軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

37.エピローグ

途中まで書き上げた報告書をくしゃりと握りつぶし、ルーカスは溜息をついた。

反故にした紙は、これで十を超える。

彼は艶やかな髪に手を差入れ、くしゃくしゃとそれを搔き乱した。

もとより机に向かう仕事は、苦手とは言わないが、好きではない。

(そのうえ、義兄上に付け入る隙を与えぬよう、内容を整えるとなると……)

エルマの扱いに関し、フェリクスとじかに対話をしようと決めたのはルーカスだ。

だが、それ即ち、丸腰でぶつかっていくという意味ではない。

相手が興味を持ちそうな情報とそうでないものを峻別し、有益な情報を切り札として隠しながら、こちらが話し合いの主導権を握れるようでなくてはならないのだ。

そのためには、ルーカスたち一行が帰国するより、一足早く届けられるこの報告書は、細心の注意を払って書き上げねばならない。

ルーカスは短く溜息を吐き出すと、再び羽根ペンをインク壺に突っ込んだ。

と、そのとき、

「失礼いたします」

淡々とした声とともに、行き届いたノックの音が響いた。

エルマである。

彼女は、ルーカスが入室を許可すると、しげしげと部屋を見回しながら銀のワゴンを引き入れた。

どうやら、茶の用意をしてくれるらしい。

「殿下が眼鏡を外した途端、宛がわれる部屋も随分とアップグレードしましたね」

「厳密には、部屋のグレードに影響したのは眼鏡の有無というより、ルーデン王弟の身分の有無だがな」

ルーカスは、ほのかな紅茶の香りをかぎ取って、ペンを持った手を休める。

脳が休息を欲していた。

セルモンティ山付近の地下聖堂で、エルマが地殻変動を起こしながらチェルソの陰謀を阻止して、半日。

行きがかり上、己の正体を明らかにせざるを得なかったルーカスは、それまでの用務員用の詰め所から一転、貴人用の居室を宛がわれ、そこで諸々の事後処理に追われていた。

ルーデン側の全権委任者として、チェルソの扱いや聖鼎杯の運営について協議したり、アウレリアの謝罪を引き出したり。

他方では、エルマが破壊した諸々の修復作業について差配したり――驚くべきことに、エルマがあと三日ほどこの地に留まり、土地と全建築物の修繕を手伝うということで片付いてしまった――と、大忙しだ。

そうして、夜もとっぷり更けた今になって、今度は義兄フェリクスに向けた報告書の作成に頭を悩ませているというわけである。

どさりと椅子に背を預け、目頭を揉むルーカスに、エルマは遠慮がちに声を掛けた。

「あの……。もし執筆がはかどらないとのことでしたら、クロエ様のお母君にアドバイスを頂戴してまいりましょうか? 先ほどクロエ様に教えていただいたのですが、なんでもお母君は、長らく文筆業の内職をされてきたとのことで」

「文筆業?」

「はい。視力を半ば失いながらも、思わず諳んじたくなるほどの印象的な文章、そして目を閉じていても光景が見えるようなドラマチックな展開を特徴とした作品の執筆を続けてきたのだそうです」

「……どこかで聞いた触れ込みだな」

頭の使い過ぎで、思考がぼんやりとする。

ルーカスは、エルマの遠慮がちな申し出を聞き流しながら、ひらりと片手を振った。

「気持ちはありがたいが、報告書の作成に他者の協力は不要だ。おまえの代筆も含めて必要ない。その、ティーポットの後ろに隠し持ったインク壺は、だから仕舞っておいてくれ」

