作品タイトル不明
第56話・夕飯は天ぷら①
空気はまったりしていた。
遊び終えた後の、汗をかいていないのに達成感だけが残る、あの不思議な倦怠。
有羽は椅子の背にもたれ、アウローラは両手を上に伸ばして「ふぁぁ」と声にならない声を漏らし、レジーナは髪を耳にかけながら微笑んで、ラディウスは「畑の偉大さ」を噛みしめる顔をしている。
――細かい事はさておいて。
間違いなく、楽しい遊戯だった。
だからこそ。
窓の外が、妙に赤いことに気づくのが遅れた。
夕焼けの光に照らされていることを、ようやく実感した。
何気なく伸びをして、ふと外を見る。森の影が長い。枝の隙間から差す光が、暖色というより赤い。
「………ん、んんんんんんん!?」
椅子が、ぎぎ、と鳴った。
有羽が勢いよく立ち上がり、窓辺へ歩いて外を二度見する。三度見する。確認して、現実に叩きのめされる。
(夕方……? 嘘だろ……)
色々と思惑があって、この遊戯を出したのは事実だ。
メトゥスの誠意を測り、レジーナの反応を測り、ついでに自分の中の「取引の線引き」を整える。
――そういう面倒で繊細で、胃が痛くなる作業のために。
だが「夕飯間近の時間帯」まで遊び惚けるのは予定外だった。
ゲームは戦略。ゲームは学び。ゲームは試金石。
そしてゲームは――時間泥棒。
有羽の喉から、焦げたような声が出る。
「侍女の皆さーん! 集合ー!!」
緊急招集だった。
侍女隊が「え?」という顔で一斉に顔を上げる。
護衛も窓の外から覗き込み、何か事件でも起きたかと身構える。
有羽は言葉で説明する余裕を放棄して、窓を指差した。
指先の向こう、森が燃えるような夕焼け色に染まっている。
一瞬、静寂。
そして次の瞬間、室内が爆発した。
「ど、どどどどどどういうことですか有羽様!? 何故、夕方に!? さっきまでお昼だった筈です!!」
「カレーパン、ちょっとつまんだだけですよ私達は!? 空腹と遊戯で時間が溶けたのですか!?」
「有羽様は時間まで操れるのですか!? なんて恐ろしい!!」
「操れるのでしたら是非、若返らせてください! 肌がピチピチだった十代の頃に!!」
「馬鹿なこと言ってないで手伝ってくれ! もう夕飯の時間だ!!」
有羽は頭を抱えた。
違う、操ってない。操れるなら自分が一番欲しい。
夕飯直前まで遊ぶ自分を、巻き戻す力が。
侍女たちは慌てながらも、身体が先に動く。
この二年で培われた賢者宅対応力は伊達ではなかった。
誰が指示するでもなく、役割分担が始まる。
「油の量は確認します!」
「氷水、用意します! あ、冷水の桶も!」
「お皿を温めておきます? いえ、揚げ物なら温めすぎると……!」
「だから今は揚げないって言ってんだろ! 今日のは、目の前で揚げる予定だったんだよ! 段取りだけ! 段取りを整えるのが先!」
そう。
今準備しているのは天ぷら。
揚げる音は、まだない。
あるのは前哨戦の音だ。道具の配置、下拵えの確認、温度管理の準備。戦場を整える音。
遅れて、アウローラとレジーナも外の色に気づいた。
アウローラは窓へ駆け寄り、空を見上げて「えっ」と声を漏らす。
「……ほんとだ。赤い。夕方だ……」
レジーナは、さすがに大声は出さない。
だが眉間に寄った影が、彼女の驚愕を語っていた。
貴族の社交で鍛えられた顔は崩れないが、内心は崩れている。
「……随分と遊んでしまいましたね、姉上。あの遊戯は、時間の流れすら変えてしまう……」
「……夢中になっただけよ、アウローラ。現実から逃げるのはやめなさい」
言い切ったところで、レジーナは自分の言葉が刺さったのか、ほんの少しだけ目を細める。
そして、諦めたように続ける。
「私達は姉妹揃って「ノングラータ押し付け合戦」で無駄な時間を過ごしたのよ……」
「……うう、なんて世の中は非情なんだ……」
姉妹は放っておいていい。
放っておくのが一番安全だ。下手に触るとノングラータがこっちへ飛んでくる気配がする。
有羽はその二人から、さりげなく距離を取った。
ラディウスは窓の外を見て、静かに冷や汗を流した。
時間を忘れて遊ぶ。
何年ぶりだろう。いや、騎士になってから初めてかもしれない。
それが恥ずかしいのではない。
むしろ――妙に、胸の奥が軽い。
きっと、心のどこかが緩んでいる。緩んでしまった。
視線の先では、台所へ向かった有羽と侍女たちが、すでに戦場の整備を始めている。
棚が開き、盆が出され、包丁が並べられ、陶器の皿が音を立てて積み重なる。
油の匂いはまだない。だが、準備の気配だけで腹が鳴りそうだった。
ラディウスは、家の外に控える護衛へ声をかける。
「賢者殿はやけに慌てているが……どうしてなんだい?」
