作品タイトル不明
第二話:蛇の道は蛇
天文三年 葉月 / 西暦一五三四年 八月
阿波の夏は、粘りつくような熱気に支配されていた。
平島館を囲む湿地からは、絶え間なく虫の羽音が聞こえ、勝浦川の川面からは、むせ返るような水の匂いが立ち上っている。
数えで四歳になった足利三郎――維直は、館の奥にある冷暗な納屋で、ひとり「計算」に没頭していた。手元にあるのは、小石で傷をつけた古い板切れだ。
前月、館を襲った刺客を葬り去った一件は、父・義維の目には「偶然の暴発」と映った。八歳の兄・幸若に至っては「臆病な三郎が穴を掘っていたら、勝手に賊が自滅した」と公言して憚らない。
三郎にとっては、それこそが望む展開だった。目立てば、それだけ死が近づく。戦国の世で四歳の幼子が生き延びるには、「無能」の皮を被るのが最善の策なのだ。
(……だが、あの化け物だけは別だ)
三郎が背後に気配を感じた瞬間、冷たい風が納屋を吹き抜けた。
「若君、そのような暗がりで算木も持たず、何を数えておいでかな?」
枯れ木のような、しかし底知れぬ威圧感を持った声。賀茂柳斎である。この老人は、三郎の「泥遊び」が、現代工学に基づいた精密な防衛装置であることを、その本能で見抜いていた。
「……明日の雨を、数えておりました。柳斎先生」
三郎は幼子らしい舌足らずな口調を装いながら、板切れを隠した。柳斎はくすりと笑い、三郎の首根っこを、子猫を扱うように掴み上げた。
「明日の雨など、空を見れば分かることです。それより若君、今日は山へ参りますぞ。大殿からは『足腰を鍛えよ』との命を預かっておりますが、拙者の教えは、別のところにございます」
三郎の抵抗も虚しく、彼は柳斎の背負子に乗せられ、館を後にした。
向かった先は、平島館から数里離れた山中、阿波特有の険しい断崖が続く一帯だった。
山道は険しく、露出した岩肌が青白く光っている。三郎は前世の知識を総動員して、その岩を観察した。
(……結晶片岩、それも緑泥片岩か。阿波の青石だな)
徳島の各地で見られるこの「青石」は、板状に割れやすい剥離性を持っている。加工しやすく、それでいて耐久性が高い。
「さて、若君。ここが今日からの道場にございます」
柳斎が三郎を下ろしたのは、足元も覚束ない急斜面だった。眼下には激流が逆巻き、少しでも足を滑らせれば四歳の体など粉々に砕け散るだろう。
「柳斎先生……ここを登れと仰るのですか? この体では、一歩も動けませぬ」
「登るのではありませぬ。若君。ここを、お主にとっての『絶対に捕まらぬ逃げ道』に変えていただく」
柳斎は傍らに置かれた石割用のノミと玄能を三郎に差し出した。
「お主は昨夜、刺客を泥に沈めた。だが、次の刺客は足元を見て参りましょう。平地が塞がれたとき、お主はこの断崖を、平地よりも速く駆け抜けねばならぬ。……四歳の歩幅で、大人を殺しながら、な」
三郎は絶望に眩暈を覚えた。だが、柳斎の瞳は「できないなら死ね」と冷酷に告げている。
三郎は泥だらけの手でノミを掴んだ。前世、樫山三郎として土木工事を指揮していた記憶が、物理の法則を弾き出す。
(青石の剥離性を利用する。剥離面に沿ってノミを入れれば、四歳の力でも石は板状に割れる。問題は、その配置だ)
三郎は、急斜面の露頭を「インフラ」として捉え始めた。
三郎が考えたのは、単なる石段ではなく、特定の荷重がかかると崩落する「変動荷重式トラップ」だった。
(静止摩擦係数の計算だ。体重十五キロ程度の俺なら、この傾斜でも滑らない。だが、六十キロを超える大人が乗れば――重力加速度による剪断力が摩擦限界を超え、石板ごと滑落する)
三郎は小さな体で、必死に石を運び、ノミを振るった。
八月の猛暑が体力を奪う。後ろに立つ柳斎の静かな視線が、死神の鎌のように背筋を撫でる。
「……面白い。若君、その石の置き方、まるでお主だけが通れる『透明な橋』を作っているようですな」
柳斎は驚嘆を隠さなかった。通常、兵法における落とし穴や罠は、相手を「嵌める」ことのみを目的とする。しかし、三郎の作っているものは違う。自分にとっては完璧な「道」であり、敵にとっては「死の淵」となる、極めて高度な境界線だった。
三郎は手を血に染めながら、岩の隙間に青石を差し込んでいく。
(俺を死なせないための『盾』を、この青石で作ってやる!)
