軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第31話・魔国女王メトゥス・ラウルスリム①

西方諸族連合王国――俗に「魔国」と呼ばれるその中心、森と砂漠の境目に築かれた首都ラウルスリムは、昼の喧騒に満ちていた。

乾いた風に砂の匂いが混じる一方で、城を囲む森の方角からは、若葉の香りと湿り気を含んだ空気が流れ込んでくる。香辛料を煎る匂い、焼いた肉と野菜の匂い、獣人たちの笑い声、ドワーフの金槌の響き。遠く、樹海の方角では、見えないはずの巨大な何かが、時折、空気の流れを変えているようにさえ思えた。

そんな多種多様な音と匂いを、厚い扉一枚で遮断している部屋がある。

魔国の王城の一角、女王執務室。

そこに一人の美女が居た。

銀をそのまま糸に変えたような、腰まで届く流麗な御髪。

腰まで届くストレート。日光の下では白金、月光下では淡く水色を帯びる。

瞳の色は淡い 紫水晶(アメジスト) 。

少し半眼気味の、静かな眼差し。瞳の奥の紫水晶は、常に光を飲み込むような煌めきを携えている。

体は、しなやかで細身の曲線。

常に微弱な魔力を通す肉体は、折れそうで折れない強靭な柳。

次々と差し出される書類を追っていた。細身の指が、万年筆を滑らせる。否、滑らせるというより、切り裂くように、迷いなく署名を刻んでゆく。

ラウルスリム王朝第七代。

メトゥス・ラウルスリム。

それが――大陸西部、魔国を治める王の名前である。

そんな彼女の種族は――エルフ。

長い時を生きるエルフ族。その若き王。

御年、百二十の女王である。

「……」

執務机に広がるのは無数の書類。どれも王の決裁を待つ重要なものばかり。

各領地の報告、税収、意見、問題。

軍事制度、新たな人員募集、演習の予定表。

財務、法務、その他諸々。

メトゥスは流れるように目を通しながら……一つの項目で目を止めた。

それは、先に行われた南の王国との外交記録。

第一王女レジーナとの会談を思い出す。

(南の王国との友好条約は継続……あの第一王女が居る限り、それが得策)

以前にも式典で顔を合わせた事もあった、南王国の『社交の刃』。

場の空気の変化に敏感で、誰がどこで居心地悪そうかを瞬時に察する優れた洞察力。

他者の喜びや痛みによく気付き、他人が嫌悪する部分を決して触れない共感性。

ようするに――「決して超えてはならない一線」を見極める能力が、段違いで高い。

亜人が多い魔国内においても、「異種族であること」を過度に気にせず、相手の文化や価値観を、まず肯定するところから会話を始めていた。

レジーナは「違い」を責めなかった。むしろその「違い」があるからこそ面白いと会話を弾ませて、魔国の者達と交流を図っていた。

結果、大分「絆された」と言っていい。魔国の重鎮の中で、彼女を嫌う者は殆どいない。

手強い、と思いつつも、レジーナが居る限り友好は結び続けて善いと言える。

彼女の社交性が発揮され続ける限り、魔国側も悪い結果にはならない。

南王国との「取引」も、メトゥスが納得できる範疇で収まった。

なので問題があるとすれば――彼女の夫。

第一王女の夫。侯爵としてだけではなく、聖騎士としても名高い……ラディウス・アルビトリウム卿。彼の貴公子染みた容貌は、魔国の女性達の間でも有名だ。

だが、メトゥスは貴公子の甘いマスクよりも……魔国の東、「魔境の大森林・西部」に視線を向けていた聖騎士の険しい顔の方が、印象深い。

(彼女の夫、誉れ高き聖騎士ラディウス……彼は気づいたか?)

魔境の大森林の西部には……魔国建立以前から、この地を護る「主」が棲んでいる。

魔国女王であるメトゥスは、当然の事ながらその事実を知っていた。

王族として生まれた時から、脈々と語り継がれる御伽噺。

忘れた事などない。

ただ、実在すると解った時は……やるせない無力感を抱いたものだが。

故に、

(……どちらでも構わない。気付こうが気付くまいが、何も変わらない)

