥奪、牢獄行きもありえますわね――そうなったら、爵位はだれのものかしら?」
「おまえ……まさか、最初から……!」
その瞬間、父の肩から力が抜け落ちた。座ることもできず、ただ立ち尽くしたまま、言葉を失って私を見ている。
かわいそう? いいえ、少しも。母が亡くなってすぐ、血のつながっているという三ヶ月だけ年下の妹を連れてきた、その日から――情など、とっくに消え失せている。
私は立ち上がり、父の横をすっとすり抜けた。
「ご機嫌よう、お父様。今夜はぐっすりお休みになってくださいね。夢の中でなら、まだ侯爵でいられるかもしれませんもの」
足音を立てずに扉を閉じる。背後からは何も聞こえてこなかった。
怒声も、詫びも、悔し涙すらも。――抜け殻になった人形のよう。
隣に立つオスカーを見上げる。
「こういう夜には、花の香りでも楽しみながら散歩がしたいわ」
「仰せのままに。お付き合いいたします」
彼の穏やかな声に、ようやく心の底から笑みがこぼれた。