作品タイトル不明
第十五話:四国の震動
天文四年 長月 / 西暦一五三五年 九月
撫養(むや) の港に秋の気配が混じり始めた頃、阿波を囲む情勢は急速に熱を帯び始めていた。
三郎が造り上げた「不落の砦」と「富を生む港」の噂は、海を越え、山を越え、四国全土の大名たちの耳に届いていた。それは単なる新技術の登場ではなく、戦の均衡を根本から破壊する「脅威」として受け取られたのである。
「若君、 勝瑞(しょうずい) より孫次郎殿が急ぎお越しですぞ」
柳斎の声に顔を上げると、砂浜を十数騎の騎馬武者が砂を蹴立てて駆けてくるのが見えた。先頭を行くのは、表情を氷のように硬くした三好孫次郎である。
孫次郎は馬を降りるなり、最上座に座る三郎に対し、形式上の礼を済ませて切り出した。
「三郎殿、事態は急を要します。土佐の長宗我部、そして伊予の西園寺や河野らが、密かに書状を交わしたとの報が入りました。名目は『足利の血筋を不当に囲い込む三好を討つ』。……本音は、お主の首か、さもなくばその知恵を奪い取ることにある」
三郎は、手に持っていた測量用の竹尺を静かに置いた。
(予想はしていたが、早すぎる。俺はまだ四歳だぞ。歴史の歯車が、俺の『泥』のせいで滑り始めている……)
「……孫次郎、彼らは具体的にどう動くつもりだ?」
「土佐の兵が阿波南部の国境を突き、伊予の勢力が海路からこの撫養を襲う構えです。お主がこの港に『塩の利権』を築いたことが、彼らの飢えた胃袋を刺激しすぎた。……若君、もはやこの港を『守る』だけでは足りませぬ。攻め寄せる者たちが、阿波の地を踏むことを絶望するほどの絶望を与えねばなりません」
孫次郎の瞳には、かつてない暗い輝きがあった。彼は三郎を「守るべき貴種」としてではなく、この難局を打開する「最終兵器」として見つめている。
「……分かりました。孫次郎、三好の工兵を三千人出してください。それと、阿波中の『 藍(あい) 』の搾りかすと、大量の硫黄を」
三郎が提示したのは、新たな土木工事の図面ではなかった。それは、港を取り囲む「地形そのものを罠に変える」防衛計画だった。
「藍の搾りかすだと? そんなもので何をする」
「藍の汁には防腐の効果がある。だが、特定の比率で発酵させ、硫黄と混ぜて地中に埋めれば……それは触れるだけで皮膚を焼く『毒の沼』になります。さらに、私が設計する堤防の『水門』を逆流させれば、港に入ろうとする敵船は、潮の速さに翻弄され、自ら岩礁へ激突することになる」
三郎の声には、一切の躊躇がなかった。
前世で学んだ化学知識と、流体工学。それを「人を殺すため」に転用することへの罪悪感は、すでに「生き延びる」という本能に塗りつぶされていた。
「弾正(松永久秀)に伝えてください。港の入り口に、わざと『隙』を作っておけと。そこが、彼らにとっての墓場になります」
その夜、三郎は一人、完成間近の導流堤の上に立っていた。
月光に照らされた海は静かだが、その下には三郎が仕掛けた「死の構造物」が口を開けて待っている。
「……若君、恐ろしい顔をなさっておいでですな」
背後から柳斎が静かに語りかけた。
「先生……俺は、畳の上で死にたいんだ。でも、そのためには、この島中の人間を敵に回さなきゃいけないのか?」
「それは、『王』の歩む道にございます。足利の血を選んだのではなく、あなたの知恵が、あなたを王に仕立て上げているのです」
三郎は自分の小さな、しかし石灰で白く荒れた手を見つめた。
この手が次に造るのは、平和な街ではない。四国中の野心を飲み込み、沈めるための「底なし沼」だ。
数日後、土佐と伊予の連合軍、総勢五千が阿波の国境を越えたとの報が届く。
四歳の「泥公方」が仕掛けた、史上類を見ない「土木戦」の幕が上がろうとしていた。