たとえ、聖騎士が「主」の存在を感知しようがしまいが、結果は何も変わらない。

あの「主」に、人間如きが歯向かえる訳がない。メトゥスの心は、その事実を知っている。

この魔国の中で、誰よりも知っている。

「陛下。この南王国への香辛料輸出枠の拡大についてなのですが……」

そんな、一時の感情を巡らせていると、若い外交官が書類を差し出してきた。

内容は、今まさにメトゥスが思案していた……南王国との会談記録。

「何か不満でも? 代わりに、彼らの港湾使用料を五年間据え置き。決して悪くない条件だと思いますが?」

この港湾使用料は、南王国と魔国、双方に適応されるもの。

すなわち、五年間の間、安定して収益が約束されたも当然。

安定した収入に勝る安心は無い。国家運営は兎角金が掛かる。

その補填に充分力になってくれる友好条件だ。

王国側も、変わらぬ使用料ならば予算が立てやすい。どちらの国にとっても利点は多い。

けれど若い外交官は不満顔。

今回の友好条約の際に、「新たに決められた項目」について納得が出来ないようだった。

「し、しかし陛下。十八パーセント増しとなると、砂漠沿いの獣人部族からは、供給量の増加に対して不満が――」

「その分、南の王国からは、保存技術と船舶技術の技師を出向してもらう確約を得ています。彼らが技術を落としていけば、長期的には、香辛料を育てる土地の収益は、今より大きくなる」

