作品タイトル不明
第29話 決着
夜の環状馬車道を、黒い影が駆け抜けていく。
エルシャはヘンリーの背中で、ダグラスと初めて会った夜のことを思い出していた。
『君は……どうしたい?』
母が亡くなって以来、あの屋敷でエルシャに意向を聞いてくれる者など誰もいなかった。
『この家から出たいです』
あの屋根裏部屋で……ダグラスの持ったランタンが、エルシャの世界に明かりを灯した。
「わたしを……こんなにも明るい場所まで連れて来ておいて、自分は闇に沈むなんて、許しませんよ、お父さん」
ダグラスの気持ちは、エルシャが一番よく知っている。忘れることなど出来ない。母を見殺しにされた恨みは、今でもエルシャを簡単にバラバラにする。
それでも……。
父親への復讐心に呑み込まれそうになった時、止めたのはダグラスだ。
『あの男が卑怯な場所にいるからこそ、お前は正しい場所に立て』
その言葉があるからこそ、踏みとどまっていられる。
「力ずくで……引っ張ってでも、連れて帰ります!」
湿り気の増した風が、犬たちの声をエルシャに届ける。犬たちは王都の外側から、包囲網を徐々に狭めるように走っている。
『街の外には出ていないみたい!』
『川も渡っていないよ!』
エルシャも遠吠えで応える。
『日の出の方向へ!』
『川を背にして進んで下さい!』
『魚の匂いのする通りへ!』
ダグラスの匂いを、見つけられない犬たちが、徐々に王都の中心部へと向かっている。
「東区の、官庁街……?」
王都の都市機能が集まっている区域だ。
一際高い遠吠えが上がる。
『見つけた、帽子の匂い! みんな集まって!』
ヘンリーが立ち止まって、耳をパタパタと動かす。背中のエルシャを見上げて、一声吠えた。
『声の方向へ真っ直ぐ向かうよ! 犬の道を通るから、しっかり掴まっていて!』
エルシャはヘンリーの首に抱きつき、ハーネスを強く握った。
石畳の広い通りを外れ、路地裏へ。木箱を乗り越え、柵を飛び越え、塀の上を駆け抜ける。
人間の視界から零れ落ちた空間を、一直線に切り裂く。
右から一匹。左から二匹。
爪音が増え、息づかいが重なっていく。
そして再び、高く遠吠えが上がる。
『臭い瓶の匂いのやつだ!』
『帽子の匂いのいる建物に入った!』
群れの速度が上がった。
『ヘンリー、あとどれくらいですか!?』
『あの角を曲がったら見える!』
ガス灯の並ぶ大通りに出ると、レンガの建物の前に耳をピンと立てた、若い犬が待っていた。
『あれだよ! 白い大きな扉!』
「郵便局? ヘンリー、降ります!」
エルシャはヘンリーから降りると真っ直ぐに扉へと走り、扉の前で息を整えた。
大きな扉は、キィと少しの軋み音を立てて簡単に開いた。
扉の向こうに、男の襟首を締め上げているダグラスの姿があった。
* * *
《ダグラス》
あと、ほんの少しだった。
夢の中で、何度も何度も殺した。自分でも嫌気が差すほどに、惨たらしい方法で。嫌な汗をかいて飛び起きて、暗闇の中で荒い息を吐く。
顔も、声も知らない相手だった。
その、八つ裂きにしてやりたい男が、今は目の前にいて、思っていた通りに最悪のことを口にしている。
罪悪感や倫理観など吹き飛んだ。
この男を永遠に沈黙させられるなら、俺は騎士じゃなくていい。警ら隊長じゃなくてもいい。この男は生きている限り、俺の大切なものを奪おうとする。必ず、エルシャに牙を向く。
指先に力を込めて、喉仏を砕くまで、あと、ほんの数秒だった。
太腿にギュッと抱きつく温もりで手が止まった。
「お父さん……だめです……」
舌っ足らずの、今は一番聞きたくない幼い声が聞こえた。
振り向く勇気はなかった。俺は……エルシャの父親でいる資格なんかない。こんな男の首を絞めている、うす汚い殺人者だ。
「エルシャ……離れてくれ……」
「イヤです。離れません。離しません!」
軽い身体で、足まで絡めて、ぎゅうぎゅうとしがみ付いてくる。
「明日の朝ごはんを、一緒に食べるって……約束してくれるまで、絶対に離れません!」
……朝ごはん?
あまりに突拍子もない、あまりにありふれた日常の手触りが、驚くほどの勢いで思考を絡め取った。
復讐という名の甘い泥沼へ沈んだ俺を、エルシャは同じ泥を知っているくせに……。光の方へと、力ずくで、引き摺り戻そうとしている。
喉の奥から、乾いた笑いが零れた。
澱(おり) のように積み重なった 昏(くら) い怨嗟も。喉元を掻きむしりたくなるような後悔と自責も。
幸せな夢から覚めた朝に突きつけられる、あの、残酷な孤独も。
……それらすべてを道連れにして、それをエルシャの安寧と引き換えにして、地獄へ堕ちることだけが、俺のできることだと思っていた。
だが、エレンとハリーは……そんな俺では嫌がるだろう。そんな俺では、怖がるだろう。エルシャは……きっと怒るだろう。
自分を置いて逃げるのかと。
同じ復讐の甘い毒の味を知るこの幼女は、俺を甘やかしてはくれない。
「わかった……。わかったから、エルシャ」
恨みも、後悔も、孤独も抱いたままで、それでも生きていく。それをエルシャだけに背負わせるわけにはいかない。
「おとう、さん……?」
「ああ。こんな男の首を絞めるよりも……朝ごはんの方が大切だ」
もし、いつかまた、泥に呑まれそうになったら思い出せばいい。
『エルシャにしがみつかれて、朝ごはんのために生かされる』
そんな今夜の俺を。
襟首を掴んだまま、息を吐いて数を数える。ひとつ。ふたつ。拳の震えが止まるまで。
「エルシャ、一旦離れてくれ。犯人を拘束して、連行する」