作業開始から数時間が経過した頃、空の色が不吉な鼠色に変わった。
阿波の夏特有の、激しい夕立――「 夕御飯(ゆふごはん) 」の兆しだ。
「若君、雨が参りますぞ。お主の作った『道』が、本物かどうか。天が試しに来るようです」
柳斎の言葉が終わるか終わらないかのうちに、滝のような雨が山を叩き始めた。
「さあ、若君! 拙者が今からお主を殺しに参ります。その『逃げ道』を使い、麓まで逃げおおせてごらんじろ!」
柳斎が、木刀を抜いて地を蹴った。
三郎は翻身し、自ら作った断崖の「石段」に飛び乗った。
「くっ……!」
小さな足が濡れた石を掴む。三郎は自分の体重移動を完璧に制御した。自分が置いた石の下に、どれだけの荷重で崩れる仕掛けがあるか、すべて脳内に青写真がある。
三郎は、崖を「滑る」ように降りていく。
追う柳斎は、その巨体にも関わらず、猿のような速さで三郎に肉薄する。
「若君、遅い!」
柳斎の足が、三郎が仕掛けた「三枚目の石板」を踏み抜いた。
バキッ、という音と共に、青石が剥がれ落ちる。
柳斎の体が、一瞬、宙に浮いた。
「ほう……!」
柳斎は空中で身を翻し、崖に生えた木の根を掴んで墜落を免れた。しかし、その顔には戦慄と歓喜が混じり合っていた。
麓に辿り着いたとき、三郎は泥と雨水にまみれ、その場で嘔吐した。
四歳の肉体はとうに限界を超えている。
「おえっ……げほっ、はあ、はあ……」
柳斎が、静かに崖を降りてきた。その衣服は一箇所も汚れず、ただ一点、三郎の罠で空いた石段の穴を、愛おしそうに見上げている。
「若君。お主がやっているのは、この土地の理を書き換える、神仏の御技に近い」
柳斎は跪き、三郎の泥だらけの顔を自らの袖で拭った。
「大殿や幸若君は、剣の長さや兵の数で勝とうとされる。だが若君は、この地の石ひとつ、雨の一滴すらも『兵』として操っておられる。これこそが、真の軍略でございます」
三郎は震える声で答えた。
「……俺は、ただ、死にたくないだけだ。天下なんて、いらないんだ……」
「ええ、分かっておりますとも、若君」
柳斎は不敵に笑った。
「ですが、皮肉なものですな。お主が『死にたくない』と願えば願うほど、この阿波の土地はお主の要塞となる。そのとき、人はそれを『天下の守り』と呼ぶのでございますよ」
翌日、平島館に帰還した三郎は、父・義維に「山で遊んで転びました」と嘘をつき、兄・幸若からは「相変わらず情けない奴だ。阿波の 土鼠(もぐら) め」と蔑まれた。
だが、三郎の懐には、柳斎から与えられた本物の「阿波青石」の小さな欠片が握られていた。
生き延びるために。三郎は、誰にも知られぬよう、館のさらなる深部への「改変」を脳内で描き始めていた。