作品タイトル不明
34.
「リンジー!!」
突然背後で伯爵夫人が叫ぶ。私の肩が勝手にビクリと跳ねた。
最初何を言っているのかわからず彼女がストレスに耐え切れず発狂したと思った。
「……喧しいわね」
そう呟きながら振り向き私の背後を守っていたらしきカーヴェル越しに夫人に視線を向ける。
彼女は私ではなくもっと下の方を睨みつけていた。
そちらを見ると涙目で首を振るメイドが居た。
(ああ、確か彼女の名前がリンジーだったわね)
一旦納得するが新たに疑問が生まれる。
何故伯爵夫人は突然メイドの名を叫んだのか、
そして呼ばれたメイドは何故拒むように首を振るのか。
少し考えて仮説を思いつく。
私はカーヴェルに横に行くよう指示をして伯爵夫人に語り掛けた。
「もしかして今、このメイドに私を襲えと命じませんでした?」
指摘すると伯爵夫人はこちらを睨みつけメイドは顔を下に向けた。
分かりやすすぎる。
「そんな訳ないでしょ、メイドの名を呼んだだけよ!」
「何故突然そんなことを?」
「……そんなの、メイドの癖にいつまでも床に座り込んでみっともないからに決まっているでしょう!」
「突然貴方がメイドの名前を叫んだのも私からしたら大分聞き苦しかったですけれど」
狂った訳でなくて安心しました。そう笑みを浮かべ私は今度こそ退室する。
そして平静を装いゆっくりと歩いた。
カーヴェルとレインも何も指示をしなくても後ろについてくる。
(嫌だわ、寒気が止まらない)
きっとドレスに包まれた肌は粟立っているだろう。私の意思とは無関係に。
心でなく体が反応している。
オルソン伯爵夫人と同じ部屋に居たくない。彼女の声を聞きたくない。
ヒステリックに誰かを責める様を見たくないと。
ただ私自身の心は彼女のことを心底毛嫌いし軽蔑している。
なので隙があれば嫌味を捻じ込み嘲笑いたいと思うので厄介だった。
(何か無性に腹が立つのよね)
そんなことを考えながら馬車まで着く。
私が乗り込むのを確認した後レインは不思議なことを言い出した。
「二人で先に公爵邸に戻って欲しい」
「レイン先生は?」
「あのリンジーと呼ばれたメイドの手当をしてくるよ」
「はあ……」
何故レインがそんなことをするのだろうという疑問が浮かぶ。
彼女は確かに善人寄りではあるがそこまでお節介だろうか。
そして伯爵夫人がレインに対し妙な関心を持っていたことも気になった。
「そこまでしなくても、伯爵夫人もレイン先生に変な興味を持っているみたいだし危険だわ」
「大丈夫だよ、それにあのメイドは伯爵夫人の腹いせで手当すらされないかもしれないからね」
「だとしても……なら私たちも伯爵邸に戻りましょうか?」
そう提案するとレインはゆっくりと首を振った。
「私だけで十分だよ、その方が色々動きやすいんだ」
「動きやすい?」
「そうだよ、だから心配しないで。君は帰宅して身も心も休めた方が良い」
あの家は居るだけで辛かっただろう。
そう見透かすような瞳で言われてはそれ以上引き留められない。
私とカーヴェルだけを乗せた馬車は間もなく出発した。
特に何か会話する内容も無いので馬車内は無言だ。
レインの言った通り伯爵邸が遠ざかる程体のこわばりが解れていく。
(……当たり前だけれど、この体ってエリカの物なのね)
私自身もエリカではある。エリカとして過ごして来た記憶だってある。
けれどそれはよく考えれば記憶というより知識として扱った方が適切なのかもしれない。
エリカが感じていた痛みも悲しみも喜びも私が思い出そうとすると何もかも薄い。
今まではそう感じていた。
だけど実家である伯爵邸に戻り昔付き合いのあったメイドに嫌がらせをされ、伯爵夫人と言葉を交わした。
それだけで生乾きの瘡蓋を無理やり剥がされるようにひりついた痛みと共に記憶が蘇った。
(もし伯爵家で一ヶ月過ごしたら私の人格も元のエリカに戻るのかしら)
そんなことを考えて、考えなければ良かったと思う。
亡霊のような前世の人格より今世のエリカの人格を優先する方が道義的には正しいと思う。
けれど今更エリカの人格に戻ってどうなるのだという気持ちもある。
そしてそんな自分の考えが意地汚い開き直りに思えて嫌になる。
「……奥様?」
心配するような声に顔を上げると恐ろしいぐらいに整った顔の青年が居た。
炎のような真っ赤な髪に、理知的な琥珀色の瞳。
一瞬見惚れて、家令のカーヴェルだと少し間をおいて気づく。
そのことに内心恐怖した。
見慣れた彼の顔を見知らぬ美しい青年として認識したことが怖かった。
今無意識に本来のエリカに戻っていたのではないかと。
「何でもないわ、何でもないの……」
「少しでも気がかりなことがあれば何でも仰ってください」
私は貴方の恩に報いる為、身も心も捧げると誓ったのですから。
そう私にとって都合の良すぎる言葉を告げる彼にあの日のように誓いを明確に拒むことは出来なかった。
曖昧な無言を貫く私を馬車は静かに公爵邸まで運んだ。