作品タイトル不明
第九話:綻ぶ兄弟
天文四年 弥生 / 西暦一五三五年 三月
「断崖の砦」の完成は、阿波の軍事バランスを劇的に変えた。三郎が持ち込んだ「固まる泥(水硬性石灰)」と排水理論は、それまでの「積むだけ」の築城術を根底から覆し、難攻不落の要塞を実現させたのである。
だが、その輝かしい功績は、平島館の均衡を決定的に破壊した。
「三郎。三好の孫次郎が、お前のために新たな領地と、千名の工兵を差し出すと言ってきている」
父・ 左馬頭(さまのかみ) 義維は、満面の笑みで告げた。その瞳には、次男を政治の道具として使い倒そうとする冷徹な野心が宿っている。
「……父上。私はまだ四歳にございます。領地など、とても」
「黙れ。これは足利の再興に必要なことだ。三好はあくまで我らの 足役(あしやく) 。その家臣どもを自由に使わせるというのだ、骨の髄まで役立ててみせよ」
三郎は伏せたままで唇を噛んだ。
三好孫次郎という実力者にその才を認められた結果、三郎はもはや「目立たない幼子」に戻ることはできない。彼は今や、阿波で最も価値のある「戦略資源」そのものだった。
評定の間を出た三郎を待っていたのは、暗い廊下の影に立つ兄・幸若だった。
「三郎。……お前、何者だ」
幸若の声は、低く、湿っていた。かつての傲慢な響きはなく、そこにあるのは剥き出しの恐怖と憎悪だ。
「兄上、私はただの三郎です。泥を捏ねて、石を運んでいるだけの……」
「嘘をつけ! 四歳の童が、あの孫次郎を黙らせ、一月で山を岩に変えるなど、あり得るはずがない! 貴様、何かの物の怪が取り憑いているのではないか!?」
幸若が腰の刀を、わずかに引き抜いた。鞘からこぼれた鋭い金属音が、静まり返った廊下に響く。
「……私が必死に剣を振り、学問に励んでも、父上は私を見ようとしない。だがお前が泥を弄れば、誰もがお前を称える! 卑怯だ、三郎。お前は足利の血を、その汚れた手で泥塗れにしているのだ!」
「兄上、落ち着いてください……!」
三郎は一歩退いたが、その脳内は冷静に事態を分析していた。
(まずいな。幸若兄さんは、プライドという名の脆い地盤の上に立っている。俺という『異物』が現れたせいで、その地盤が液状化を起こしているんだ)
「……兄上。私は、天下も領地もいりません。ただ、静かに暮らしたいだけなんです」
「ならば死ね! 死んで、ただの土に帰れッ!」
幸若が刀を抜き放った。
八歳の少年の腕力とはいえ、本物の打刀だ。三郎の四歳の肉体など、一振りで真っ二つになる。
だが、その刃が三郎に届く直前。
闇の中から伸びた一筋の「竹杖」が、刀の平を鋭く叩いた。
「――そこまでになさいませ、幸若君」
現れたのは、柳斎だった。
彼は三郎を背負うように立ち、冷徹な瞳で幸若を射抜いた。
「兄弟喧嘩にしては、いささか刃が長すぎますな。これ以上は、拙者がお相手いたしますぞ」
「……柳斎。貴様まで、この 泥鼠(どろねずみ) の味方をするのか」
幸若は激しく震えながら、刀を鞘に収めた。
「覚えておけ、三郎。お前のその奇妙な技が、いつかお前自身を滅ぼす。……私は、お前を認めない。絶対にだ」
幸若が去った後、三郎はその場にへたり込んだ。四歳の肉体が、過度の緊張で激しく痙攣している。
「……先生。俺は、ただ生き延びたかっただけなのに」
「若君。強すぎる光は、影を濃くします。お主の知恵は、この乱世を照らす光であり、同時に身内を焼き尽くす炎なのです」
柳斎は三郎の泥だらけの手を取り、静かに諭した。
「三好殿は、次にお主に『阿波の港』の改修を求めるでしょう。そこは利権の塊。幸若君だけでなく、さらに多くの欲深い者たちが、若君を殺しに来ます」
三郎は、滲んできた涙を、石灰で荒れた手の甲で拭った。
(……分かっている。なら、やることは一つだ。俺を殺しに来る奴らが、一歩も近づけないような『完璧な結界』を、この土地そのもので作ってやる)
三郎の胸の内で、静かな決意が黒く燃え上がった。生存への執念が、彼をさらなる土木の極致――「都市計画」へと突き動かしていく。