軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第24話・砂糖

朝の森は、まだ少しひんやりとしていた。

ログハウスの外、有羽の魔法で創られた木製の長机が一つ。

その上には、焼きたてのパンとスクランブルエッグ、軽く炙ったベーコン、温野菜のサラダ、ハーブ香るスープ……そして例によって、人数分よりやや多めに用意された朝食が並んでいる。

森の匂いと、木と土の匂いと、食欲をそそるベーコンの匂いが混じり合って、空気だけで腹が減りそうだった。

そのテーブルの片側に、妙にそわそわしている男女が二人。

世渡有羽と、アウローラ・ウィル・ミラ・アウストラリスである。

「殿下はこちらに。有羽様はこちらに」

「さあさあ、お二人とも。冷めないうちに座ってくださいまし」

にこにこ顔の侍女達に腕を引かれ、有羽は主なのに何故か逆らえないまま、アウローラの隣の椅子へと押し込まれていた。

(なんで俺が言いなりになってんだよ、家主俺だろ……?)

心の中でツッコミは入れるが、口には出ない。

出せない。さっきの一言が、まだ喉元に引っかかったままだった。

『……可憐だ』

たった一言。それだけなのに。

言った本人も驚くほど自然に口からこぼれたその評価は、今になって有羽の脳内で何度もリピート再生されている。

(あー……思い出しただけで死にたい……なんだよ可憐って……ドラマかよ……)

思い出すたびに、じわじわと耳まで熱くなっていく。

だから、有羽は顔をそらしていた。アウローラの方から、全力で。

一方その隣では、ワンピース姿の王女が、やっぱり顔を真っ赤にしていた。

視線だけ、何度も何度も有羽の横顔を盗み見ては、そっと逸らす。

手元のフォークをいじる指先が、いつもより落ち着かない。

侍女達と護衛は、それぞれ対面側に並んで座りつつも、心の中で一斉に感想を共有していた。

(((これは甘い)))

だが、誰も邪魔はしない。

今この瞬間だけは、「仕事という名の別荘通い」ではなく、主と客人の、なんとも言えない空気を味わう時間だと分かっていたからだ。

少しの沈黙の後、痺れを切らしたのはアウローラの方だった。

「な、なあ有羽……」

「ん」

「どうして……顔を背けるんだ?」

その声には、不安が混じっていた。

嫌われたのではないか。さっきの言葉は、冗談だったのではないか。

そういう恐れが、言葉の端に滲んでいる。

有羽は肩をビクッと震わせた。

「いや、どうしてもこうしても……あー、待って待って……」

言葉を濁しながら、さらに顔をそらす。

アウローラの方は、逆に身を乗り出してくる。

ワンピースの裾がふわりと揺れて、柔らかな布の匂いがふっと鼻をかすめた。

(やめろ、その距離は本気でやばい)

心の中で悲鳴を上げながらも、避けきれない。

テーブルの幅と椅子の位置が、それを許さない。

そもそも隣同士に座らされた時点で、完全に詰みだ。

有羽は、ぼそりと、逃げるように呟いた。

「破壊力凄いから、見れないんだって……ああもう」

「……え?」

アウローラが目を瞬く。

有羽は、覚悟を決めてちらりと横を見る。

そこに座っていたのは、昨日までと同じアウローラで、しかしまるで別人のようでもあった。

いつもの鎧ではない。

淡い色合いのワンピースが、戦場の英雄ではなく、「一人の若い娘」としての輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。

さらりと下ろした金髪が、朝日を受けて柔らかく光り、頬は恥ずかしさで桜色に染まっていた。

まだ咲ききっていない蕾のようで、

すでに満開の花弁のようでもある。

その両方を同時に思わせる、どこまでも綺麗な姿。

(そうだよな……王女様なんだよな……うん)