彼はまた、さりげなく部屋に持ち込まれた文具の存在にも気付いていたのだ。

抜かりなく牽制すると、エルマは「はい……」と、しょんぼりと肩を落とした。

「このたびは、私の普通でない救助要請によって、甚大なご迷惑をお掛けし、大変申し訳ございませんでした……」

そう。

彼女は、己が引き起こした事態の後始末にルーカスが忙殺されているのを見て、どうやら「脱出するために地形を変動させるのは普通ではないらしい」と悟ったようなのである。

イレーネとの約束も、「後片付け」が全然済んでいないという理由で、いまだ実行されぬままだ。

「殿下はイレーネとの仲違いのフォローまでしてくださったというのに、私ときたら、ご迷惑をお掛けしてばかりで……」

それでもどうやら、イレーネと「仲直り」できたのは、裏にルーカスの助言があってのことだと知らされたらしい。

小柄な体をさらに縮めるようにして佇むエルマから、ルーカスは苦笑を浮かべてカップを受け取った。

「気にするな。もとより俺に与えられた役回りは、おまえのフォローだったし、そもそも上司などというのは、部下の尻拭いをするためにいるようなものだ」

「…………」

軽く肩をすくめてみせれば、エルマはますます立つ瀬が無さそうに身を縮める。

「殿下のその慈悲深さと寛容さが……むしろ自責の念にとどめを刺すようです……」

あまりに不甲斐なさそうな口調で言うので、ついルーカスは笑いそうになってしまった。

この全方向にぶっ飛んでいて、妙に泰然としている少女が、ここまで恐縮している姿というのも珍しい。

温かな紅茶を含んでいるうちに、全身の血の巡りもよくなってくる。

回復した気力は、ふと彼の悪戯心を刺激した。

「……ただ寛容なわけではない、と言ったら?」

「え?」

エルマが困惑したように顔を上げる。

ルーカスはカップを置いて立ち上がり、そんな彼女へと一歩近付いた。

「おまえもイレーネも、俺を苦労性だなんだと言ってくれるが、べつに俺は、誰彼構わず救いの手を差し伸べたり、奔走しているつもりはない」

また、一歩。

あっという間に、相手の眼鏡のつるに手が届く距離になった。

「あの……」

「買いかぶらないでくれるか? 俺が好きでもない事務作業に没頭し、らしくもなく敵に直接対決しようなどとしているのは――エルマ。おまえのためだからだ」

逃げること、躱すこと。

そういった己の特技を封じ、待ち受ける状況へと愚直にぶつかろうと、ルーカスは決めた。

だとすれば、この少女に対しても、その姿勢を取ってみせるべきだろう。

硬直している相手から眼鏡を取り去り、その夜明け色の瞳が見開かれているのを認めて、ルーカスは満足げに微笑んだ。

「おまえにわかるような言葉で言い直そうか?」

そっと頬に手を伸ばす。

睦言を告げるように、唇を耳に近付ける。

「おまえが落ち込んでいるのを見ると、俺の心室の血流が滞る。利用されようとしているのを見ると、知らず眉間にしわが寄る。……おまえの笑顔を想像すると、脳が活性化するようだ」

彼女は、息を呑むだろうか。

近付いてきているルーカスの胸に腕を突っ張り、押し返そうとするだろうか。

だとしたら、それでいい。

彼女も多少、自分という男に対する警戒心と、緊張感を持つべきだ。

ルーカスは意地悪く唇の端を引き上げ、そっと囁いた。

「わかるか? つまり、俺は――」

「わかります」

が、意外にも力強く請け負われて、ルーカスは思わず硬直してしまった。

「…………は?」

「殿下のお気持ち、このエルマ、しかと受け止めました」

頬に添えた手は、振り払われるどころか、逆にきゅっと上から握りしめられる始末だ。

きらきらと瞳が輝いている。滑らかな頬は上気している。

だが――そこに照れだとか恥じらいだとかの色はない。

こんなにも親密な仕草。

しかし、たった今、異性から好意を告げられようとしているのだと彼女が理解しているようには、まったく見えなかった。

それもそのはず。

「血流を左右し、前頭葉域を活性化させるほどの想い。殿下が、そんなにも深い 友情(・・) を抱いていてくださっていただなんて……これぞ望外の喜び、天にも昇る心地でございます」

