作品タイトル不明
第五話:土鼠の冬支度
天文三年 霜月 / 西暦一五三四年 十一月
大郷一族による夜襲を「怪異」によって退けた平島館には、表面上、平穏な冬が訪れようとしていた。だが、三郎の周囲を取り巻く空気は、確実に変わり始めていた。
(……見られている。これまでは『無能な子供』として無視されていたが、今は『気味の悪い何か』として視線が刺さる)
三郎は、館の厩舎の裏で、寒風に晒されながら枯れ草を弄んでいた。
大郷の兵たちが漏らした「阿波の鬼」という噂は、三好家を通じて周辺の国人たちへ広まりつつあった。父・義維や兄・幸若が「足利の威光」を叫べば叫ぶほど、実務を担う現場の者たちは、その背後に潜む「泥まみれの幼子」の影を疑い始めている。
「若君、またそのようなところで。今日は柳斎先生が、山ではなく『港』へ連れて行くと言っておいでですぞ」
世話役の老女が声をかける。三郎は力なく頷き、柳斎の待つ勝浦川の河口へと向かった。
そこには、瀬戸内の荒波を越えてきた交易船が数艘、接岸していた。潮の香りと、人々の怒鳴り声。戦国の活気がそこにはあった。
「若君、今日は『物』の道理を学んでいただきます」
柳斎は、三郎を連れて荷揚げ場を歩く。そこには、三郎が嵐の前に「藍の滓」を買い叩いた藍商の男が待っていた。
「若君、この度は……いやはや、驚きました。お譲りした滓が、あのような形で館を守るとは」
藍商の目は笑っていたが、その奥には商売人特有の強欲な光があった。彼は三郎の仕掛けた「化学反応による熱と煙」の噂を耳にし、それが新たな「兵器」になるのではないかと踏んでいた。
「……あれは、ただのゴミの処分に困って焼いただけです。お騒がせしました」
三郎は愛想笑いでかわそうとする。だが、柳斎が横から口を挟んだ。
「隠すことはありますまい。藍商殿、若君は此度、藍の滓をさらに大量に欲しておいでだ。それも、ただの滓ではない。特定の木灰を混ぜ、一年以上寝かせた『古い滓』だ」
(柳斎先生、何を勝手な……!)
三郎は師を睨みつけたが、柳斎は涼しい顔だ。
三郎が前世で培った「石灰」と「藍の抽出成分」による防腐・殺菌、さらには土質安定材としての知識。柳斎は、三郎がそれを「冬の間に館の地盤を永久的に固めるため」に使おうとしていることを見抜いていた。
「……若君。お主は『逃げ道』を作り、『蔵』を守った。次は『道』ですな?」
柳斎の問いに、三郎は沈黙した。
阿波の冬は乾燥するが、一度雨が降れば道は 泥濘(ぬかるみ) と化す。兵の移動を妨げ、物流を止める泥。三郎は、館から港までの主要な道を、前世の「ソイルセメント」の概念を応用して舗装しようと考えていた。
(道が良くなれば、物資が届く。物資が届けば、人は飢えない。人が飢えなければ、俺の館を襲う理由がなくなる……。それだけのことだ)
三郎は、藍商との交渉を引き継いだ。四歳の身長では相手を見上げることしかできないが、その口調は次第に、商談に慣れた技術者のそれへと変わっていく。
「古い滓を、一冬分。代わりに、俺が教える『新しい炭の焼き方』を教えてやる。熱効率が倍になる方法だ」
藍商の顔色が変わった。三郎が提示したのは、前世の知識による「白炭」に近い製法だ。
燃料の革命は、商売人にとって黄金に等しい。
「……若君。お主、本当に四歳か?」
「……ただの、土鼠の知恵ですよ」
交渉が成立し、三郎は柳斎と共に帰路についた。
道すがら、柳斎がポツリと呟いた。
「若君。お主が豊かさを作れば作るほど、それを欲する『真の怪物』がやってきますぞ。大郷のような小物は、その先触れに過ぎぬ」
「……分かっています。だから、道を作るんです。逃げやすくするために」
「くくく。逃げるための道を舗装するとは。これほど贅沢な臆病者は、後にも先にもお主一人でしょうな」
館に戻ると、幸若が庭で家臣相手に木刀を振るっていた。
「三郎! どこへ行っていた! また柳斎先生と港で遊んでいたのか。情けない。そんなことでは、京へ戻っても将軍家の末席すら汚れぬぞ!」
三郎は、泥のついた草鞋を脱ぎながら、兄の眩しいばかりの正義感を見つめた。
(兄上。その『京』へ続く道を作るのは、あなたの蔑む泥遊びなんだよ)
夜、三郎は自室の床下に潜り込み、藍商からサンプルとして受け取った物質を検分していた。
冬の間に、地盤を固める。それは同時に、阿波という土地を、三郎というエンジニアの「指先」一つで制御できる回路に変えることでもあった。
その頃、阿波の政庁――。
三好孫次郎は、平島館から届いた「大郷敗退」の報告書を、燭台の火で燃やしていた。
「……足利三郎。四歳の土鼠か。面白い。三好の家を支える『礎』となるか、あるいは――」
冬の風が、平島館の門をガタガタと揺らした。
三郎の望まぬ「名声」が、冷たい雪のように、静かに降り積もり始めていた。