護衛は、わかっている人間の顔で笑った。
そして妙に誇らしげに答える。
「賢者殿はですねぇ……何と言うか、食事は手を抜かないんですよ」
「手を抜かない?」
「肉を焼く――ただそれだけの行為を、究極にまで追求する人と言いますか……」
「肉を焼く……僕も野営の時は自分で焼いたりするが、そういったものではなく?」
「全然違いますね。野営の肉は 焼(・) い(・) た(・) だ(・) け(・) です」
護衛は言い切り、指で空中に線を引いた。
こちら側が、焼いただけ。向こう側が、料理。
境界線は恐ろしく分厚い。
「賢者殿の焼く肉は料理になります。美味いですよぉ。賢者殿の作る夕飯は」
ラディウスは、息を飲んだ。
空腹が、その言葉だけで形を持つ。
胃が、勝手に準備を始める。
そして彼は、今さらながら気づく。
自分は昼から、ほとんど食べていない。
カレーパンをつまんだだけで、ずっと盤に向かっていた。
(……現金なものだな)
さっきまで、あの遊戯の有用性と危険性に頭を悩ませていた。
国の経済、情報の扱い、賢者という存在の距離感。
いくらでも深く潜れる思考の海。
なのに今は、台所の物音だけで呼吸が浅くなる。
腹が鳴ることに少しだけ羞恥を覚え、それでも抗えない。
人の本能に勝てるものはない。
少なくとも食欲は、剣よりも強い時がある。
窓の外では夕焼けがさらに濃くなり、森の影が伸びていく。
室内では侍女たちの動きが加速し、有羽の指示が飛び、器が並び、薄い衣の準備が整えられていく。
――まだ揚げる音はしない。
だが揚がる前の静けさは、かえって腹を刺激する。
ラディウスは小さく苦笑した。
「……やれやれ」
この家では、盤の上でも台所でも気を抜けば負ける。
そういう場所らしい。
それ故に――ログハウスの中は、戦場になっていた。
いや、正確には――料理人の戦場だ。
剣も槍もない。代わりにあるのは、包丁と菜箸と、見慣れない道具たち。
侍女隊は手慣れた動きで盆を運び、器を並べ、布巾で水気を拭い、必要な物を必要な場所へと滑らせていく。護衛隊は家の外で不動の警戒を維持したまま、窓から漂う気配だけで腹を鳴らしかけている。
――ドタバタと大急ぎで準備が進む。
進む……のだが、流石に「全員分を目の前で揚げながら」は無理があった。
時間が、足りない。
原因はひとつ。昼から夕方へワープしたような錯覚を生んだ、あの『商伝』だ。
楽しすぎた。盛り上がりすぎた。ノングラータが悪い。いや、姉妹が悪い。いや、面白いゲームを作った有羽が悪い。
責任の押し付け合いが、また始まりかけている。
「はいはい。反省会は天ぷら食ってからだ。今は動ける人は動け。動けない人は座ってろ。……というか、座ってろ。頼むから」
有羽の声は、普段より二段くらい速い。
焦っているというより、段取りを崩したくない職人の苛立ちに近い。
妙なプライド。変な意地。だがそれは、客に対して最高の形で出したい、という料理人の矜持でもあった。
だから――テーブルに座るのは三名だけ。
レジーナ。ラディウス。アウローラ。
天ぷら初体験の二人に、最前列で食べさせる。
第二王女は特権でその隣に居座る。待ての通じない犬が、ちゃっかり席を確保している。
護衛隊と侍女隊の分は後だ。
本来ならそれが当たり前。主人が先、従者が後。
ここが賢者の家でなければ、誰も文句ひとつ言わない。
だから、文句は出ない。
――出ないが、腹は減る。
家の外の護衛たちは、真剣な顔で陣取っていた。
窓の方角を見ない。決して見ない。
見たら負ける。見たら空腹が暴徒になる。
男たちの自制心は、魔物相手より試されている。
侍女隊は一見冷静だった。
姿勢も綺麗。顔も凛としている。
だが目が笑っていない。
笑っていない目ほど「お腹が減っています」を雄弁に語るものはない。
そこへ、静かに台車が押されてくる。
木の車輪が床を滑り、金属が触れ合う小さな音が、何故かやけに美味しそうに聞こえる。
台車の上には、油の張られた鍋――まだ蓋の閉じた深鍋。
そして揚げる準備の整った具材の数々が、まるで宝石のように並べられていた。
衣の粉。氷水の桶。菜箸。温度を見るための小さな道具。
乾いた布巾。水気を切った皿。
そして、下処理を済ませた魚介や野菜が、行儀よく待機している。
レジーナの瞳が、わずかに光った。
外交官の目だ。未知を観察し、価値を測る目。
だが今は、それより少しだけ――子供の目に近い。
「楽しみね。天ぷらの話は、アウローラから聞いてはいたけれど……まだ王都で再現出来ていないのよ。試作品は出来たと聞いたけど――」
言いかけたレジーナの言葉を、アウローラが断ち切る。
いつになく、真剣な声だった。