今さらながら、有羽は実感していた。

いつも鎧姿でお宅訪問、元気いっぱい突撃してくる、毛並みの良い大型犬みたいな「わんこ王女」。

美人であることは、とっくに知っていた。

王族特有の威厳も、ふとした拍子に垣間見えたことがある。

けれど、こうして「装って」隣に座られると――話は別だ。

(いや、これそういう……普通に、年頃の女の子じゃん……)

有羽も、22歳の健康な男だ。

そんな美女が半径数十センチ以内に座っていれば、その、アレだ。

目のやり場に困る。変なところを見たら失礼だし、かといってずっとテーブルだけ見てるのも不自然だし、じゃあどこ見ればいいんだよと脳が軽くフリーズする。

視界の端には、ほっそりとした首筋も、ワンピースの襟元からのぞく鎖骨も、ふわりと揺れる裾も入ってくる。

そこから意識を逸らすほど、逆に意識してしまうのが困る。

そして何より――。

アウローラ自身が、一番顔を赤くしていた。

彼女は自分の胸の鼓動を、うるさいほどに感じていた。

国事でドレスを着ることなど、日常茶飯事だ。

今のワンピースより遥かに華美な衣装に身を包み、大広間の視線を一身に浴びたことも、一度や二度ではない。

けれど、今のこの感覚は、そのどれとも違っていた。

一番近しいのは、かつての夫――昔馴染みの公爵令息と結婚式を挙げた、あの日の胸の高鳴り。

誓いの言葉を交わした時、隣に立つ彼を見上げた時、全身を満たしていたあの熱と震え。

今感じているのは、その記憶に酷似した、けれど少し違う震えだった。

(……これは……恋、なのか……? それとも……裏切り、なのか……?)

