作品タイトル不明
第十話:港湾の計略
天文四年 卯月 / 西暦一五三五年 四月
阿波の春は、潮の匂いと共にやってきた。
三郎に提示された次なる課題は、阿波の物流の心臓部「 撫養(むや) 」の港の改修であった。ここは堺や京へと繋がる利権の塊であり、三好の機動力を支える重要拠点である。
「若君、ここが撫養にございます。三好家の水軍もここを拠点としておりますが、土砂の堆積が激しく、大船の接岸が叶わぬのが悩みでしてな」
柳斎が指差す先には、遠浅の海と、不自然に曲がりくねった河口があった。
三郎は四歳の体で砂浜にしゃがみ込み、波打ち際の砂を掬い上げた。
(沿岸流による漂砂だ。これじゃ、いくら浚渫してもすぐに埋まる。地形そのものを変えて、水の流れで『自動洗浄』させるしかない)
三郎は、前世で学んだ港湾工学の知識を総動員し、 導流堤(どうりゅうてい) の建設を構想した。だが、この巨大工事には現場を仕切る「目」が必要だった。
「……若君。背後に、招かれざる客が来ておりますぞ」
柳斎の警告と同時に、波打ち際を馬で駆けてくる一団があった。
先頭に立つのは、父・義維から三郎の「監督役」を命じられた兄・幸若だった。先日の刃傷沙汰の後、父は「兄弟で競い合え」と、執拗に幸若を現場に送り込んでくる。
「三郎! 三好の者たちが、お前の奇妙な『泥遊び』で港が使えなくなるのを恐れているぞ。今日からは、足利の嫡男である私が直接指揮を執る。お前は後ろで見ていろ!」
幸若は馬から飛び降りると、三郎が測量のために立てていた竹竿を蹴り倒した。その瞳には、弟に手柄を奪われ続ける焦燥感がある。家格の上では対等な兄弟だが、嫡男としてのプライドが彼を突き動かしていた。
「……分かりました、兄上。では、私は端の方で砂遊びをしております」
三郎はあえて弱々しく頭を下げ、一歩下がった。
その夜、三郎は一人、柳斎と共に港の地図を見つめていた。
「若君。放置すれば、幸若君は適当な場所に石を投げ入れ、港を完全に潰すでしょうな」
「分かっています。だから……『嘘』を教えます」
三郎は、あえて幸若が盗み見そうな場所に、一つの図面を置き忘れた。
それは、港の「最も潮が溜まる場所」を「最高の建設地」として記した、偽の設計図だった。
「もし、兄上が私を追い落としたいなら、この図面を見て『私の案とは違う場所』に堤防を築こうとするはず。そこが、私が本当に狙っている導流堤の正解の場所です」
三郎は、自分を信じない兄の性格さえも、土木の一部として組み込んだ。
数日後、幸若は三郎の図面を鼻で笑い、三郎が記したのとは全く逆の場所に、三好から預かった「固まる泥」を投入し始めた。
「見ろ、三郎! お前の計算違いだ! 足利の嫡男たる私が選んだこの場所こそが、龍神の道だ!」
幸若が勝ち誇ったように叫ぶ。
三郎は、困ったような顔を演じながら、内心で深く安堵した。
(よし。そこが、流体力学的に最も『砂を押し流す』ポイントだ。ありがとう、兄さん。あなたの『悪意』が、この港を救う一番の動力だよ)
四歳の少年の計算通り、撫養の港は劇的にその姿を変え始める。
自らを陥れようとする兄の悪意すら利用する三郎のやり方は、もはや聖童のそれではなく、冷徹な統治者のそれであった。
だが、その様子を遠目からじっと観察していた男がもう一人いた。
三好孫次郎の傍らに控える、若き日の松永弾正久秀である。