軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十四話:塩の道、血の導線

天文四年 葉月 / 西暦一五三五年 八月

真夏の太陽が、阿波の 撫養(むや) の海を白く焼き付けていた。

三郎の提言した「入浜式塩田」と「物流加工港」の建設計画は、弾正の凄まじい手際によって、驚くべき速度で具体化されつつあった。三郎の目の前では、数百人の人夫たちが、彼が設計した「石の堤防」の傍らで、広大な砂地を区画整理している。

三郎は、柳斎が差し出す日傘の下で、四歳の短い手足を動かして図面を広げた。その図面には、潮の満ち引きを利用して効率よく海水を循環させる、当時としては革命的な「自動給排水システム」が記されている。

「……若君。この設計、何度見ても恐ろしくなりますな」

傍らに立つ松永弾正が、感嘆とも、あるいは得体の知れないものを見る目ともつかぬ視線を三郎に投げかけた。家格の上では、三郎が絶対的な上位者である。弾正はそれを決して忘れず、膝をついて言葉を続ける。

「ただ潮を引いて塩を作るのではない。お主は、この堤防の『水門』の開閉だけで、塩田の濃度を調整しようとしている。これでは、これまでの塩職人たちの長年の勘が、お主の書いた数枚の紙切れに負けてしまう」

「弾正。勘というものは、尊いものだが不安定だ。飢饉が来ても、戦が起きても、塩は人が生きるために欠かせない。ならば、誰が作っても同じ質、同じ量の塩が手に入る仕組みが必要なんだ」

三郎は、四歳の幼い声で淡々と答えた。その言葉の裏には、前世のエンジニアとして「インフラは万人のためにあるべきだ」という信念があった。しかし、この戦国時代において、その「安定した供給」こそが、最強の 軍資金(マネー) を生むことを彼は痛いほど理解していた。

「三好殿(孫次郎)は喜ぶだろう。この塩田が完成すれば、阿波の塩は堺の市場を席巻する。三好の船は、行きは塩を運び、帰りは京の最新の武器と火薬を積んで帰ってくる。……若君、お主は意図せずとも、三好の牙をさらに鋭く研ぎ澄ませているのだぞ」

弾正の指摘に、三郎は胸の奥がチリりと焼けるような感覚を覚えた。生存のためにインフラを整えれば整えるほど、三好家は「天下」という魔物に取り憑かれていく。そして、その魔物が暴れれば、三郎が望む「畳の上での大往生」はさらに遠のくのだ。

その時、工事現場の端で騒ぎが起きた。

「何事だ!」と弾正が立ち上がる。砂煙の向こうから現れたのは、馬を荒々しく駆る兄・幸若と、彼に同調する地元の国人衆、 木津(きづ) 一族の男たちだった。

「三郎! 貴様の勝手な真似もここまでだ!」

幸若は馬から飛び降りるなり、三郎の前に立ちはだかった。その瞳は、夏の暑さとは別の、どろりとした憎悪に濁っている。

「この撫養は、古くから我ら足利に忠誠を誓う国人たちが守ってきた土地だ。そこを三好の商人に明け渡し、得体の知れない泥の壁を築くとは……。父上もお嘆きだぞ! 貴様は足利の血を、商人共に売り払ったのだ!」

幸若の背後で、木津の一族が槍を突き出して三郎を威圧する。彼らは三郎がもたらす「新しい利権」よりも、自分たちがこれまで握ってきた「古く不透明な利権」が奪われることを恐れていた。地盤改良と同じだ。古い土を入れ替えようとすれば、必ず既存の層が反発する。