ちくり、と胸の奥が痛む。

亡き夫の姿が一瞬だけ脳裏をよぎり、すぐに、有羽の横顔へと上書きされる。

その事実に、一層戸惑う。

再婚の話は、これまですべて断ってきた。

顔も知らぬ貴族の名が書かれた縁談の書状を破り捨てたことも、一度や二度ではない。

明確に、亡き夫への操を立てていたから――それが、一番大きな理由だった。

けれど今。

森の賢者の隣で、ワンピース姿のまま座っている自分の胸の内は……。

有羽の傍に居たい。

有羽が傍に居て欲しい。

こちらを見て欲しい。

私を見て欲しい。

止めようとしても止まらない、そんな脈動だった。

うつむきかけたその瞬間――。

「失礼」

テーブルの向こうから、落ち着いた女の声が飛んだ。

黒髪の美女が一人、椅子からすっと立ち上がる。

三十路の未亡人侍女長、マルガリータだ。

すたすたと歩き、有羽とアウローラの傍へ。

切れ長の瞳が、ちらと有羽とアウローラの表情を一瞥する。

そして――何の前触れもなく、わしっと有羽の頭を掴んだ。

「うおっ!? ちょっ、おまっ、マルガリータさん!?」

ガシリ、と有羽の後頭部をホールドすると、そのまま有無を言わさず、ぐいっと顔の向きをアウローラの方へと回す。

「失礼。ですが――」

ぐっと力を込めて、その瞳をまっすぐアウローラと合わせる形にしてから、マルガリータはにこりと笑う。

「ちゃんと、見て差し上げてくださいませ。有羽様」

その言葉には、同じ未亡人としての、静かな思慮がこもっていた。

過去の愛を抱えたまま、それでも新しい誰かを好きになってしまった女の揺らぎを、彼女は痛いほど知っている。

だからこそ、背中を押す。

侍女としてではなく、一人の女として。

アウローラは一瞬きょとんとした後、顔を真っ赤に染めた。

有羽もまた、耳まで真っ赤。

お互い顔を赤くして、見つめ合う。

何を言えばいいか分からない沈黙が、数秒、数十秒と伸びていく。

森の風の音と、スープの立ちのぼる湯気が、やけに大きく感じられた。

先に折れたのは、有羽だった。

「あー、その……」

喉がからからだ。水を飲みたいが、それを口実に今視線を外したら、きっと一生このまま逃げ続ける気がする。理屈ではなく本能で。

だから、有羽は逃げない。

腹を括って、言葉を選ぶ。

「綺麗すぎて見れなかっただけだから……その、心配すんな……」

しどろもどろになりながらも、なんとか最後まで言い切る。

アウローラの瞳が、大きく揺れた。

「あ、あぅ……」

口元が小さく震えて、声にならない音が漏れる。

一拍おいて、絞り出すように。

「ありが、とう……」

それだけ言うのにも、精一杯の勇気が必要だった。

てれりこてれりこ、とでも効果音を付けたくなるほど。

二人の間に甘ったるい空気が立ち込める。

その場に居合わせた侍女と護衛隊は、全員が同じタイミングで視線を逸らし、同じタイミングで内心を揃えた。

(((甘い)))

耐えきれなくなった護衛の一人が、声を漏らす。

「今日の朝飯、砂糖が効き過ぎてるんですが、どうなってるんですかねぇ!?」

別の護衛が、スープを啜りながら肩をすくめる。

「スープに砂糖なんて入れてないよな……?」

「入れてませんとも。これは、空気の糖度というやつでしょうねぇ」

「誰だよこのメニューに砂糖ぶち込んだやつ!」

テーブルの端で、そんな小声の漫才が始まる。

有羽は、たまらずテーブルをドンッと叩いた。

「うるせー! 黙って食いやがれ野次馬ども!!」

その一喝に、侍女達と護衛隊は一斉に姿勢を正す。

「はっ、申し訳ありません!」

口では謝りつつも、顔はどこか緩んだままだ。

その空気に釣られてか、有羽もアウローラも、少しだけ肩の力が抜けた。

アウローラは、そっとパンをちぎり、スクランブルエッグを少し乗せて口に運ぶ。

さっきまでより、ずっと味が分かる気がした。

(……甘いのは、朝食じゃないな)

自分の頬が緩んでいるのを自覚しながら、心の中で苦笑する。

有羽もまた、スープを一口啜る。

ハーブの香りと、野菜の優しい甘さが、さっきまでの気恥ずかしさをゆっくりとほどいていく。

隣では、ワンピース姿の王女が、小さく息を整えていた。

その横顔は、まだどこか照れくさそうで――けれど、目元は確かに、嬉しそうに笑っていた。

森の朝は、やけに眩しく、騒がしく、そしていつもより、少しだけ甘い。

◇◇◇

そして朝食は、静かに――いや、表面上は静かに、慎ましく終わった。

パンもスープも卵も、全員分きれいになくなっている。

有羽もアウローラも、きちんと食べた。フォークもスプーンも、皿の上には何ひとつ残っていない。

……のだが。

(……何食べたっけ俺)

有羽は、空になった自分の皿を見下ろして、内心で頭を抱える。

パンをちぎった記憶はある。スープを飲んだような気もする。

だが、味がまるで思い出せない。塩味だったのか、ハーブは何を使ったのか、その程度すら霧の中だ。

刻み込まれているのは、味ではない。

隣から伝わってくる体温と、視界の端にちらつくワンピースと、さっきの「可憐」の余韻と――どうしようもない気恥ずかしさだけだった。

アウローラも事情は同じだ。

フォークを持つ手は礼儀正しく、王女として鍛えた所作で、きれいに食べ終えている。

だが、口に運ぶたびに意識していたのは料理ではなく、ほんの数十センチ隣から聞こえる息遣いと、スープを啜る小さな音だった。

(……美味しかった、はず、だよな? だって有羽の料理だし……)