女王が、若い外交官の顔色を伺うなど、する筈がない。

にべもない言葉に、外交官が口をぱくぱくとさせた。

メトゥスは、彼を見やることなく、視線を次の書類へと移す。

「だからこそ、今の負担を誰が負うかを、最初に決めておく必要があるのです」

そこまで言ってようやく、僅かだけ視線を外交官に向けた。

紫水晶の瞳に、鋭さが宿る。

眼光で体を斬られる経験を、若い外交官は初めて味わった。

「それとも――誰に負担を押し付けるのか、から話を始めましょうか?」

その一言で、執務室の空気が、わずかに引き締まる。

大臣も、税務官も、軍務官も――この国の中枢に連なる者たちは、皆、その言葉を聞き慣れていた。

理想だけを語る者たちが、「皆が幸せになる案」を得意げに持ち込んでくるたびに、メトゥスは必ずこう切り出す。

誰が、どこで、どれだけ痛むのか。

痛む者に、それを飲ませるだけの見返りを、誰が責任を持って約束するのか。

それを曖昧にしたまま、「皆」で話を進めることを、彼女は決して許さない。

「南の王女殿下は、技師団の派遣には前向きでしたよ。すぐにでも募集を始めると。安心なさい。我が国の利益は確定されたも同然です」

「……わかり、ました」

肩を落とし、渋々といった体で引き下がる外交官。

そして落ち込んだ背中のまま、退室し――入れ替わりに年老いたエルフが入室。

魔国の宰相を務める忠臣の一人。

彼は去っていく外交官の背中を見つめながら、女王に軽く視線を向けた。

「……今の彼は?」

「王国との条約について。納得がいかない箇所があったようで」

それを聞いて「ああ」と納得の溜息。

同時に浮かぶ、小さな苦笑。

「若い、ですからな……まだ短期的にしか物事を測れんのでしょう」

若輩者を見守る、厳しくも暖かい眼差し。

だが、彼も若者の弁護に回るつもりはない。

長期的な考えが出来るようになるまで、遠くから見るのみ。

すぐに視線を戻し、女王と宰相は向き合う。

今進めるべき事柄に、話を戻す。

「王女殿下あてに、非公式の親書を。文面は私が起草します。彼女は面白い話が好きですから、少しばかり、砂漠の怪談でも織り交ぜて」

宰相の目尻に、わずかな苦笑が浮かぶ。

冗談も織り交ぜるのが、柔らかな外交だが――メトゥスの案は予想の外だった模様。

「怪談で外交をなさる王は、初めて拝見いたしますぞ、陛下」

「退屈な文は、誰も二度読みません。退屈な約束は、誰も覚えません。それでは、条約の意味がないでしょう」

メトゥスは、そこで初めて顔を上げた。

紫の瞳が、執務室に並ぶ顔ぶれをゆっくりと見渡す。

尊敬、期待、不安、利益勘定。

そして、ごく少数の眼差しだけが――彼女を、別の意味で見ている。

空白の王冠を戴く者。

そう呼ぶ者たちの目だ。

それは侮蔑ではない。あざけりでもない。

言うなれば、認識だ。彼らが知っている「国の真実」を、共有している者同士の、無言の合図だった。

この国の本当の支配者は、メトゥスではない。

誰もが知っている。だが、誰も口に出さない。

「次は、徴税局から、地方税収の報告です」

宰相が空気を切り替えるように声を上げる。

メトゥスも、何事もなかったかのように視線を紙に戻した。

獣人居住区の砂漠沿いでは、今年は雨が少なく、作物の出来が悪かった。代わりに、森の縁で採れる薬草の収穫量が例年より多い。

ドワーフの山岳都市では、新しい鉱脈が見つかり、税収が跳ね上がる見込みだが、鉱山の安全整備に軍の協力が必要とある。

リザードマンの湿地帯では、他種族との交易を望む声が増え、港湾施設の拡張を求める嘆願書が添えられている。

一枚一枚、メトゥスは書類を捌きながら、頭の中で地図を思い描いていた。

南の海。東の帝国。北の山脈。そして、大陸の中心に広がる、大樹海。

魔物が巣くう広大な森の海。

その西側、魔国に隣接する地帯には、ひときわ深い緑の帯がある。

そこに、「主」が居座っている。

「……陛下?」

不意に、前線から来た軍務官が訝しげな声を上げた。

メトゥスは、はっとして瞬きをする。

「失礼。少し、考え事を」

「いえ。あの、その――大樹海西部の巡回路の件ですが」

軍務官は、どこか言いよどみながら地図を広げる。

大樹海の端をなぞるように描かれた細い線。魔国の各都市を結びつつ、樹海の中へは踏み込みすぎないように設計された、危なっかしい細道。

「先日の巡回の際、また『あれ』の気配があったとの報告が……」

「『あれ』、では分かりません。文書には『西方樹海の主』とありましたね。どちらかといえば、そちらの呼称を使ってください。軍報告に曖昧な言葉を混ぜるのは嫌いです」

メトゥスはそう言いながらも、地図の一点に視線を固定していた。

樹が密集し、描線が濃く塗りつぶされているその場所。紙の上なのに、目を凝らすと、そこだけ色が変わるような錯覚を覚える。

そこに居る。

人でも、エルフでも、獣人でも、ドワーフでも、リザードマンでもない。

神かと問われれば、天上の神々とは違う、と答えるしかない。

だが、ただの魔物かと問われれば、それも違うと、誰もが即答するだろう。

神に近い魔物。あるいは、魔物に堕ちた神。

何百年も前から、魔国の東を守り続けている存在。

大樹海の魔物たちが、東へ北へと溢れ出しても、西側への侵攻は、なぜか常に弱い。森を越えてくる大群は、途中で引き返すか、跡形もなく消え失せる。

魔国の古い記録は、その原因を、彼の存在に求めていた。

