作品タイトル不明
おねえさん、ガツンとかましてやる。
四限の講義が終わった直後の、学食前の広場。
初夏の日差しがアスファルトをじりじりと焦がす中、俺は広場の端にある木陰のベンチに陣取っていた。手には最近ハマっているスペインのジョークを紹介する文庫本が開かれている。以前は『読んでいる風』を装うための小道具としてのみ機能することもあった本だけど、最近は、前よりも活字を追うのが面白くなってきていて、今はきちんと本の中の世界が頭に入ってきていた。
少し離れた時計塔の真下では、ウェイ先輩がスマホをいじりながら誰かを待っていた。時折、ガラスに映る自分の前髪を直したりして、これから女の子と会うのを楽しみにしているといった様子の、ごく普通の大学生の姿だ。
あそこに、あの『生協の女神』が現れるのを待っているのだ。パステルカラーのブラウスを着て、ふんわりと微笑む、誰もが憧れる完璧な女の子を。
俺は文庫本で口元を隠しながら、小さく息を吐いた。なんだか、悪いイタズラを仕掛ける前の小学生のような、絶妙にそわそわとした高揚感が腹の底で渦巻いている。
やがて、広場の入り口付近が、ざわ、と小さく波打った。
講義終わりの学生たちが交差する中で、明らかに一つだけ「異質」な引力を持った歩みが近づいてくる。
コツ、コツ、と厚底のサイドゴアブーツがアスファルトを叩く重たい音。
俺は本から視線を上げ、息を呑んだ。
首元の大きく開いた黒のオーバーサイズTシャツから、片方の華奢な肩がルーズに覗いている。ボトムスは色落ちしたクラッシュデニムのショートパンツ。ストレートに下ろされた暗いアッシュの髪の隙間から、鮮やかなブルーのインナーカラーが初夏の風に揺れている。目尻を跳ね上げた強めのアイラインと、深みのあるリップ。
それは、先日ニトリアの家具屋を一緒に歩いた時と同じ、あの完全な「ロックな素の姿」だった。
すれ違う学生たちが、ハッとして彼女に振り返る。誰も、その圧倒的に目を引く美人が、あの『生協の女神』である山葉先輩だとは気づいていない。
山葉さんは周囲の視線など全く気にする素振りも見せず、一直線に俺のいるベンチの方へと歩いてきた。
俺の目の前を通り過ぎようとした、その瞬間。
真っ直ぐ前を向いていた彼女の視線が、スッとこちらへ滑ってきた。
アイラインが引かれた瞳が、俺を捉える。その奥には、いつもの気怠げな余裕とは違う、ほんのわずかな強張りがあるように見えた。
だが、俺が文庫本から顔を上げて視線を返すと、彼女は小さく、本当に微かに息を吐き出した。
ピンと張り詰めていた肩のラインが、ふっと緩む。
そして、俺にしかわからないほどわずかに口角を上げると、再び前を向き直った。
ふわり、と風が舞う。
その瞬間、俺の鼻先をかすめたのは、昼間の彼女がいつも纏っているような、すずらんを思わせる清潔なフローラルの香りではなかった。
バニラと、少しのコーヒーが混ざったような、甘く重たい香り。
それは紛れもなく、夜の俺の部屋で、彼女の首筋から立ち上っていたあの「夜」の匂いだった。
白日の下のキャンパスで、俺だけが知っている夜の彼女の匂いがする。たったそれだけのことで、誰にも言えない秘密を隠し持っているような気がして、無意識に呼吸が浅くなり、胸の奥がむず痒い熱を帯びていくのを感じた。
通り過ぎた後の彼女の背中は、先ほどよりもずっと軽く、迷いのないものに変わっていた。アスファルトを叩くブーツの音が、等間隔に、凛と広場に響く。
山葉さんはそのまま真っ直ぐに歩みを進め、時計塔の下でスマホをいじっていたウェイ先輩の目の前で立ち止まった。
人の気配に気づいたウェイ先輩が、顔を上げる。
彼の表情が、遠目からでもはっきりとわかるほどに固まった。無理もない。いきなりこんな強めのオーラを放つ美人に目の前に立たれれば、誰だって一瞬怯む。彼もまた、目の前の女が自分の待っている『山葉ちゃん』だとは、微塵も思っていないようだった。
「……お待たせしました」
山葉さんの声が、広場の喧騒を縫って微かに俺の耳にも届いた。
ウェイ先輩が、ビクッと肩を跳ねさせる。スマホを握ったまま、信じられないものを見るように目を丸くし、口をパクパクと動かした。
「えっ? あ、え、うそ……山葉、ちゃん……?」
「はい。何かご用ですか?」
山葉さんの声は、いつもの朗らかで少し高めのトーンとは全く違う、ひどく平板で、温度のないものだった。
ウェイ先輩は完全に混乱しているようだった。彼の頭の中にある『女神』のイメージと、目の前にいるロックな出で立ちの女が結びつかず、脳の処理が追いついていないのが丸わかりだ。
「い、いや、映画……行こうって、今日……その」
「あー、すいません。私、そういうのちょっと無理なんで」
距離があるため、全ての言葉がはっきりと聞き取れるわけではない。だが、山葉さんが一切の愛想笑いを浮かべず、スパンと断りの言葉を口にしたことだけは、その凛とした立ち姿から明確に伝わってきた。
「ていうか、あまりしつこく誘われるのも迷惑っていうか。私、こういう感じなんで」
山葉さんは自分のブルーのインナーカラーを指先で軽く払い、ふっ、と短く鼻を鳴らした。
ウェイ先輩の口が、間の抜けた半開きのまま止まった。手に持っていたスマホがだらりと下がり、画面が暗転しても気づいていない。さっきまでガラス越しに前髪を気にしていた先輩としての余裕は、見事なまでにひび割れ、崩れ落ちている。
自分の脳内にある『理想の女神』と、目の前で冷たく見下ろしてくるロックな女。その圧倒的なギャップに脳の処理が追いつかず、彼は瞬きすら忘れて突っ立っていた。あまりにも見事なフリーズっぷりを眺めていると、俺の胸の奥にこびりついていた重たいモヤモヤが、炭酸の栓を抜いたようにプシュッと吹き飛んでいくのを感じた。
時間にして、ほんの数十秒の出来事。
「それじゃ、私これから予定あるんで。お疲れ様です」
山葉さんは言葉を失っているウェイ先輩をあっさりと置き去りにし、くるりと背を向けた。
再び、厚底ブーツの音が遠ざかっていく。
彼女は、時計塔から離れ、学食の建物の陰へと向かって歩き出した。
俺の座るベンチからは少し距離ができたが、彼女は立ち止まることなく、歩きながらほんの少しだけ顔をこちらへ向けた。
アイラインで縁取られた冷ややかな瞳が、一直線に俺を捉える。
彼女はウェイ先輩に向けていたのと同じ、感情の読めない無表情のまま、体の横に下ろした左手で、俺にしか見えないように小さくチョキの形を作ってみせた。
ピースサイン。
俺は、込み上げてくる激しい笑いの衝動を抑えきれず、慌てて手元のフランス文学の文庫本で顔の半分を覆い隠した。
文庫本の裏側で、俺は必死に声を殺し、それでも堪えきれない笑いに小さく肩を震わせていた。
胸の奥に澱んでいた空気が、初夏の風と一緒にスカッと吹き抜けていく。周囲の視線など意に介さず、颯爽と歩き去るその背中から、どうしても目を逸らすことができなかった。
俺は、遠ざかっていく彼女の背中と、青いインナーカラーの揺れを、文庫本の縁越しに見送っていた。