自分で自分にそう言い聞かせるしかない。

味の記憶より、胸の鼓動の方がよほど鮮明だからだ。

ふと、テーブルの上を見回すと、侍女達が手際よく食器を片付け始めている。

護衛達はすでに立ち上がり、椅子をテーブルの下に戻していた。

このまま黙っていても、いずれは誰かが口を開くだろう。

そうなる前に、有羽は自分で話題を投げた。

「えと……今日、どうするんだ?」

声が、ほんの少し上ずった気がして、内心で咳払いする。

「いつもはこの後、森の生態調査してるけど……」

言いながら、いつもの流れを思い返す。

アウローラ一行は、この結界内に滞在している間、ほとんど毎日といっていいほど、魔境の大森林の調査に出ていた。

前人未到、未帰還者多数の世界最大の樹海。

多種多様な魔物が蔓延り、大陸のど真ん中で黒々と広がる巨大な緑の塊――それが「魔境の大森林」。

アウローラ達の本来の目的は、その樹海の探査だった。

有羽と出会ったのも、二年前、その任務の途上でのことに過ぎない。

それから、任務には「森の賢者スカウト」という項目が追加された。

けれど根本の目的は今も変わらない。

王女として、騎士として、王国の未来のために森の情報を持ち帰ること。

……のはず、なのだが。

今日のアウローラは、どう見ても調査に行く格好ではなかった。

戦場仕様の鎧ではなく、軽やかなワンピース。

鎧の下に着る簡素なワンピでもなく、王都での外出や茶会にもそのまま出られそうな、ちゃんと選ばれた服。

腰には剣こそ提げているが、それすらどこか「護身用」に見える。

(こんな格好で木の根っこ跨いで跳びまわったら、裾がぼろぼろになって泣くやつだよな……)

どう見ても「調査装備」ではなく、「誰かに見せる用の服」だ。

本人も、それを分かっている。

アウローラは、一瞬だけ視線を落とした。

自分のワンピースの裾を、指先でそっと摘まむ。

(……こんな服で、森の奥になんて行ける訳ない)

