軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第44話 走馬灯が見せたもの

三度目の走馬灯が、回りはじめました。

暗闇の中で、丸い光の輪が浮かび上がります。ぐるぐる回る光のひとつひとつに、小さな窓のように別の光景が映っています。

最初に見えたのは、知らない街の公園でした。

夕焼け色に染まる遊具のそばで、女の人が笑っています。髪をひとつに結んで、エプロンをつけています。滑り台のてっぺんから、小さな男の子が「ママー!」と手を振っています。

歓声を上げて滑り降り、女の人の方へ走って来ました。

「そんなに走ったら転ぶよー」

女の人――森中えりこさんが、笑いながら両手を広げます。男の子が勢い良く飛び込んで、その胸におさまりました。

あの、真っ暗な団地の一室で、父親の足音に怯えていた女の子と同じ人とは思えません。笑顔の眩しい、お母さんです。

えりこさんの腕は、殴るためじゃなくて、抱きしめるために使われている。

「『陽だまりのエルシャ』を読んだだけじゃ、私の人生は変わらなかったんだよ」

えりこさんの声が聞こえました。

「エルシャみたいに我慢してても、現実では誰も助けに来てなんかくれない。だから感想文を書いたの」

養護施設の小さな部屋が見えます。ひどい職員もいるけれど、えりこさんの相談ごとを真剣に聞いてくれている人もいます。

夜間大学に通って、資格を取って、夢だった仕事に就いて。結婚して、子供を産んで――。

走馬灯の光の中のえりこさんは、しっかりと前を向いて、 逞(たくま) しく自分の人生を歩いていきます。

「私も怖かったよ。父親みたいになったらどうしようって。弟も泣きながら、そう言っていた」

えりこさんが、子供の寝顔を眺めながら、呟くように言います。

「でもさ、あんなのは親じゃなかった。私も弟も、今は愛することを知っている。それを教えてくれる人に出会えたんだよ」

虐待の連鎖という鎖は、えりこさんを縛ってはいませんでした。えりこさんは諦めずに根気強く、鎖から抜け出したのです。

「あなただって、出来るよ。愛することも、愛されることも、もう知っているでしょう?」

そう言って笑うえりこさんは、どこか母様に似ていました。

光の輪が、また回ります。

深い森が見えました。雪の積もった斜面にショーンが立っています。前に見た時より、少し背が伸びています。精悍な顔つきで周囲を見渡しています。

周りには、たくさんの犬たち。黒い毛並みの犬、耳の垂れた犬、片目のつぶれた犬……。犬に視線を移すと、ショーンの目は優しく緩みます。

「ほら、こっちだ」

ショーンは、人間の言葉と犬の言葉、両方で群れを導いています。

ショーンは犬たちの飼い主でも、犬使いでもありません。 群(・) れ(・) の(・) ボ(・) ス(・) なのです。

安全なねぐらを作り、危険な動物を避ける工夫をし、食べ物を蓄えます。厳しい冬を乗り切るために、やることはいくらでもあるのです。

遠くに人間の村の明かりが見えました。でも、ショーンはそちらを振り返りもしません。

「あそこには、ぼくの場所はなかった。恨んだこともあったけれど、もういいんだ。仕返しをしたいとも思わない。ぼくの大好きな犬たちに、そんな汚いことはさせたくない」

ショーンは森での暮らしを選びましたが、人間であることをやめたわけではないようです。森の恵みや貴重な植物、獲物などを人間の狩人と取り引きをしています。

決して豪華ではないけれど、暖かい衣服を着ています。

ショーンは自分を育ててくれた犬たちのように、群れのたくさんの子犬を慈しんで育てました。

「……ぼくは人間の残酷さに絶望していたけど、ぼくの人生はそれだけじゃなかったよ。愛することも、愛されることも、犬たちが教えてくれた」

ショーンは自分を繋ぐ鎖を、自分で研いだ牙で、噛み砕いて断ち切ったのです。

「人間の世界には戻らなくていいと思ったんだ。後悔もしていないよ。ぼくはぼくの選んだ場所で、思うがままに生きた」

ショーンは、長生きは出来ませんでしたが、犬たちに見送られて静かに眠りにつきました。

群れの犬たちが、一斉に遠吠えをしています。哀しみに満ちた声は、いつまでも森にこだましていました。

『また、いつか会える』『きっと、どこかで』。そう言っていました。

ああ――。

わたしは、気づきました。

えりこさんとショーンは……。自分の居場所を勝ち取った人です。時には信頼する人や、優しい仲間に助けられながら、諦めずに進んだ人です。

そして、わたしも――。

光の輪が、大きく回りました。

走馬灯の光の渦の中に、あの屋根裏部屋が浮かび上がります。本棚とベッドを軽々と押し上げて、ダグラスさんが昇っていきます。ポケットにはハチミツ飴が入っています。

あの夜、屋根裏部屋から叫びました。声の限りに叫びました。それは六歳のわたしの、たったひとつの出来ることでした。取るに足りない、悪あがきでした。

でも、わたしの声を聞き逃さずに、真夜中なのに警ら隊に連絡してくれた人がいた。おざなりの対応をせずに、屋根裏部屋まで来てくれた、ダグラスさんがいた。

寡黙で心配性のダグラスさん、やんちゃなヘンリー。陽気なピートくん、面倒見のいいハドソン先生、真面目で涙もろいエバンスさん。

穏やかなソフィアさん、マイペースなベックさん、厳しくも優しい師匠のトーマスおじ様。

わたしがわたしであるだけで、愛してくれたおばあ様。慈しんで育ててくれた母様。

みんながわたしを呼び、手を差し出してくれます。その手を取った時の、くすぐったい気持ちをはっきりと思い出しました。

わたしはあの寒々としたグリーンウッド邸だけが、世界の全てじゃないことを知っている。

だから――。

(わたしは、あの人みたいにはならない)

その瞬間、わたしに絡みついていた鎖が、弾けてバラバラに飛び散りました。

走馬灯が、ゆっくりとその動きを止めてゆきます。

わたしは、きっともう……大丈夫です。