軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第27話 仕組まれた視察

シシリー男爵領は、王都の華やかさから切り離された、ひどく排他的な空気が漂う土地だった。

水路の拡張工事の視察。ユリウスは村長や技術担当者とともに泥にまみれ、実務的な確認を淡々とこなしていた。その背後を、ジャネットが所在なげについて回る。

視察が一段落した昼時、一行は領地の代官を務める男の館へと案内された。ジャネットの叔父であり、男爵の弟であるダニエル・シシリーの屋敷だ。

「さあさあ、ユリウス様。慣れぬ田舎の視察でお疲れでしょう。まずは喉を潤してください」

ダニエルは脂ぎった顔に卑屈な笑みを浮かべ、自ら食前酒を勧めてきた。

「この領地で採れた最高の果実を使った、特製の果実酒です。ジャネットも、貴方様と一緒にこれを飲むのを楽しみにしておりましたぞ」

ジャネットもまた、期待と不安が入り混じった瞳でユリウスを見つめている。

ユリウスは、喉の渇きを覚えていたが、差し出されたグラスに鼻を近づけた瞬間、かつて伯爵家の教練で学んだ「ある警戒」が脳裏をよぎった。果実の甘い香りの裏側に、不自然なほど濃厚で、ねっとりとした芳香が隠されている。

一口、ごく僅かに含んだ。

その瞬間、舌の先から痺れるような熱さが駆け巡る。確信した。これは、まともな酒ではない。

「……っ」

ユリウスは即座に手元のナプキンを口元に当て、含んだ液体をすべて吐き出した。そして、ガタリと椅子を蹴るような勢いで立ち上がる。

「……すまない。気分が優れない。席を外させてもらう。今日の視察はこれで失礼するよ」

「えっ!? ユ、ユリウス様? どうなさいましたの、そんなに急に!」

ジャネットが慌てて立ち上がり、彼の袖を掴もうとする。だが、ユリウスはその手を氷のような冷徹さで払い除けた。彼の瞳には、かつての「甘いヒーロー」の欠片も残っていない。そこにあるのは、卑劣な罠を仕掛けられた者としての、深い軽蔑と怒りだ。

「ダニエル殿。……そしてジャネット嬢」

ユリウスの声は低く、そして鋭く室内に響いた。

「な、なんですかな。なにか不手際がありましたでしょうか……。それとも、お体のお加減が……」

ダニエルが冷や汗を流しながら、必死に誤魔化そうと笑みを深める。

ユリウスは無言で、自分が一口、口をつけたグラスを手に取った。そして、傍らに控えていた自らの従者に顎で合図を送る。

「この果実酒は、先ほどのグラスと一緒に瓶ごと『証拠』として持ち帰らせてもらう。……王宮薬師に鑑定させ、成分を洗い出す。ダニエル殿、覚悟しておいてくれ」

「な、なんのことですかな!? 鑑定だなんて、穏やかではない……!」

ダニエルの顔から血の気が失せた。ユリウスはそれを一瞥し、ジャネットに向き直る。彼女は状況が飲み込めず、ただ震えていた。

「えっ!? どういうことですか、叔父様? 証拠って、何のことですの……?」

「ジャネット嬢。君がこれに関わっているかどうかは、追って沙汰があるだろう。だが、一つだけ言っておく。……卑劣な手段で人を縛り付けようとするその腐った根性が、君たちの家を本当の破滅へと追いやるのだ」

「ユリウス様! 待ってください! 私は、私は何も知りませんわ!」

叫ぶジャネットを無視し、ユリウスは足早に館を後にした。

外の空気を吸い、口の中に残った僅かな熱を、持っていた水筒の水で何度も濯ぎ流す。

(……浅ましい。これほどまでに、浅ましい人々なのか)

ユリウスは馬車に乗り込み、拳を強く握りしめた。

ジャネットへの憐れみは、今、完全に殺意に近い拒絶へと変わった。もし、あのままこの酒を飲み干し、彼女の言うなりになって「既成事実」などを作らされていたら……。

想像するだけで、ローゼンタールで交わしたビビアンとの約束が汚されるようで、吐き気がした。

その頃、館の中では、ジャネットが崩れ落ちる叔父に詰め寄っていた。

「叔父様、答えて! あの果実酒に何を入れたの!? ユリウス様は、鑑定するとおっしゃったわ!」

「ああ、もう終わりだ!男爵家に、リッチモンドの血を引き入れろと、兄上から言われていたのだ。媚薬でも何でも使って、既成事実さえ作れば、こちらの勝ちだと」

ジャネットは絶句した。

自分が愛していると思っていた人は、自分を「犯罪者」の親族として、冷たく、そして正しく断罪しようとしている。

夕闇が迫る男爵領に、ジャネットの悲鳴のような泣き声が響いた。

だが、その声が、二度とユリウスの心に届くことはない。

ユリウスは馬車の中で、静かに目を閉じた。胸の奥からせり上がる激しい怒りを、冷徹な思考の裏側へと無理やり押し込める。ここで感情を爆発させるだけの子供でいるわけにはいかない。

(……いや、落ち着け。腹を立てて、感情のままに動くのはもう終わりだ。大人の政治的な戦い方をするんだ!)