そもそも、もし今日も調査に赴くつもりなら、こんな服を選ぶはずがない。

これは実質、「異性に見せる為だけのワンピース」だ。

戦う相手は魔物ではない。

有羽ただ一人。

今日は、王女でも将でもなく、「女」としての戦いの日だと、自分で決めてきた。

だが同時に、この大森林では、普通の意味での「デート」など成立しないことも、よく分かっていた。

有羽の張った結界の外に出れば、そこは魔物の天国。

人間にとっては、地獄の見本市。

甘酸っぱい逢瀬を演出してくれるのは、夕焼けでも劇場でもなく、牙と爪と毒針である。

というわけで、アウローラは少し考えてから、顔を上げた。

「有羽の……仕事を見てみたい」

「俺の?」

「ほら、いつも何かやってるだろう? よく解んない魔道具作ったり、よく分かんない料理試作したり」

「よく分かんないって何さ」

即座にツッコミを入れつつも、心のどこかで少しだけホッとする。

森の外に出られないなら、結界の中。

結界の中でできることといえば――有羽の日常を見ることだ。

アウローラは、むぅっと唇を尖らせた。

「だって、よく分からないんだ!」

ぐっと両手を胸元で握りしめる。

その仕草は、いつも通りの彼女の癖なはずなのに、今日の格好と相まって、とんでもなく可愛らしく見えた。

「有羽の作る物は、いつもよく分からない! 分かるのは凄いってことだけだ!」

声には、本気のもどかしさが滲んでいる。

このログハウスで、有羽はいろいろなものを作っている。

エアコンもどきも、冷蔵庫も、こたつも、風呂も、調味料も。

最近では、謎の香辛料ブレンドまで増えた。

だが、その理屈や仕組みは、アウローラにはほとんど分からない。

「魔法でなんかしてる」「よく分からない配線と魔石がついてる」「でも結果は最高に快適」――その程度の認識だ。

だからこそ、気になっていた。

王女としての視点でも、

戦場を渡り歩いてきた戦士としての視点でもなく――。

一人の女として、

「この人は、普段どんな顔で、どんな風に物を作っているんだろう」と。

有羽は、少し肩をすくめた。

「あー……じゃあ、見学してるか? つまんないかも知れないぞ?」

普段の作業風景を思い出す。

魔法陣を描いたり、魔石を削ったり、素材を刻んだり、地味な工程の繰り返しが大半だ。

華やかな魔法戦闘のような「見せ場」は、ほとんどない。

しかも、最近の有羽の「作業」は群を抜いて地味。

魔法云々ではなく、延々と手作業で行われる、試行錯誤。

だがアウローラは、椅子の背もたれから少し身を乗り出す勢いで首を振った。

「そんなことない!」

金髪がふわりと揺れ、ワンピースの布がほのかに香る。

「見てるだけで面白いし、それに……」

そこで、一度言葉を切った。

喉の奥に、小さな塊がひっかかる。

それをどうしても飲み込めなくて、彼女は勇気を振り絞って続けた。

「……それに、傍に居るだけで、嬉しいし」

その瞬間、有羽の心臓が、ドクンと跳ねた。

隣で、誰かが小さく息を呑む気配がした。

きっと侍女か護衛の誰かだろう。

だが、有羽にはそちらを見る余裕がなかった。

視線を逸らさなければ、まともにアウローラの顔を見る自信がない。

視線を逸らせば、今の一言から逃げてしまいそうで嫌だ。

結局、有羽は、ほんの一瞬だけ彼女を見て――案の定、顔を真っ赤にして、ぎゅっと目を閉じた。

「…………だからさぁ、破壊力凄いんだって」

自分でも情けないと思う反応しか出てこない。

それでも、アウローラにはそれで十分だった。

有羽の耳まで赤いのを見て、胸の奥にじんわりと広がっていくものがある。

(……ちゃんと届いた)

そこに、亡き夫への裏切りの感覚は、もうほとんどなかった。

ただ、今この瞬間の自分の感情に、素直になりたいという願いだけがある。

「じゃ、行くか」

気恥ずかしさに耐えかねたように、有羽が椅子から立ち上がる。

そうして、自然な仕草で――本当に、ごく自然な動きで、アウローラの方に手を差し出した。

「立てるか?」

普段なら、「ああ」と反射的にその手を使わず、自分で立ち上がるだろう。

鍛えた足腰は、そんな手助けを必要としない。

しかし今日は、ワンピース姿で、さっき「可憐だ」と言われて、今また「傍に居るだけで嬉しい」と自分で口にした日だ。

アウローラは、少し戸惑いながらも、その手をそっと取った。

指先が触れた瞬間、二人の肩が同時にわずかに震える。

(あ、温かい……)

(なんか、思ってたより華奢だな……)

互いにそんなことを考えながら、言葉にはしない。

そのまま立ち上がると、有羽は彼女の手を離さなかった。

いや、離すタイミングを逃した、と言うべきかもしれない。

気づけば、有羽はアウローラの手を引く形で、ログハウスの方へ歩き出していた。

アウローラも、自然とその歩調に合わせる。

二人とも、繋いだ手を不自然だとは思いつつ、ほどこうとはしなかった。

外から見れば、どう見ても恋人同士のそれだと分かるような歩き方で。

その様子を、侍女隊と護衛隊は、遠慮がちに、しかししっかりと目に焼き付けていた。

全員、同じタイミングでうつむき、肩を震わせながら。

(((ああもう、見てるこっちがむず痒い!)))

