作品タイトル不明
おねえさん、照れる
山葉さんの髪もすっかり乾いた深夜。
プロジェクターから流れるシットコムの録音された笑い声と、キッチンの換気扇の音が低く混ざり合っている。このドラマももう、シーズン7の中盤だ。
俺は細口のケトルを手に持ち、ドリッパーの中のコーヒー粉へ、慎重に、細くお湯を落としていた。
ぷく、とハンバーグのように膨らむ粉の表面から、香ばしく甘い匂いが立ち上る。
数ヶ月前、このアパートに引っ越してきたばかりの頃は、ただ「カリタのケトルとハリオのドリッパーを使っているお洒落な俺」というシチュエーションに酔ってるふしがあった。
動画で見た通りに手順をなぞり、慎重にお湯を落としてはいたものの、それはあくまで「それっぽい形」をやっているに過ぎなったのかもしれない。てか多分そう。
だが、今はすこしだけ違う。
温度計で八十五度きっちりに測ったお湯。彼女のリクエストである「ミルクたっぷり、砂糖マシマシ」に負けないよう、今日は少しだけ深煎りの豆を選び、じっくりと時間をかけて成分を抽出している。気温と湿度に合わせて挽き目も少し変えた。一つ一つの工程の意味が、今は少しだけわかる。
「……よし」
最後の一滴が落ちる前にドリッパーを外し、温めておいたマグカップにたっぷりのミルクと砂糖を加えてかき混ぜる。
「お待たせしました。熱いんで気をつけて」
ローテーブルの前に座り、新しいクッションに顔を半分埋めていた山葉さんにマグカップを差し出す。
「ん、ありがと」
山葉さんはスマホから視線を上げ、両手でマグカップを受け取った。パーカーの袖から覗く白い指先が、陶器の温もりを確かめるように包み込む。
ふー、ふー、と少しだけ尖らせた唇で息を吹きかけ、彼女はゆっくりと一口飲んだ。
コクン、と小さな喉が鳴る。
俺は少しだけ緊張しながら、自分の分のブラックコーヒーを手に彼女の反応を待った。
「あ」
山葉さんは小さく息を吐き出し、普段の気怠げな瞳を少しだけ丸くした。
「今日の。今までで一番好きかも」
マグカップの縁から口を離し、彼女は頬をゆるめて、本当に美味しそうな顔をして笑った。
「なんか、鈴木くんの淹れるやつに慣れちゃったわ。スタバ高い気がする」
その言葉は、最初にスパイスカレーを食べたときの「面白さ」や「鈴木くんっぽい」という、俺のこだわりに対する面白さのような評価とは違っていた。純粋な、味覚としての「美味しい」という賛辞。
「……あ、そうですか。今日はちょっと、お湯の温度を下げてみたんですよ。ミルクに合うように、豆も変えて」
俺は照れ隠しのように視線を逸らし、マグカップの取っ手を指で撫でながらボソボソと答えた。
「へー。鈴木くん、ほんとマメだよね。……おいし」
山葉さんはもう一口飲むと、満足げにクッションの奥へと深く沈み込んだ。
俺は自分のコーヒーを一口啜り、その丸みを帯びた苦味を舌の上で転がした。
自分でもコーヒーを改めて口にする。香りがいい。美味しい。多分じゃなくて、はっきりそう思う。
「鈴木くんさ」
「はい」
「なんかさ。結構凝り性っていうか、勉強家だよね」
「……そうですか?」
「ん。オシャレな感じのやつとか、かたち? から入るけどちゃんとしてるっていうか、なんだろ、うまくいえない」
山葉さんの言わんとしているところの前半はわかる。最初はただ「センスがいい」と思われたくて、自分に酔って淹れていたことは自覚している。形から入りがちなのは俺の特徴である。
後半部分は、どうだろう。ちゃんとしてる、っていうのはいいことなのだろうか。でもまあ、山葉さんが美味しいと言ってくれるし、自分でも美味しいから多分良いことだ。
「……山葉さんが、ミルクと砂糖多めにいれるからですよ。それに合うようにしてるんで」
「ふーん。じゃあ、あたしのおかげだ」
彼女は得意げにくすくすと笑った。
俺も少しだけ笑う。彼女のおかげ、というのは本当だと思う。山葉さんが美味しいやつを、と試行錯誤したことも事実だけど、それ以上に、『こだわってコーヒーを淹れる』という行為自体を彼女に認められている気がしていたから、続けられた。
「ですね。山葉さんのおかげです」
マグカップから立ち上る湯気の向こう側で、シットコムの画面を眺めながら柔らかく笑う彼女の横顔は、ひどく無防備で柔らかかった。
俺はその横顔を眺めながら、もう一口、自分が淹れたコーヒーをゆっくりと飲み込んだ。
※※
あの日、雨音の中でフランス文学のよくわからない一文に笑い合って、真夜中なことをガン無視してコーヒーを飲んだ日から、俺と山葉さんの関係は、目に見えてどう変わったというわけではない。
