軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話・アウローラの回想

外の客間は、本宅よりも一回り小さいが、十分に快適だった。

丸太を組んだ壁。小さな窓からは、森の緑と、遠くの空の青が覗く。

簡素なベッドには、清潔なシーツと柔らかな枕。天井には、有羽が取り付けた簡易の風送り魔道具が、静かに空気を回していた。

アウローラは、靴だけ脱いでベッドに倒れ込んだ。

全身に広がる満腹と疲労。エアコンほどではないが、客間を満たす涼やかな風が、まぶたを重くしていく。

(……昼にあれだけ食べて、夜は肉、と言ったのだったな、私は)

ぼんやりと思い出し、少しだけ自分で苦笑する。

そんな些細な意識も、やがてとろとろと溶けていき――

意識は、静かに過去へと沈んでいった。

◇◇◇

三年前。

あの日の空は、よく晴れていた。

信じられないくらい、青かった。

城門の前の広場。

兵たちが整列し、鼓笛隊が行進曲を奏で、人々が道の両脇で旗を振っていた。

その中心に、彼がいた。

黒髪を後ろで束ね、軍装に身を包んだ青年。

まだ若いのに、肩には公爵家の紋章。幼い頃から一緒に遊び、共に学び、剣を交え、未来を語り合った、昔馴染み。

そして、数か月前に夫になった男。

『すぐ戻るさ』

出立の朝、彼は笑ってそう言った。

『東の帝国も、そう長くは持たない。あいつら、戦場で兵糧管理できないからな』

『そんな理由で勝敗を語る男に嫁いだ覚えはないぞ、私は』

『いやいや、兵站は大事だぞ、アウローラ。民を飢えさせず、兵を飢えさせず、そのうえで敵を叩く。それが「良い戦」ってやつだ』

得意げに胸を張る姿が、可笑しくて、愛おしかった。

『……それでも、危険には変わりない』

アウローラは、袖をぎゅっと掴んだ。

『英雄でも、矢一つで死ぬのが戦場だと、父上が言っていた』

『ああ、その通りだ』

彼は真面目に頷いた。

『だからこそ、生きて戻る。英雄にはならなくていい。お前の隣に、普通に立っていられたら、それでいい』

そう言って、彼はアウローラの額に軽く唇を寄せた。

『帰ったら、約束通り、あの港町に新しい学校を建てよう。孤児も、貧しい子も通えるようなやつを』

『言ったな?』

『ああ。お前が王族として、俺が領主として、きちんと形にしよう』

その約束が、たった数か月後に「叶えようのない約束」に変わるとは、その時は思いもしなかった。

◇◇◇

夫の遺体が戻ってきた日のことを、アウローラは今でも夢に見る。

城門前の広場は、あの日も晴れていた。

だが、旗は垂れ、音楽はなく、代わりに低い祈りの声と、すすり泣きが満ちていた。

棺に収められた彼は、眠っているように見えた。

顔には傷一つなく、穏やかな表情だった。

ただ――胸元の装甲の中央だけが、醜くえぐれていた。

そこに、帝国の新兵器「銃」による弾丸が穿たれたのだと、説明された。

『敵の狙撃手も、同時に死亡しております』

報告に来た将校が、淡々と続ける。

『発砲と同時に銃なる武器が破損し、爆発したとのこと。未完成の兵器だったのでしょう』

だから何だ、と叫びそうになった。

だから何だ。

だから、何になる。

彼が死んだという事実は、変わらない。

アウローラは、棺にすがりついた。

かろうじて人目を憚って声を上げることだけは止めたが、喉の奥からは獣のような呻き声が漏れた。

涙がとめどなく溢れ、視界が滲む。

その涙が頬を伝い、口元に流れ込んだときに感じたしょっぱさで、ようやく自分が泣いている事に気付いた。

(……ああ、あの人は、本当に、死んだのか)