有羽は、ログハウスの階段を上がる途中で、ふと思い出したように振り返る。

「そうだ。アンタ達はどうするんだ?」

言いつつも、まだ手は繋いだままだ。

アウローラは一瞬びくっとしたが、誰もそこには突っ込まない。空気を読んでいるのだ。

「大分、暇になるけど」

護衛の一人が、待ってましたとばかりに一歩前に出た。

「結界の端の方で、訓練させて貰います」

その顔は、妙に晴れやかだ。

「いやぁ、今日は訓練が捗りそうだ!」

別の護衛が、にやりと笑う。

「そうだなぁ、こう……士気が違うというか」

「殿下のご様子を目の当たりにしましたからな。これで何度かは死線も越えられる気がします」

「お前らの訓練、何と戦ってんの?」

有羽のツッコミに、護衛達はそろって肩をすくめた。

「主に己の煩悩とでございます」

「余計なことを口に出さない訓練も兼ねております」

「今まさに鍛えられておりますとも」

「今ちょっと漏れてるけどな!」

そんな軽口の応酬も、いつもの光景だ。

だが今日は、どことなく浮かれた雰囲気が混じっていた。

次に侍女隊の代表が、ぺこりと優雅に一礼する。

「わたくし達は家周りの掃除をしておきますわ」

優美な笑顔のまま、すらすらと続ける。

「その後は、家の外に控えておりますので、何かあったらお呼びください」

「外って……」

有羽は思わず眉をひそめる。

「お前ら、番犬か何かじゃないんだから――」

「番犬でも構いません」

と、侍女の一人が即答した。

「殿下がお怪我をなさらず、有羽様が無茶をなさらないなら、それで」

別の侍女が、くすりと笑う。

「それに、わたくし達の仕事は殿下の身の回りの世話ですもの。少し距離を置いて見守るのも、仕事のうちですわ」

「ね、マルガリータ様」

振られた侍女長マルガリータは、穏やかな笑みを浮かべた。

「ええ。誰かが来た時に、最初に対応する役目もありますからね」

「いや、こんな所、誰も来ない――」

「二年前のわたくし達をお忘れですか? 来る場合もあります」

その視線は、チラリと二人の繋いだ手に落ちたが、何も言わない。

目尻だけが、ほんの少し柔らかくなる。

「中のことは、お二人で」

その一言に、侍女達の内心の総意が詰まっていた。

両隊とも、にこにこ。

凄くにこにこ。

もはや「良い笑顔」というより、「何かを見守る親戚一同」の顔だ。

有羽は訝しげに目を細める。

「お、おう。解った……じゃあ、後でな」

一応そう言っておいて、これ以上突っ込むのをやめた。

何か言えば言うほど、自分で自分の首を絞める未来しか見えない。

「行ってらっしゃいませ、殿下、有羽様」

侍女達が一斉に裾をつまみ上げて礼をし、護衛達は胸に拳を当てて敬礼する。

その視線と笑顔に背中を押されるようにして、有羽はログハウスの扉を開けた。

木製の扉が、ギィ、とわずかに軋む音を立てる。

中からは、いつもの居住空間の匂い――木材と、乾いたハーブと、微かな魔力の残り香が流れ出してきた。

有羽はアウローラの手を引いたまま、一歩足を踏み入れる。

アウローラも、それに続いて中へ入る。

外から差し込んでいた朝の光が、二人の背中を一瞬だけ縁取る。

その輪郭が、扉の影にゆっくりと呑み込まれていく。

ぱたん。

扉が閉まる音が、結界内に静かに響いた。

ログハウスの中には、有羽とアウローラのふたりっきり。

昼前の、まだ少し涼しい時間帯。

窓から差し込む光が床板を照らし、埃の粒がきらきらと舞っている。

外では、侍女達が掃除を進め、護衛達が訓練の準備を始めているはずだ。

しかし、この小さな家の中に届くのは、木のきしむ小さな音と、二人の息遣いだけ。

中の様子は分からない。

有羽の「仕事場」としてのログハウス。

女としての一歩を踏み出そうとしているアウローラ。

それを、無自覚なまま受け止めてしまっている森の賢者。

――二人の行動の詳細は、まだ誰も知らない。