「兄上。私は、足利の血を売ったのではありません。足利がこの地で永く安泰であるために、飢えない仕組みを作っているのです」

三郎は、震える脚を必死に抑えて幸若を見据えた。四歳の肉体にとって、八歳の兄と武装した大人たちの圧力は、物理的な重圧となってのしかかる。

「黙れ! 詭弁を弄するな! この堤防、今日中に取り壊してやる! 者共、かかれッ!」

幸若の叫びに応じ、国人衆が槌を手に取った。三郎が心血を注ぎ、三好の工兵たちが心血を注いだ堤防に、亀裂を入れようとする。

「柳斎先生!」

三郎が叫ぶより早く、柳斎が動いた。だが、その一歩前を、弾正が制した。

「……幸若殿。お控えなされ。ここは三好の領内、そしてこの工事は三好殿の直命にございます」

弾正が腰の刀に手をかける。その瞬間、空気が一変した。

それまで「観察者」だった弾正が、一瞬にして「捕食者」の顔になったのだ。

「三好の直命だと? 笑わせるな! 三好は足利の犬ではないか! その犬が、 主(あるじ) の息子に牙を剥くというのか!」

幸若の言葉に、周囲の三好軍の兵士たちの空気が険しくなる。

三郎は、ここで弾正が幸若を斬れば、足利と三好の破滅的な激突が始まってしまうと直感した。それは三郎が最も避けたいシナリオだ。

「兄上、待ってください! ……木津の皆様も。この堤防を壊すのは簡単です。でも、壊す前に、一つだけ『実験』に付き合っていただけませんか?」

三郎は、泥だらけの小さな手で、堤防の根元にある「特定の石」を指差した。

「そこに、少しだけ隙間があります。そこを槌で叩いてみてください。もし、あなたが言う通り、この堤防が足利の敵なら、私は今すぐここを去ります」

幸若は鼻で笑い、側近の男に槌を持たせた。男は三郎が指差した一点を、渾身の力で叩きつける。

――ガツンッ!

凄まじい衝撃音が響いたが、堤防は微動だにしない。それどころか、叩いた衝撃が槌を通して男の腕に跳ね返り、男は悲鳴を上げてその場に蹲った。

「な、なんだこれは……石を叩いているはずなのに、まるで鉄を叩いているような……」

「兄上。これは、私が混ぜ合わせた『固まる泥』が、中の砂利と一体になって、お互いを支え合っているからです。……この壁は、外からの力にはびくともしません。でも、内側にある『ある石』を優しく抜くだけで、嘘のように潮の流れが変わるように設計されています」

三郎は、静かに幸若を見上げた。

「この港は、三好のためだけにあるのではありません。ここに集まる富は、足利という大きな木を支える水になる。兄上がこれを壊すということは、自分たちが座っている椅子の脚を折るのと同じことなんです」

幸若は、三郎の落ち着き払った態度に、言いようのない屈辱を感じていた。

八歳の自分が理解できない「理」を、四歳の弟が当然のように操っている。その絶望的な差が、怒りを通り越して、彼を沈黙させた。

「……覚えておけ、三郎。お前がその理屈で人を操れるのは、今だけだ」

幸若は捨て台詞を吐くと、再び馬に飛び乗り、砂埃を上げて去っていった。

国人衆も、気圧されたようにその後を追う。

静寂が戻った砂浜で、弾正がふっと息を吐いた。

「お見事です、若君。……ですが、あの方の目。あれは、説得で消える火ではありませんな。いつか、お主を丸焼きにする炎になる」

「……分かっています。だからこそ、早く『燃えない国』を造らないといけないんです」

三郎は、幸若が去った方向をじっと見つめた。

兄弟の絆という脆弱な土壌は、すでに修復不可能なほど崩落していた。三郎に残された道は、情に縋ることではなく、圧倒的な「現実」という構造物で、自らを守り抜くことしかなかった。

その夜、撫養の港に一隻の早船が到着した。

船から降りてきたのは、土佐の国境を預かる三好の将からの急使だった。

「報告いたします! 土佐の長宗我部、そして伊予の河野家が、足利の若君の『異能』を案じ、不穏な動きを見せております!」

阿波一国に留まっていた三郎の技術革新が、ついに四国全土の戦国大名たちを動かし始めた。

生存のための「泥遊び」は、ついに四国を揺るがす大動乱の引き金になろうとしていた。