西の主。

大樹の女帝。

その足下にある国。

それが、魔国だ。

「報告によれば、「主」は、こちらに興味は示していないとのことです。ただ、森の魔物が通常より荒ぶっており、前線兵の被害が――」

「兵の補充は、森沿いの獣人部族からの志願兵で賄えますか」

「いえ、それが……」

軍務官が言い淀む。

メトゥスは小さくため息をつくと、机の上の砂時計を回した。

「では、ここでもう一度、誰に負担を押し付けるのか、から考えましょう」

軍務官の顔が、わずかに青ざめる。

宰相が、慣れた様子で手元の帳簿を開いた。

「森沿いの部族は、すでに狩猟制限と交易路の維持で、十分に負担を強いられています。これ以上、徴兵を増やすのは愚策です」

「では、砂漠沿いの遊牧民から……」

「彼らは今、南王国向けの香辛料を増産している最中です。そこで戦力を削れば、さきほど承認したばかりの条約が意味を失います」

メトゥスは淡々と、候補を切り捨てていく。

できることと、できないこと。

やってはならないこと。

「では、都市部の傭兵団を――」

「それが、最も現実的でしょう。ただし、彼らに払う報酬は?」

軍務官が口をつぐむ。

メトゥスは、わずかに口元を緩めた。

「無償で命を賭ける者はいません。……それは、とても健全な感覚です」

彼女にとって、理想論とは、現実から目を背けるための甘い毒だ。

誰かの幸福の裏で、誰かが割を食っている。

それを直視せずに「皆が幸せ」と言い張ることを、彼女は何よりも嫌う。

「傭兵団の報酬を、鉱山都市の新鉱脈からの臨時収益から捻出する案は?」

ドワーフの代表が口を開いた。

「もちろん、その対価として、彼らに優先的な武具の納入権を与えることが前提ですが」

メトゥスは、じっとドワーフを見つめた。

頑強な顎髭に刻まれた皺。その目には、計算と、わずかな侮りが浮かんでいる。

若い女王よ。どうせ、お前はこの国の根っこの部分には触れられない。私たちは知っているのだ、とでも言いたげな目。

空白の王冠、か。

メトゥスは心の中で、そっとつぶやいた。

その呼び名を、彼女は否定しない。

「悪くない案です。ただし――」

ペン先が、紙の上で踊る。

追加の条件、制限、監査条項。

「新鉱脈の採掘に従事する労働者の安全を守るための規定を、三項目追加します。傭兵団が護衛するのは、鉱山だけではなく、そこで働く者の生活も含めて、です」

ドワーフが眉をひそめる。

「それでは、儲けが」

「ええ。儲けは減るでしょうね」

メトゥスは、静かに微笑んだ。

「ですが、その程度の減益も飲み込めないほど、我々の国は貧しくはないはずです」

ほんの一瞬、室内が静まり返る。

彼女は若い。王としては、経験が足りない。

だが、「線を引き、橋を架け、時に切り捨てる」ことにかけては、誰よりも冷静で、誰よりも残酷になれる。

だからこそ、彼女は王冠を戴いている。

空っぽの王冠。真の支配者の代わりに、前線に立つ、薄い盾。

会議は延々と続いた。

北の神聖国から山を越えて届いた、僅かな交流品についての報告。帝国の新たな軍備の噂。南王国の港で流行している料理と、それに使われている食材の種類。

儀典官が持ち込んだ、来月の祭事の出席予定表。

「ここは、陛下にはぜひともご臨席いただきたく」

「……西部前線の兵を慰労する祭ですか。なら、行きましょう」

即答だった。

儀典官が少し驚いた顔をする。

「お疲れではありませんか? ここ数日は特にお忙しく――」

「疲れた顔を兵に見せるのも、王の仕事です。『ああ、あれだけ書類の山に埋もれても、まだ立っているのか』と笑ってくれれば、それでいいでしょう」

執務室に、控えめな笑いが洩れた。

メトゥス自身も、小さく肩をすくめる。

「……それに」

窓の外へと視線を向ければ、大樹海の緑が、遠く霞んで見える。

その奥にいる巨大な影は、今日もただ黙って、こちらを見ているのだろうか。

「借り物の平和でも、それを持ち帰って見せる役は、必要ですから」

ぽつりと漏れた本音は、誰の耳にも届かなかったのか、誰も反応を示さなかった。

王とは、借り物の平和を、少しでも長く続ける係にすぎない。

魔国の平穏は、西の主の気まぐれの上に成り立っている。

それを、誰よりも深く理解しているからこそ、メトゥスは自分の王冠を「空白」だと受け止めている。

それでも――その空白を、書類と判子と、数え切れない妥協と決断で、ぎっしりと埋め尽くすことぐらいなら、彼女にもできる。

その日の執務が終わったのは、日が傾き、砂漠の空がゆっくりと紫に染まり始めた頃だった。

最後の官吏が退出し、分厚い扉が閉じる。

静寂。

メトゥスはようやく背もたれに身を預け、小さく息を吐いた。

◇◇◇

その夜、女王執務室の灯りがすべて落ちたあとも、城の最上階にはひとつだけ、遅い灯火が残っていた。

最上階バルコニー。

砂漠から吹き上げる乾いた風と、森の方角からそっと忍び込む湿った風が、そこで出会って混ざり合う場所。

メトゥス・ラウルスリムは、背もたれの低い椅子に腰掛け、膝上に開いた一冊の本へと視線を落としていた。

銀糸のような長髪は、執務用の編み込みをほどき、肩と背にさらりと流れている。月の光を受けて、淡い水色がかった白に揺らめく。深い森色のマントは脱ぎ、薄手のローブだけ。夜風が布をわずかに膨らませるたび、ラウルスリム王家の『樹の紋章』が胸元できらりと光った。

