軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

おねえさん、この場にいないのに俺の中で存在感が強い

学食でのあの一件から数時間が過ぎた。大学が終わって、バイトに行って、部屋に帰って、山葉さんがきて、しばらくすごして、それから一人になるというここしばらくのルーティンを終えた後の深夜。

静まり返った部屋で、俺は一人、ノートPCの画面に向かっていた。

画面に映っているのは、noteのエディタ画面。痛々しい自意識の垂れ流しであり、カルチャーヘッド気どりの自己満足だと自覚しつつも、以前彼女に「鈴木くんっぽくて面白い」と肯定されたこともあって、俺は懲りもせずカルチャー系記事の執筆を続けていた。

今日書いているのは、先日観た、色彩がやたらと美しい単館系のフランス映画についてのレビュー記事だ。

『本作の根底に流れるアンニュイな文脈は、主人公の徹底した孤独を浮き彫りにする。それは単なる疎外感ではなく、完璧すぎる色彩設計という名の檻がもたらす、逃げ場のない息苦しさだ――』

キーボードを叩きながら、相変わらず小難しい単語を並べ立てている自分に小さく苦笑する。冷静に距離を置いて読むと、シークレットブーツ全開の、いけすかない文体だ。

だけど、キーを叩く指先は不思議と止まらなかった。

『完璧すぎる檻がもたらす息苦しさ』。

画面に打ち込んだその一文を見つめていると、ふと、今日の昼休みの学食の光景がフラッシュバックした。

本田やウザい先輩に向けられていた、一寸の隙もない『女神』の笑顔。そして、テーブルの下で俺の足に触れていた、ミュールの固い感触。あるいは、大型家具店のソファに深く沈み込んで見せた、あの無防備な横顔。

これまでカルチャー誌の受け売りで、分かった気になって使っていた「孤独」や「息苦しさ」という単語。あるいは『色彩』『アンニュイ』という感覚。それが今、この部屋のソファに微かに残る甘い香水の残り香と混ざり合って、妙な生々しさを持って俺の中で像を結んでいる。

サブカルクソ野郎のソレっぽい文章であることに違いない。だが、すこしの手応えがあった。

エンターキーを強く叩き、記事を公開する。

ふぅ、と息を吐いて背伸びをし、椅子の背もたれに深く体重を預ける。 すると、間接照明だけが灯る薄暗い視界の隅で、待っていたかのようにスマホの画面がぽうっと光を放った。

ポップアップで表示されたのは、先日交換したばかりの彼女の裏垢のアカウント名。

『――あなたの記事にスキしました』

投稿して一分も経っていない。これからnoteを書きます、とさっき話していたせいもあるだろうけど、壁の向こう側で、彼女がすぐに読んでくれたのだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。

スマホを手に取ろうとしたその時、画面にもう一つのポップアップが重なる。

『あなたの記事にコメントが届きました』

見知らぬアカウントからの通知だった。俺のnoteに、山葉さん以外の人間からリアクションがつくこと自体が珍しい。

少しの緊張とともに、画面をタップする。

『映画の専門用語は難しくて半分も分かりませんでしたが、主人公の孤独を「完璧すぎる色彩設計がもたらす息苦しさ」と定義づけたあなたの視点に、鳥肌が立ちました。すごいセンスですね。週末、この映画を観に行ってみようと思います』

文字面を、目で追う。二度、三度と読み返す。

頭の芯がカッと熱くなり、スマホを握る指先に思わずギュッと力が入った。

「……まあ、これは、フランスの思想家ミシェル・フーコーの、パノプティコン的思考の受け売りともいえるしな……」

俺は誰に聞かせるわけでもなく、誰もいない部屋でわざとらしく顎をさすり、スカした声で呟いてみた。

だが、ダメだった。

頬の筋肉が、勝手にだらしなく吊り上がっていく。

これまで、俺の痛々しい記事に見知らぬ誰かから反応が返ってきたことなんて、ただの一度もなかったのだ。

震える指で画面を更新する。すると、さっきのコメントをきっかけにしたように、ぽつり、ぽつりと、他の見知らぬアカウントからも「スキ」の通知が届き始めていた。いつもなら一桁でピタリと止まるアクセス数も、静かに、しかし確実に増えている。

「っ……」

声にならない吐息が漏れる。俺はスマホを両手で大切に包み込むように握りしめ、そのままベッドの縁に額を押し当てた。

目を閉じると、じわじわと込み上げてくる熱を噛みしめるように、肩が微かに震える。

「……これはおれ、もしかしてカルチャー系の編集者とかライターになれるのでは……いや、さすがに調子乗りすぎか……」

純粋な嬉しさが、静かに、しかし確かな重みを持って胸の奥に広がっていく。

形から入って、なんかいい感じのはずだ、と得てきた知識から生まれた言葉が、痛い見栄ではなく、誰かの心を動かす「視点」としてちゃんと届いたのだ。

ひとしきりベッドの縁で余韻に浸った後、俺は乱れた呼吸を整えながら、のそりと顔を上げた。

間接照明のオレンジ色の光に照らされた、ローテーブルの上の景色。

そこには、俺のマグカップの隣に、さっきまで彼女が使っていた新しいクッションと、ぽつんと残された黒いヘアゴムが転がっていた。

俺は少しだけ熱を持った頬をかきながら、そのヘアゴムを見つめた。

口に出すのは気恥ずかしい。だが、必死に背伸びをして履いていたはずのシークレットブーツが、深夜の静寂の中で、少しだけ自分の足に馴染んできているような気がした。