「姉上。王都のあれは、天ぷらじゃありません。天ぷらへの冒涜です」
ぴしゃり。
断罪の響き。
王族の口から出ると、料理の感想でも外交文書みたいになるから怖い。
「あんな分厚い衣と、臭みのする具材。あんなものを天ぷらと呼称する事は、私の誇りが許しません」
侍女隊が静かに頷く。
護衛隊も外で、たぶん同じ顔をしている。
王都の試作品は、彼女たちにとって事件だったのだろう。
ラディウスは姿勢を正したまま、内心で興味が爆発していた。
未知の料理。
再現できない技術。
それが「国の名産」になり得る香り。
侯爵家当主の頭が、勝手に回り始める。
しかし、今はそんな思考よりも――腹が先だ。
そのタイミングで、有羽が軽く咳払いを。
「とりあえず――天ぷらの前に「前菜」ね。試作品だけど、上手く出来たから」
妙に自信がある。
試作品と言いながら、味見して合格を出した顔。
そして有羽が、木皿を三人の前に置いた。
「はい。『豆腐』」
白い四角の立方体が、そこに居た。
雪みたいな白。
表面には僅かに醤油が垂らされ、白と黒のコントラストが美しい。
天井の灯りを受けて、ほのかに艶がある。
木皿は、どう削ればこんな光沢が出るのか分からないほど滑らかで――器からして既に異世界の常識を逸脱している。
アウローラが目を丸くする。
「『トウフ』……!? 有羽! また新しい料理作ったのか! 困るぞ、こうやってポンポンポンポン新しいものばっかり出されても……再現できないじゃないか!」
抗議なのに、声が弾んでいる。
困ると言いながら嬉しそう。
この犬は本当に、困った顔ができない。
「んな、ぶーたれても知らんがな」
有羽は肩を竦めて、さらっと返す。
そして少しだけ声を落とした。
初めて食べる者への導入の声になる。
「……ちゃんと味見したから大丈夫。スプーンで食べてみて。優しい味だから」
レジーナは慎重にスプーンを取った。
ラディウスも同様に。
アウローラは待ちきれず、もうすでにスプーンを構えている。
豆腐は、しっかりしているのに柔らかい。
押せば崩れる。
崩れ方が、どこか儚い。
まるで食べれる白い布のように。形を保っているのに、抵抗がない。
三人が同時に、口に運ぶ。
ほんの少し、醤油の香りが先に鼻をくすぐった。
「……まあ。本当に優しい味ね……!」
レジーナの声は、驚きというより感嘆だった。
派手な料理ではない。
辛いわけでも甘いわけでもない。
ただ、静かに体の内側へ沈んでいく。
胸の奥にじんわり染みる美味しさだ。
ラディウスも、堅い表情が崩れる。
「いいね、これ。前菜にぴったりだ。身体を整えてくる味だよ……」
彼の言葉は、料理を褒めているのに、どこか安心を口にしているようだった。
これから来るだろう油の奔流――その前に、舌と胃が準備を整えさせられる。
まるで儀式の前の清め水のように。
アウローラは、感想が要らなかった。
にっこにこだ。
スプーンを運ぶたびに、目が細くなる。
褒め言葉の代わりに口を動かしている。すごい勢いで、豆腐が減っていく。
そして、三人が豆腐を味わっている間。
音がした。
じゅわぁぁ――。
台所の方角からではない。
テーブルのすぐ近く。
有羽が鍋の蓋を開け、油の温度を確かめた瞬間に、ほんの小さく立った音。
衣の滴が油に触れて、ひと呼吸だけ鳴った音。
それは、香りよりも先に来る。
耳が腹を刺激する。
食欲が、音に引き寄せられる。
レジーナの指が止まる。
スプーンを口に運ぶ途中で、耳が勝手に鍋へ向いた。
ラディウスも同じだ。
アウローラは目が輝いて、椅子の上で小さく揺れている。尻尾が見えないのが惜しい。
有羽は菜箸を取り、準備された具材へ視線を走らせた。
どれを最初に揚げるか。
初見の客に、何を一番最初に食べさせるか。
料理の順番は、ただの順番じゃない。
物語の導入だ。
「……よし」
小さく呟く声。
その声に、侍女隊の動きが一段締まる。
皿が用意される。
塩の小皿が置かれる。
何か液体が入った器――おそらく「つゆ」の類が、そっと机の端に配置される。
護衛隊の誰かが、外でごくりと唾を飲んだ音がした気がした。
レジーナは知らず、背筋を伸ばしている。
ラディウスは、騎士のように静かに待っている。
アウローラは、もう待てない顔をしている。
油の表面が、静かに揺れた。
菜箸が、具材を掴む。
衣が薄くまとい、白い膜が一瞬だけ光る。
次の瞬間、あの音が――きっと、ここで鳴る。
鳴ってしまう。
そう確信できる「間」が部屋に満ちた。
――ここからが本番。
けれど本番は、まだ始まらない。
始まる直前が、一番腹を殺す。
そんな、夕暮れのログハウスの食卓。
天ぷらの「一品目」を待ちながら、三人は息を潜めていた。