かつての自分なら、この裏切りに激昂し、ただ感情に任せてシシリー家を罵倒し、絶交を突きつけて終わっていただろう。だが、今のユリウスの脳裏にあるのは、ドルーマン伯爵夫妻のあの厳しい言葉だった。

『高位貴族の嫡男たる者が、ただの「いい人」で終わるなど無能の極みだ。君に求めているのは、そんな安い偽善ではない。自分の身分と、与えられた能力をフルに使い、誰も傷つけずに、社会の仕組みごと弱者を救い上げるような、政治的な力のある強い男に成長することだ』

ユリウスは、ぎり、と奥歯を噛み締めた。

シシリー男爵家は、内政の杜撰さからもはや破綻寸前だ。そこに今回の「高位貴族家の正統な嫡男を怪しげな混入物で害そうとした」という大罪が加われば、重罪は免れない。

(だが、酒に仕込まれた物の正体が判明するのを待っている余裕はない。もしシシリー家が先手を打ち、『娘がユリウス様と既成事実を作った』などと偽の噂を王都に流し始めれば、僕への信頼は完全に地に落ちる。まだ正式な婚約前なのだ。ドルーマン伯爵に『またあの娘と醜聞を起こしたのか』と深い不信感を抱かれれば、ビビアンの帰国後に控えている正式な婚約そのものが白紙に戻されかねない。王都に着いたらすぐ、父上への報告と同時に、ドルーマン伯爵家へも最速で『罠を仕掛けられた』という事実を伝え、潔白の証明と根回しを行うべきだ。ビビアンとの未来を、あんな連中の小細工で壊されてたまるか!)

シシリー家は確実に処罰する。だが、まだ僕一人の浅はかな知恵だけで動くべきではない。父上、そしてドルーマン伯爵……大人の判断と力を仰ぎ、法と政治の網で冷徹に処理するのだ。

王都へ戻る馬車のなか、ユリウスは頭のなかで事の顛末とシシリー領の財政破綻の報告書の概要、あるいはドルーマン家へ送るべき緊急連絡の文面を組み立てていた。

王都へ戻ったユリウスは、休む間もなく父・リッチモンド伯爵の執務室の扉を叩いた。

その顔に迷いはない。ただ一刻も早く、己の周りに渦巻く「汚れ」を清算しなければならないという、切迫した、それでいて冷静な決意が彼を突き動かしていた。

「父上、ただいま戻りました。……シシリー男爵領で、緊急で報告すべき事態が発生しました」

ユリウスが指し示したのは、侍従が預かっていた密封済みの瓶とグラス。あの館で提供された、媚薬入りの果実酒だった。執務室には、彼からのただならぬ急報を受け、事態の重さを察して駆けつけたビビアンの父、ドルーマン伯爵も同席していた。

「視察先の昼食会にて、妙な味のする酒を提供されました。幸い一口で異変に気づき吐き出しましたが……ただの不手際とは思えぬ、我が家に対する明らかな背信の気配を感じます。万が一を鑑み、この検体を王宮薬師へ鑑定に提出する許可をいただきたいです」

静かに報告を聞いていたリッチモンド伯爵の目が、鋭く細められた。

「……王家が認めた我が家の嫡男に対し、そのような不審な杯を差し向けたというのか」

「間違いありません。僕のこの目で、彼らの動揺を確認しました。最終的な報告書はすぐにまとめますが、概要はここに。シシリー男爵領の水路計画を含め、現段階までの経済調査結果もすべて記載してあります。……父上、ドルーマン伯爵。リッチモンド家として、これ以降のシシリー家への支援からは、一切、手を引こうと思います」

リッチモンド伯爵は、ユリウスから手渡された書類とメモ書きをパラパラと捲り、深く溜息をついた。

「わかった。そこまでされて支援を継続する必要はなかろう。馬鹿なことをしたものだ、シシリー男爵も。目先の欲に溺れ、最大の後ろ盾を自ら切り捨てるとは」

そこで父は一度書類を置き、息子を射抜くような厳しい目で見つめた。

「だが、ユリウス。……お前自身の非も忘れるな。お前のこれまでの優柔不断な態度、そして『無自覚な善意』が、シシリー男爵家に『娘に好意がある』という勘違いをさせたのだ。今回の件は、お前が招いた結果でもある。今後は肝に銘じて、己の行動が周囲にどんな毒を撒くか、よく考えることだ。……未来の伴侶たる、ビビアン嬢のためにもな」

父の言葉は、盛られた不審な薬物の何倍も、深くユリウスの胸に刺さった。

「……はい。仰る通りです。申し訳ございませんでした」

ユリウスは深く頭を下げた。自分が良かれと思って振る舞ってきた行動が、最愛のビビアンを傷つけ、男爵家の中に身の丈に合わぬ邪な執着を育ててしまった。その独りよがりな正義が招いた罪の重さを、彼は噛み締めていた。