相変わらず、夜になれば彼女はふらりと俺の部屋にやってきて、定位置であるソファでストゼロなりハイボールなりを煽りながら、シットコムの続きを観て過ごす。
だが、その日、ソファで横になっていた山葉さんが、ふと不満げに首を傾げた。
「……なんかさ」
「どうかしました?」
「このクッション、微妙に硬いっていうか、あたしの頭の形にフィットしないんだよね。もっとこう、テキトーでいい感じに沈み込むやつが欲しい」
山葉さんはそう言って、俺がインテリア重視で選んだ少し固めのクッションをぽふぽふと叩いた。遠慮がなくなってきているなぁ、と苦笑してしまう。
「テキトーでいい感じ、ですか」
「そ。週末さ、ちょっと遠くにあるデカい家具屋行かない? ニトリア的なとこ。鈴木くんもなんか欲しいものあるっしょ」
「あー、まあ、いいですよ。俺もちょっと見たいものありますし」
俺は深く考えず、普通にそう応じた。
だが、承諾したあとで、よくよく考えてみればおかしな話である。
人の部屋に置くクッションを、なんで当たり前のように『自分の頭の形にフィットするやつ』に買い替えようとしているのだろうか。いつから俺の部屋は彼女の第二の自宅になったのか。
それに、わざわざ休日に二人で郊外の大型家具屋に足を運んで、部屋に置くインテリアを一緒に選ぶなんて。
それってなんだか、同棲の準備みたいじゃないか。
時間差でやってきたその事実に、俺は一人で勝手にむず痒くなり、照れ隠しに咳をしてしまった。
※※
そして迎えた週末の午後。
俺は最寄り駅の改札前で、スマホの時計をチラチラと確認しながら彼女を待っていた。
大学での『生協の女神』としての彼女と外で並んで歩くのだ。俺はヘアアイロンとワックスで十五分かけて『計算された無造作なセンターパート』を作り、ファッション系YouTuberが激推ししていたドレープ感のあるオーバーサイズシャツに、黒のワイドスラックスという俺なりの一番の勝負服を着てきた。周囲の目にどう映るか、不安と期待が入り交じって落ち着かない。
「おまたー」
不意に、背後から声をかけられた。
聞き慣れた、間延びしたようなトーン。振り返った俺は、そこから数秒間、完全に言葉を失ってしまった。
そこに立っていたのは、大学で見せるパステルカラーのブラウスを着た『女神』でも、俺の部屋で見せるヨレヨレのダル着姿でもなかった。
トップスはライダースジャケットとショート丈の黒いタイトなトップスでチラリと白い腹を覗かせ、ボトムスはタイトなレザースカート。足元はゴツい厚底のサイドゴアブーツだ。
動くたびに、細い首に巻かれたレザーチョーカーの金具や耳元のインダストリアルピアスが冷たく光る。
髪はいつもの清楚なまとめ髪ではなく、綺麗にストレートに下ろされており、暗いアッシュの髪の隙間から、鮮やかなブルーのインナーカラーが大胆に覗いていた。
メイクも、大学でのナチュラルなものとは違う。目尻を少し跳ね上げたアイラインと深みのあるリップが、彼女のタレ目気味の三白眼をより妖艶で、少しだけ攻撃的に彩っていた。
「え……っと。山葉、さん……?」
俺が戸惑いながら尋ねると、彼女は呆れたようにジト目を細めた。
「なにその反応」
「いや、あまりにも、その……普段と違いすぎて。なんというか、めっちゃロックというか……」
俺の言葉に、山葉さんはレザーチョーカーを軽く触り、どこか照れ隠しのように笑った。
「いや、あたし、わりとこんな感じだし。大学行く時が『猫かぶってる』だけで、素で出かける時はこっちがデフォ」
これが、彼女の『第三の姿』。本当の趣味。
すれ違う人々が、ハッとして彼女に視線を向けるのがわかる。無理もない。今の彼女は、目を引くほどに美しく、実にかっこいい。
だが、そんな彼女が隣に並び、俺を見上げて小さく笑いかけている。
「んー、どう? 鈴木くん、こういうのあんまし?」
見透かしたような、からかうような口調。
外の世界では、誰も知らない彼女の『素』の姿。今、その隣にいるのが俺なのだと思うと、今日のために必死で固めてきたはずの自意識が、情けないほどあっさりと解けていくのを感じた。
「めっちゃかっこいいと思います。なのに可愛いし」
俺は自分でも驚くほど、ぽろっと本音を漏らしていた。
すると山葉さんは一瞬きょとんとして――ふい、とそっぽを向いてしまった。
「……素直か。じゃ、行こっか」
何か変なことを言ってしまっただろうか。彼女はボソリと呟くと、ブーツのヒールを鳴らし、足早に歩き出す。
だが、その揺れるインナーカラーの隙間から覗く彼女の耳たぶが、ほんの少しだけ赤くなっていることに、俺は気がついた。
フワフワと浮き足立ちそうな歩調を必死に地面に押さえつけながら、彼女の隣に並んで歩き始めた。