その瞬間にだけ、妙に冷静な思考が割り込んだことを、今でも覚えている。

そして、そのすぐ後を埋め尽くしたのは――

東の帝国に対する、焼け付くような憎悪だった。

◇◇◇

その日の夜、アウローラは、一人で礼拝堂に立ち尽くしていた。

誰もいない空間。

高い天井から吊るされた燭台が、ゆらゆらと炎を揺らす。

祭壇の前で、彼女は剣を抜いた。

柄を両手で握りしめ、そのまま床に突き立てる。

「……奪ったな」

低く、小さく。

誰に聞かせるでもない声。

「私の……私たちの未来を。国の未来を」

帝国の旗。

帝国の皇帝。

帝国の貴族。

帝国の兵。

あらゆる「帝国」に、憎しみを向ける。

その憎悪が、魔力を呼び起こした。

胸の奥からせり上がる黒い炎のような感情が、そのまま光と熱へと姿を変えていく。

頭の中は殺意一色。そこには、余計な思考が入り込む余地はなかった。

だからこそ、術式は驚くほど滑らかに組み上がった。

上級の、そのさらに上。女神に祈りを捧げる者たちでさえ、滅多に触れられぬ領域の魔法陣が、礼拝堂の床に浮かび上がる。

アウローラは、祈りではなく、呪いの言葉を呟いた。

東の砦に、帝国の補給基地に、彼らの築いた軍事拠点に。

狙いは、ただそこだけ。

自国の兵のいない地点だけ。

それだけは、ぎりぎりのところで守った。

だから、その魔法は「禁忌」とは認定されなかった。

だが、その威力は、ほとんど神罰に等しかった。

帝国側のいくつもの砦が、一夜にして燃え上がった。

塔が崩れ、倉庫が吹き飛び、補給路が断たれた。

朝までに届いた報告書には、炎に焼かれた陣地の跡が描かれていた。

その光景を見て、アウローラは、何も感じなかった。

満足も、後悔もない。

ただ、乾いた虚しさだけが胸に広がっていた。

(……多分、もう二度と使えないな)

使い終わった瞬間に、自覚した。

感情だけで身体を満たすことは、おそらく二度とできない。

今やろうとしても、間違いなくどこかで躊躇する。

その一瞬の迷いが、あの規模の魔法を破綻させるには十分だ。

だから、あれは一度きりの魔法だった。

その魔法が引き金になったのかどうかは分からない。

だが、帝国は間もなく和平の使者を寄越した。

『停戦協定』『不可侵条約』

お互いに、これ以上戦争を続けても、負債が膨らむだけだと判断したのだろう。

南の王国もまた、その判断を呑んだ。

感情では、とても納得できなかった。

夫を殺されて、滂沱のような涙を流したばかりなのに。

それでも、アウローラは、王族として署名の場に立った。

あの日、文書に署名した瞬間。

ペンを握る手が震え、紙に落ちた滴が赤みを帯びていたのを、彼女は覚えている。

(ああ、本当に……人は、血の涙を流せるのだな)

和平が結ばれ、国が安堵の溜息をついたその日。

アウローラは、静かに一つの闘いを終え――そして、別の闘いに堕ちていった。

◇◇◇

それからしばらくの間、アウローラは荒れた。

新しい婚約話が持ち込まれるたび、それを片端から突き返した。

丁寧に断ったりはしない。

書状を破り捨てることすらした。

国王陛下は、深いため息をつきながらも、こう言った。

『しばらくは、好きにさせておけ』

娘の心情を慮っての言葉だった。

臣下たちは渋い顔をしたが、誰も正面から反対はしなかった。

アウローラ自身も、自分がまともではいられないことを自覚していた。

胸の内側に溜まり続ける激情が、どこにも行き場を見つけられず、焦げ付いていく。

剣を振っても、魔法の訓練をしても、足りない。

戦場にも出られない。

帝国とも戦えない。

(ならば――)