開かれた本のページには、流麗な文字が並ぶ。

異国の王子と、閉ざされた塔に囚われた姫。

世界を脅かす竜。

そして――自ら剣を取り、竜を討ち、姫を救い、民を直接守る英雄王。

古代神話。

他国から輸入された恋愛譚。

人間界で語り継がれる英雄譚。

そういった「別の世界の物語」を、彼女は好んで集めた。

紙の上の王たちは、いつも分かりやすい。

敵がいて、剣を抜いて、勝てば讃えられ、負ければ物語が終わる。

「……ふふ」

ページの先の、「幸せに暮らしました」の一文を見つめて、メトゥスは小さく笑った。

乾いた、ひびの入った笑みだった。

異国の王子に助けられる姫。

脅威を倒し、姫と王子は結ばれて、国も救われて、めでたしめでたし。

「私は、その『脅威』に護られてる側だけどね」

ぽつりと漏らした呟きは、風に攫われる。

砂漠の気配と、森の匂いを纏った夜気が、彼女の頬を撫でて通り過ぎていった。

視線を本から外し、バルコニーの欄干越しに、彼女は夜の景色を見下ろした。

城下の灯りが、星のように点々と散っている。

そのさらに向こう――闇の地平線を縁取るように、黒々とした線が見える。大樹海だ。巨木の群れが、夜の中で塊になり、そこだけ星明かりを拒むように静まり返っている。

幼い頃から、何度も聞かされた言葉が、自然と胸の奥から蘇る。

――西の森には、古き樹の女帝がいる。

――我らの国が大した戦乱もなく続いているのは、女帝の御心の賜物だ。

実際、魔国の歴史書には、その「御心」の結果としか思えない記録がいくつも残っている。

侵略軍が森を焼こうとして、謎の土砂崩れで壊滅した事件。

魔物の大群が国境へ向かった瞬間、まるで見えない手に絡めとられたように、森の奥へ引きずり込まれて消えた記録。

――それらは、王家の武勲ではない。

「女帝の 気(・) 分(・) 次(・) 第(・) 、と言っても過言ではない……か」

それは自分が言った言葉だったか、先代たちが吐き出した愚痴だったか。

もはや混ざり合って分からない。

ただひとつ、確かなのは。

魔国の平和は、ラウルスリム王朝の剣や魔法によって守られているわけではない、ということ。

根本の部分で、ずっと上位の存在に「守られている」からこそ、平和でいられる。

借り物の平和。

そう自分で名付けたときの、胸のざらつきを、メトゥスはまだはっきりと覚えている。

「私は、借り物の平和を、少しでも長く続ける係にすぎない」

口にしてみても、その定義は相変わらず、喉の奥に苦い味だけを残した。

◇◇◇

指先で、ページの角を撫でる。

ふと、紙の感触から、別の記憶へと引きずり込まれそうになる。

――病に伏した父の寝台。

――白いシーツ。

――刻一刻と削られていく時間。

部屋の空気には、薬草と、消しきれない血と汗の匂いが混ざっていた。

幼いメトゥスの前で、侍医たちが薬を調合し、祈祷師が呪文を唱え、神官が太陽神にも、森の精霊にも、あらゆる存在に救いを求めていた。

「西の女帝に嘆願を」と、誰かが言った。

それは禁じられた願いではなかった。

歴代の王たちも、どうしようもない時には、森に祈りを捧げたと聞く。

ただし――叶うかどうかは、まったくの別問題だ。

メトゥスは、眠れぬ夜の中で、父の枕元で懸命に祈った。

まだ少女の顔立ちだった頃だ。銀髪は背中の半ばほどまでしか届かず、王冠の代わりに、簡素な髪飾りをつけていた。

あの時、森は確かに何かを答えてくれた。

突風。

ざわめき。

夢の中で見た、巨大な樹の影。

そのどれが現実で、どれが幼い頭が作り出した虚構だったかは、今ではもう判別できない。

ただ――ひとつだけはっきりと覚えている言葉がある。

それは、耳で聞いたのではなく、胸の奥に直接刻まれた声だった。

――それは、枯れ落ちる枝だ。

救うべき幹ではない。

切り落としても、樹全体は持ち堪える。

だから、救わない。

簡潔で、残酷で、恐ろしいほど理にかなった判断。

メトゥスは、そのとき初めて理解した。

西の女帝は、「全体」を見るのだと。

枝葉ではなく、樹そのものを守る感覚。

枝葉の一つ二つが枯れ落ちそうなら、むしろ積極的に斬り落とす冷徹さ。

魔国の規模に置き換えるなら、その「枝葉」は、街の一つ二つ。

あるいは――ひとつの王朝、そのものですらあり得る。

あのとき、斬り落とされた枝は、自分の父だった。

王として苦しみ、病に蝕まれた身体を、女帝は救ってはくれなかった。

