軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第18話 砂の上のシンデレラ

王都の陽光は、時に冷酷なほどに明るい。

学園のテラスで友人たちに囲まれながら、ジャネット・シシリーは引き攣りそうな頬を懸命に持ち上げ、可憐な微笑みを貼り付けていた。

「ねえ、ジャネット様。本当のところはどうなんですの? ユリウス様とは、もう……その、口づけくらいは済まされていまして?」

――キャーッ!

扇で口元を隠しながら、友人たちが顔を赤らめて囃し立てる。

かつてのジャネットなら、この問いかけに頬を染め、否定も肯定もせずに俯いてみせただろう。それだけで周囲は勝手に「甘い物語」を補完し、彼女を特別な存在として崇めてくれた。

だが今、ジャネットの胃の奥は、氷を飲み込んだような不快な冷たさに支配されていた。

(口付け……? そんな、あるはずがないわ)

ユリウスは確かに優しかった。彼女のために走り回り、領地の問題を解決するために知恵を絞り、慈しむような眼差しで自分を見ていた。

けれど、その優しさは常に「騎士が守るべき悲劇の乙女」に向けられたものであり、一人の女性としてのジャネットに熱い情熱が向けられたことは、一度もなかったのだ。

「そんな……。ユリウス様はとても真面目な方ですから。まだ、そんな段階では……」

「まあ! なんて高潔な! でも、毎日お二人きりで馬車で通学なさっているのでしょう? 少しでも長く一緒にいたいという、ユリウス様の愛の現れよね。本当にロマンティックだわ。羨ましい、うちの婚約者なんて、顔を合わせれば領地の予算の話ばかりなのに」

友人たちの「羨望」が、ジャネットの首を絞める鎖のように感じられた。

二人きりの馬車。その沈黙のなかで、ユリウスがどれほど深く「ここにはいない誰か」のことを想い、視線を彷徨わせていたか。彼から漂う、自分を拒絶しているわけではないが、決して受け入れてもいないという、透明な壁のような拒絶感。それを知っているのは、ジャネット一人だけだった。

放課後、重い足取りで帰宅したジャネットを待っていたのは、領地の再建を娘の「美貌」と「手腕」に懸けている両親だった。

「お帰り、ジャネット! どうだった、ユリウス様は融資の件、何と言っておられた?」

シシリー男爵が、期待に満ちた目で食い入るように娘を見つめる。その横で、母親も祈るように手を組んでいた。

ジャネットは喉の渇きを感じながら、絞り出すような声で答えた。

「……ユリウス様には、お断りされました。融資の話なら、正式にリッチモンド伯爵家に書簡を送り、事務方を通してほしいと」

「なんだって!?」

男爵の顔が、一瞬で失望と怒りに染まった。

「あんなに親身になってくれていたではないか! 毎日馬車で送り迎えまでして、学園でもつきっきりだと聞いているぞ。彼なら、伯爵を説得して内々に話を進めてくれると言ったのは、お前だろう!」

「ジャネット、あなた、何かユリウス様を怒らせるようなことをしたの? それとも、あの地味なドルーマン家の令嬢が何か吹き込んだのかしら」

「……違います! ビビアン様は、もう……」

言いかけて、ジャネットは言葉を呑み込んだ。

ビビアンがいなくなった。その事実を伝えたところで、両親は「ならば好都合だ」と、さらに自分を追い詰めるだろう。

「ユリウス様は仰ったわ。自分個人が口を出す段階ではないと。それは私の家の、シシリー男爵家としての義務だと。……正論だわ。これ以上、彼に甘えるのは……」

「甘えるとは何だ! 貴族の縁とは甘え、甘えられ、利を融通し合うものだろう! お前があの男を繋ぎ止めておけないから、このようなことになるんだ!」

父親の罵声が、贅沢品を売り払って寂しくなったサロンに響く。

ジャネットは拳を握りしめた。

(わかっているわ。そんなこと、私が一番わかっている)

自分が「弱く、愛らしい、守られるべき少女」に見えていたのだとしたら、それは決して演じていたからではない。嵐の中で一本の細い枝に縋り付くように、必死でユリウスの善意を掴んでいた。そうしなければ、家と共に泥の中に沈んでしまうという恐怖が、彼女の表情を、震える声を、涙を、自然と形作っていたのだ。

彼女にとって、ユリウスを頼ることは「悪意ある計算」ではなく、生存のための「本能」だった。

だが、その必死さが、結果としてビビアンという一人の女性の居場所を奪い、ユリウスを「騎士」という名の傲慢な酔いへと駆り立ててしまった。

ビビアンがいなくなったことで、ユリウスの心は今や剥き出しの刃のように鋭くなっていた。あの日、テラスで自分を振り払った彼の瞳に宿っていたのは、軽蔑ですらなく、救いようのない「空虚」だった。

自分が無意識に、命がけで縋り付いてきた「悲劇の乙女」という姿。

その必死な叫びは、もはやユリウスというたった一人の観客を動かす力を失っている。彼を繋ぎ止めるための唯一の手段であった「自分の弱さ」は、使いすぎてボロボロに擦り切れてしまった。

けれど、ジャネットにはもう、引くという選択肢は残されていない。

学園での地位、友人たちの羨望、そして家の再建。そのすべてが、ユリウスが自分を救ってくれるという希望の上に積み上げられてきた。もし今、彼との関係が破綻したことが知れ渡れば、自分はただの「恩を仇で返し、婚約者持ちの男を破滅させた、哀れで醜い女」として、社交界の底へと沈んでいくだけだ。

夜、鏡の前に座り、ジャネットは自分の顔をじっと見つめた。

泣き腫らした目。やつれた頬。

それは、ユリウスがかつて愛おしんだ、守るべき弱者の顔そのものだ。なのに、今の自分は、その弱さこそが彼を追い詰める毒になっていることを知っている。

「……あの方さえいれば、私はただの『助けたい人』でいられたのに」

皮肉なことに、ビビアンという揺るぎない「幼馴染」が存在していたからこそ、ジャネットの弱さは輝き、保護欲を掻き立てる宝石として機能していたのだ。ビビアンがいなくなった荒野で、自分の弱さはもはや誰の目にも美しくは映らない。ただ、ユリウスの犯した罪を思い出させる、耳障りな慟哭に過ぎなかった。

(いいえ。まだ、終わらせない。終わらせられないわ)

ジャネットは、震える手で化粧品を手に取った。

明日もまた、学園へ行かなければならない。友人たちの前で幸せな未来を夢見る少女を全うし、ユリウスの前ではさらに深く震えてみせなければならない。

たとえ彼が死んだような目で自分を見ていたとしても。

たとえ彼の手が、二度と自分を温かく包んでくれなかったとしても。

泥濘に足を取られながらも、ジャネットはシンデレラのガラスの靴を脱ぎ捨てる勇気を持てなかった。本能のままに救いを求め続けた結果、彼女は引き返せない地獄の門を、自らくぐってしまったのである。