軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三話:餓えの足音

天文三年 長月 / 西暦一五三四年 九月

阿波の空が、不気味なほど鮮やかな茜色に染まっていた。

この時期特有の、肌にまとわりつく湿気と耳鳴りのような虫の音。前世で何度も経験した「大型台風」の襲来を、三郎の皮膚感覚が捉えていた。

(来る。それも、この館を呑み込むような奴だ)

平島館は、足利の権威を示す立派な門構えこそ備えているが、実態は湿地に浮かぶ「平城」に過ぎない。ひとたび吉野川の支流が氾濫すれば、ここは孤立した島となり、その後には「飢え」という名の刺客がやってくる。

戦国時代において、自然災害は合戦以上の死者をもたらす。ましてや今の足利家には、領民を救う余力も、籠城を支える備蓄も心許なかった。

「三郎! またそのようなところで何を。父上が軍略の評定を行う。お前も末席に座れと仰せだ」

兄の幸若が、正装である直垂を揺らしながら現れた。八歳の彼の顔には、京への復帰を夢見る者特有の、根拠のない高揚感が漂っている。

「……評定、でございますか」

館の大広間。父・義維を囲み、三好家の重臣や地元の国人たちが顔を揃えていた。

議題は「都の細川の動静」と「兵糧の徴収」について。三郎は部屋の隅で、子供らしく退屈そうに振る舞いながら、彼らの会話から情報を吸い上げた。

「――此度の台風で収穫が減れば、来年の軍資金が足りませぬ。多少強引にでも、農民から籾を吐き出させるべきかと」

一人の家臣が進言する。義維は深く頷いた。

「致し方あるまい。足利再興のためだ。民もそれくらいの犠牲は承知の上であろう」

(……死ぬな。この人たち、全員死ぬぞ)

三郎は心の中で冷徹に断じた。

ただでさえ災害で家を失う民から食糧を奪えば、待っているのは暴動か、全滅だ。労働力が失われればインフラは維持できず、次の大雨で館の土台ごと流される。

生存戦略において、周辺住民の死は自分の死に直結する。

評定が終わり、家臣たちが去った後、三郎は一人残っていた師・柳斎の元へ歩み寄った。

「柳斎先生。……この館の『蔵』、土台が腐っています」

柳斎は面白そうに片目を開けた。

「ほう。大殿が軍略の話をされている間に、若君は床下の腐食を見つけておいででしたか」

「今のままでは、水が来れば備蓄は全て台無しになります。それに……徴収したばかりの籾を食うのは、賢い選択ではありません。あれは『種』です」

三郎は、前世のエンジニアとしての知識を絞り出した。食糧難を乗り切るには、単なる備蓄では足りない。加工と保存、そして「代替食」の確保が必要だ。

「柳斎先生。俺に、館の『修繕』を任せてくれるよう、父上に口を利いてくれませんか。兄上の稽古の邪魔にならない範囲で構いません」

「四歳の若君が、大工の真似事を、と。……大殿は何と仰るかな」

「『 土鼠(もぐら) の遊びだ』と笑うはずです。だから、許される」

柳斎は低く笑い、三郎の頭を無造作に撫でた。

「よろしい。その代わり、拙者の『試練』も並行して行いますぞ。泥にまみれ、石を運び、さらに知恵を絞っていただく」

数日後。柳斎の言葉通り、義維は三郎に「館の隅での工作」を許した。「三郎は武士の器ではない。せめて土木にでも通じておれば、将来、幸若を助けるくらいには役立つだろう」というのが父の冷めた評価だった。

三郎は動き出した。

まず着手したのは、館の床下の「かさ上げ」と、通気口の改良だ。阿波青石を薄く重ね、湿気が上がらないように石垣を組み直す。四歳の体力では石一つ運ぶのも重労働だが、三郎には「滑車」と「梃子」の知識があった。

(……阿波の藍、その搾りかすには防虫・防腐の効果がある)

近隣の藍商から廃棄される「藍の滓」を安く買い叩き、それを蔵の木材に塗り込む。さらに、前世で学んだ技術を応用し、館の地下に隠し煙道を引いた。囲炉裏の煙を地下に回し、常に木材を乾燥させつつ、害虫を追い出す。

「……若君。それは何ですかな?」

柳斎が指差したのは、三郎が庭の隅に植え始めた、見慣れぬ植物だった。

「これは『芋』……に似た、蔓性の野草です。先生、阿波の砂地なら、米が取れなくてもこれは育ちます」

三郎は山野から飢饉に強い自生種を収集し、独自の肥料で栽培を試みていた。土木とは、ただ石を積むことではない。その土地の生態系を管理し、人の生存圏を確定させることだ。

そして、九月半ば。予感は的中した。

空がどす黒く変り、風が山々をなぎ倒すような咆哮を上げ始めた。吉野川の支流が逆流し、平島館の周囲は瞬く間に泥海へと化した。

「水が来たぞ! 蔵を守れ! 籾を上へ運べ!」

館の中はパニックに陥った。幸若が必死に家臣を怒鳴り散らすが、浸水する床下を見て全員が絶望する。だが、三郎が「泥遊び」と称して作り変えた蔵だけは、違った。

三郎が仕組んだ「自動排水溝」が機能し、押し寄せる泥水を館の外へと逃がしていく。かさ上げされた石垣のおかげで、籾は一粒も濡れることはなかった。

嵐が去った翌朝。周囲の国人たちの蔵が全滅し、領民が餓死を覚悟する中、平島館だけが忽然と、豊かな食糧を保持したまま泥海の中に立っていた。

「……何故だ。何故、我が館だけが救われたのだ」

義維が呆然と立ち尽くす横で、柳斎は泥だらけで眠りこける四歳の愛弟子を見つめていた。三郎の小さな手は、石運びのせいで血が滲み、爪は剥がれかけている。

「……大殿。これは地の神の加護ではございませぬ」

柳斎の声が、静かに響く。

「この四歳の童が、死にたくないと足掻いた結果……この館が、死を拒絶したのです」

この一件で、三郎を「ただの臆病者」と見ていた家臣たちの間に、微かな違和感が生まれ始めた。そして三郎自身、望まぬ形で知ることになる。

「食糧を持っている」ということが、戦国においては「最強の武器」であり、同時に「最大の標的」になるということを。