「は!?」

彼女はそれを、「友情」として処理していたのだから。

ルーカスは愕然とした。

「いやおまえ……! ちょっと待て、今こそ俺の微表情をよく読んでくれ! さあ!」

「よろしいのですか? ……おお、瞳孔はわずかに開き、脈が速まり、呼吸は浅く。ほほう、明確な肉体的興奮と好意のサインですね。強い好意……おそらくは、私がイレーネに向けるのと勝るとも劣らないほどの、友情。光栄です」

エルマはこれまでないほどにルーカスと距離を詰め、実に素直で無邪気な笑みを浮かべている。

握りしめたルーカスの手に、ぺた、と甘えるように頬を押し付けさえした。

全幅の信頼が置かれている。

友人として。

ルーカスは勢いのまま、エルマの手を振り払った。

「俺はイレーネではない! 同性間の感情をそのまま俺に適用しないでくれるか!?」

「たしかに、殿下と私の間には、性差に身分差、年齢差という、三重苦とも呼べる開きがございます。ですが――」

エルマはなぜかそこで、妙に堂々とした笑みを浮かべ、己の胸を張った。

効果音を添えるなら「どん!」、セリフを添えるなら「俺に任せときな!」のような、頼もしさ溢れる仕草だった。

「殿下との友情を獲得するためならば、このエルマ、それらの障害など粉微塵に吹き飛ばしてみせましょう」

「吹き飛ばさないでくれるか!? 特に性差!」

ルーカスはついエルマの肩を揺さぶりかけた。

相応の速さで繰り出されたはずの手は、しかしひらりと躱されてしまう。

「おっと。ですが、殿下からみだりに触れるのはおやめください。なにぶんまだ障害を乗り越えきれぬ未熟な私ですので、そうされると、時折妙に心拍が速まるのです」

なにげなく加えられた、思いもかけぬその言葉が、ルーカスの動きを止めた。

「…………え?」

言葉の意味を理解するよりも早く、エルマがすちゃっと眼鏡を装着しなおす。

隠されてしまった素顔。

しかし、無粋なガラスに覆われる直前に見えたその瞳は、いつもより潤み、頬は、いつもより上気してはいなかったか――。

「おい……待て――」

ルーカスが伸ばした腕は、再度空を切った。

次の瞬間には、エルマはもう扉に手を掛けているところであった。

「失敗を恐れるなとの殿下の言葉、しかと胸に刻みました。かくなる上は、この心拍上昇障害についても、各所で適切な経験を積み、克服に尽力する所存でございます。今しばし、お時間を」

「おい!?」

やけに張り切った口調で告げると、エルマはするりと部屋を辞してしまう。

後には、中途半端に腰を浮かせたままのルーカスが残された。

「…………」

触れないで。

性差を超えられずに、心拍が、速まるから――?

無意識に、片手で口元を覆う。

「…………おい」

躱しておきながら、期待させ。

期待させながらするりと逃げる。

まったく、なんという少女だと思った。

「なんなんだ、しばし時間をって……俺の好意を踏みにじるための準備期間か? だいたい、各所で適切な経験って――」

適切な経験。

そこまでをようやく反芻した時点で、ルーカスはさぁっと青褪めた。

性差を気にせず済むようになるための、適切な経験とは、なんだ?

「お、おい……!」

彼の懸念を裏付けるように、扉の向こうで、通行人と思しき男性陣の狼狽した声が上がる。

「き……っ、君ぃいいい……っ!?」

「うひゃああああああっ♡」

悲鳴というにはやけに感動や興奮混じりの絶叫を聞き届けるよりも早く、ルーカスはばんっと扉を蹴って飛び出した。

「待て! …………っ、この大ばか者! その悩ましい行動を即座にやめろ!!」

視線の先で繰り広げられている光景を認め、息を呑んだのも一瞬。

夜も更けたアウレリアの一角で、そんな叫びが騒々しく響き渡った――。