作品タイトル不明
第27話 遠吠え
《エルシャ》
「ダメです! 危険過ぎます。エルシャとビリーくんは、高速馬車で八番街の詰所へ向かって下さい。応援要請をして、そのまま待機です」
エバンスお父様が言いました。大人として、私の後見人として、真っ当な判断です。けれど、ここはわたしも譲れません。
「お父さんを探しに行きます。ヘンリーなら、ダグラスお父さんの匂いを覚えていると思うんです」
「いけません。子供の時間はおしまいです。さあ、馬車に乗って! ビリーくんもですよ!」
有無を言わさず、馬車へと乗せられてしまいました。エバンスお父様は、頑固なところがあります。そして今日のお父様は迫力もありました。
高速馬車が走りはじめてすぐに、座席にある警ら隊の長帽子が目に入りました。
「これは?」
「あ、ああ。ダグラスさんの長帽子だって。退職届と一緒に押し付けられたって、エバンスさんが言ってた」
これを置いて行った……。警ら隊の長帽子は『正義』の象徴です。警棒が『勇気』、そして銀笛が『信頼』。この三つが警ら隊員の誇りです。
お父さんは『正義』を置いて行ってしまった……。
「御者さん、止めて下さい。わたしとヘンリーは降ります」
「エルシャ、無理だよ。危険だ! 子供の出る幕じゃない。探偵ごっこは終わりだよ!」
ビリーくんが言いました。
「そうですね。探偵ごっこは終わりです」
探偵帽子を脱いで、ビリーくんに渡しました。代わりに、お父さんの長帽子を被ります。視界がほとんど塞がってしまいました。
――大きくて、重い……正義の重さです。後ろへ傾けて、どうにか視界を確保します。
「これでわたしは、警ら隊員です」
キリッと表情を引き締めて敬礼します。お父さんの制服も羽織ります。うっ、重いし上着だけなのに引きずってしまいそう。
「そんな泣きそうな顔をしないで下さい。わたしは大丈夫ですよ。ヘンリーがいますから」
笑って馬車を降ります。
「応援要請、頼んでも良いですか? 使いっ走りばかりですみませんけど」
「やるよ……。そのくらいやるよ! その代わり、約束しろよ、絶対に……無事に帰るって!」
ビリーくんが、馬車の窓から顔を出して叫ぶように言いました。何だかすごく巻き込んでしまいました。
川べりの人気のない遊歩道です。日が暮れて、冷たい風が川面から吹き上げてきます。
「ヘンリー、一緒に……お願いしますね。みんなを呼びましょう」
* * *
《ビリー》
「……くそっ」
馬車が走り出して、十秒も経たないうちに、胸の奥がひっくり返った。
「止めて下さい!」
御者が驚いて手綱を引く。
「すぐ戻ります! ちょっと待ってて!」
返事も聞かずに飛び降りた。
川べりへ向かう道は、もう夕焼けの色を失っていた。
晩秋の雲が低く垂れこめ、空は重たい灰色だ。月も星も、見えない。
川から冷たい風が吹き上げて、霧がゆっくりと遊歩道を這い、石畳を濡らしている。
ぽっ、とガス灯が灯った。その橙色の光が霧に滲み、輪になって揺れている。
ウェリントン橋の下を流れる川は、黒く沈んでいる。水音だけが、遠くで低く響く。
——いた。
遊歩道の中央に、小さな影。
エルシャが立っている。
お父さんの制服を羽織り、長帽子を被ったまま。ヘンリーがその隣に寄り添っている。
風が一瞬、止んだ。
「エルシャ……」
そう声をかけようとした、そのとき。
エルシャが、空を見上げてゆっくりと息を吸った。胸いっぱいに、夜を吸い込むみたいに。
「アォーーーーーン!」
エルシャの口から出たのは、確かに遠吠えだった。犬や、狼が夜にやるやつだ。仲間との連絡手段だって聞いたことがある。
その、遠吠えを……、エルシャがやっている。ヘンリーが、隣で同じように顔を空に向けた。
「アォーーーーーン!」
川面が震えた気がした。
ガス灯の炎が、揺れた。
二つの声は絡み合い、霧の奥へと突き抜けていく。ぞくり、と腕に鳥肌が立つ。
「な、なんでエルシャが……あんな……」
遠くで、応える声がする。
ひとつ。
またひとつ。
そして、いくつも。
四方八方から、犬の遠吠えが返ってくる。それからすぐに、霧の向こうで影が動いた。
石畳を走る足音が集まって来る。橋の向こうからも、路地裏からも、河岸からも。
犬たちが、どんどん集まって来る。そして、エルシャを守るように寄り添った。
それは確かに異様だし、怖いなと思っても不思議じゃない光景だった。
でも犬たちの、その目は——子犬を守る群れの、優しく強い眼差しだった。
* * *
《ある老犬の呟き》
ある日、老犬のもとに、人間の子供がやって来た。幼い声の、舌っ足らずな犬語で話しかけて来る。
何やら頼みごとがあるらしい。
『弾け飛んで、火を連れてきます』『破片が飛び散って、建物を吹き飛ばします』
物騒なことを、しきりに訴える。
臭い瓶の匂いを嗅がせて、その匂いがしたら、危険だから近寄らずに知らせて欲しいそうだ。
『わうっ!』
その人間の子供の、下手くそな犬語を聞いていると、胸の奥が、ふっと温かくなった。
どこかで、似た響きの声を聞いた気がする。森だったか、風の強い丘だったか。崖の下の、洞窟の寝ぐらだったか。
いや、そんなはずはない。
老犬はこの街の裏路地で生まれ、この石畳の匂いしか知らないはずだ。
それなのになぜか懐かしい。寄り添って、温めてやりたい。その声をずっと聞いていたい。
何も思い出せない。思い出せないのに離れがたい。ただただ、幸せでいて欲しい。
ああ、と老犬は小さく息を吐いた。
この子供は――群れの子犬だ。この街の大きな群れの子犬なのだ。慈しみ、育てればいい。
老犬は微睡みに身を任せる。風の匂いの奥に、懐かしい気配が混じった。老犬はクゥーンと小さく鳴いた。
『いつか、きっと、また会える』
前世か、その前か。それとももっと昔か。あの峰で交わした 子犬(ショーン) との約束が、ようやく守られたのだ。
それならば、駆けつけよう。 子犬(ショーン) の魂を持つあの娘のために走ろう。そんなことは、お安い御用だ。
老犬は耳だけをそば立てて、浅い眠りへと落ちていった。