「……あの方は敬意を抱くべき存在……でも、頼ってはいけない存在」

現在のメトゥスは、静かな声でそう言える。

敬意の対象。

畏怖の対象。

だが、祈りを捧げてすがる対象ではない。

頼れば、必ず見返りを求められる。

それは代価とか、恩義といった生ぬるいものではなく――「枝葉の整理」と呼ばれる類いのものだ。

だから、自分は頼らない。

頼るわけにはいかない。

自分が女帝に求めるのは、ただひとつ。

――魔国を、「切り捨てる価値しかない枝」として見なさせないこと。

◇◇◇

メトゥスは本を閉じた。

ぱたりと音がして、物語の世界への扉が、いったん閉ざされる。

王が自ら剣を取り、竜を討ち、民を救う物語。

竜を倒せば、国は救われる。

「現実には、竜に気に入られた森の中の巣を、どうにか維持するぐらいが関の山、ね」

呆れたような、諦めたような口調で言いながらも、その眼差しはどこか優しい。

城下の灯りを眺める彼女の視線には、この国の人々への情が、確かに宿っている。

商人たちのたくましさ。

獣人たちの豪快な笑い声。

ドワーフの工房から響く金槌の音。

リザードマンの子どもたちが、用水路で水をはねあげて遊ぶ姿。

ひとつひとつが、枝葉だ。

女帝から見れば、ささいな枝の一部に過ぎないのかもしれない。

切り捨てれば、樹全体の健康は保たれるのかもしれない。

けれど――その枝葉を、彼女は愛してしまっている。

「女帝にとって「切り捨てる価値しかない枝」になってはならぬよう」

メトゥスは低く呟く。

祈りではない。

誓いとも、少し違う。

もっと現実的で、もっと具体的な、自分への業務命令に近い言葉だ。

「税収も、軍備も、外交も、内政も。どれもこれも、結局そこに繋がるのよね」

この国は、生かしておいた方が、森にとって都合が良い。

そう思わせ続けなければならない。

森を荒らさない。

無駄な戦を仕掛けない。

周辺の勢力を変に刺激しない。

それでいて、森の外から侵略者が来た場合には、一定以上の抵抗を示して、「守る価値のある枝」であることを示す。

その微妙なバランスの上で、魔国は千年近く、どうにかこうにか生き延びてきた。

「英雄王にはなれないけれど」

メトゥスは、椅子から立ち上がる。

バルコニーの欄干に片手を置き、夜空を見上げた。

砂漠の上の星々は、驚くほどよく見える。

大樹海の上では、枝葉の隙間から覗く星が、かすかな光の粒となって瞬いている。

「借り物の平和の『管理人』ぐらいには、なれるはず」

自嘲混じりの言葉に、誰も突っ込まない。

夜風だけが、彼女のローブの裾を揺らした。

やがてメトゥスは、本を胸に抱えたまま、バルコニーを後にする。

書庫を通り抜けるとき、棚の隅に積まれた物語集に目をやり、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「次は……ドラゴンと手を組む王の話でも、探してみましょうか」

そんな都合のいい物語があるかどうかは分からない。

けれど、もしあれば――今の自分には、英雄が竜を斬る話より、よほど親近感が湧くだろう。

私室へ戻ると、侍女が灯りを落とし、寝支度の用意をしていた。

「陛下、本日もお疲れ様でございました」

「ええ。明日も、書類の山と、兵の補充と、税収のやりくりと……いつも通りです」

いつも通り。

けれど、それは決して悪い言葉ではない。

いつも通りの日々が続いている――それ自体が、借り物の平和がまだ続いている証なのだから。

寝台に身を横たえる直前、メトゥスは窓の外を一度だけ振り返った。

遠く、大樹海の西側。そこに鎮座する、巨大な影の気配を、心のどこかで探る。

「……あなたがいる間だけの平和だとしても」

眠りに落ちるまぎわ、彼女は小さな声で言った。

「私は、それを少しでも長く、人々のものにしてみせます」

返事はない。

ただ、森の方角から、葉擦れとも遠雷ともつかない、微かな振動が届いた気がした。

それが肯定なのか、ただの自然現象なのかは分からない。

分からなくていい、とメトゥスは思う。

大切なのは――明日の朝になれば、また同じように、書類と向き合う日々が始まるということ。

女帝にとって「切り捨てる価値しかない枝」と判断されないように。

借り物の平和を、一日でも長く保つために。

そのために、彼女は明日もまた、英雄譚では決して語られない仕事に、静かに、そして執拗に取り組むのだった。