彼女は、一つの場所に目を向けた。

大陸の中央部。

人類未踏の地。

魔物が蔓延り、多くの国が探検隊を送っては、ほとんど帰ってこないという「魔境の大森林」。

「探索隊の募集、ですか?」

募集要項を読み上げた文官が、思わず眉をひそめる。

「あそこは、熟練の冒険者や騎士でさえ撤退を余儀なくされる場所ですぞ。殿下が行くような――」

「だからこそだ」

アウローラは、あっさりと言った。

「そこになら、私の怒りの行き場がある」

「殿下……」

当然のように、周囲はこぞって止めにかかった。

王族が行く場所ではない。

何を考えているのか。

危険すぎる。

だが、そのすべての言葉を――アウローラは、実力で黙らせた。

◇◇◇

訓練場。

王国最強と謳われる将軍が、額に汗を浮かべていた。

対峙するのは、軽装の鎧に身を包んだアウローラ。

「本気で来てください、将軍殿」

「すでに本気である!」

剣と剣がぶつかり、火花が散る。

将軍の剛剣がうなりを上げるが、アウローラは一歩も引かず、むしろ押し返す。

彼女の剣筋は、華奢な体格からは想像もできないほど鋭く、重い。

一撃一撃に、感情の濁流が乗っている。

魔法の訓練では、国一番の宮廷魔導師が青ざめていた。

「殿下、それは詠唱速度が人間の域を超えておりますぞ……!?」

「まだ足りん」

詠唱を短く削り、術式を簡略化し、それでいて威力を落とさない。

怒りと憎しみが、彼女の思考を研ぎ澄ませていた。

この世界には、「レベル」と呼ばれる力の尺度がある。

専用の魔道具を用いて、個人の戦闘能力や魔力を数値として測る、簡易なものだ。

一般人で1~10。

腕自慢の者で10~15。

兵士たちが20前後。

王国でも名の知れた戦士や魔導師ともなれば、30に届き。

将軍や魔導元帥となれば、40を超える。

もし、50に達する者がいれば、それはもう「英雄」と呼ばれる存在だ。

「殿下、念のため測定を」

魔導測定器を持ってきた文官が、おずおずと声をかける。

アウローラは、無言でその水晶球に手を置いた。

淡い光が灯り、数値が浮かび上がる。

『48』

場の空気が、凍りついた。

ほぼ英雄の領域。

しかもこれは、鍛錬の積み重ねだけではなく、感情の炎に焚きつけられた、一時的な上昇も含んだ数値だった。

(……これでは、もう誰も止められん)

測定器を覗き込んだ宮廷魔導師が、心の中で嘆息した。

事実、アウローラを真正面から諫められる者は、誰もいなくなった。

国王陛下は、長く黙したのち――ついに首を縦に振った。

「……条件をつける。必ず護衛を連れていけ。お前が死ねば、それこそ国難だ」

「承知した」

アウローラは、ただそれだけを言った。

◇◇◇

そして、彼女は「魔境の大森林」の前に立った。

鬱蒼とした木々。

濃い瘴気と、見えない殺気。

足を踏み入れる前から、森は侵入者を拒絶するかのような圧を放っている。

護衛として選ばれたのは、国でも選りすぐりの精鋭たち。

その誰もが、顔を強張らせていた。

「殿下、本当に――」

「怖じ気づいたか?」

アウローラは、わざと軽い口調で笑ってみせる。

「だったら、今ここで引き返してもいいぞ。私は一人でも行く」

「……行きますとも」

護衛たちは、互いに視線を交わし、小さく頷き合った。

アウローラは、腰の剣に手を添え、もう一方の手を森の奥へと向ける。

胸の内には、まだ煮えたぎるものがあった。

夫を奪われた痛み。

帝国に向けた憎悪。

行き場を失った戦意。

国を動かすことはできない。

だが、自分の身体を動かすことならできる。

(だったら、せめて――)

アウローラは、森の暗がりを見据えた。

(この命が、どこかの誰かの役に立つ場所で燃え尽きたい)

その一歩が、後に己の行く末を変える出会いへと繋がることを、このときの彼女はまだ知らない。

ただ、自分の激情を抱えたまま。

第二王女アウローラ・ウィル・ミラ・アウストラリスは、「魔境の大森林」へと足を踏み入れる。

◇◇◇

魔境の大森林は――噂以上の地獄だった。

最初に出会ったのは、一つ目の巨人。

樹々の間を縫って進んでいた時、唐突に、視界が影で塞がれた。

見上げれば、そこに立っていた。

肌は岩のようにごつごつとした灰色。

額から顎にかけて、真ん中にでんと一つだけ輝く巨大な眼球。

その瞳孔が、ぎょろりとアウローラたちを見下ろした瞬間――瞳から、白い光が奔った。

「目を閉じろ!」

アウローラの叫びと、光が降り注ぐのはほぼ同時だった。

岩が、地面が、近くの枯れ木が、みるみる石へと変わっていく。

護衛の一人が、反応が一瞬遅れ、腕を庇うようにして前に出た。次の瞬間、その腕は肘から先だけが石と化した。

「くそっ……!」

アウローラは素早く一歩踏み込み、剣に魔力を纏わせて地面を蹴る。

巨人の足首めがけて斬り払うと同時に、火の魔法を混ぜた爆裂を叩き込んだ。

石化の光も、瞼さえ閉じていれば効かない。

ならば、瞳を閉じさせればいい。

爆音と共に足首が砕け、巨体がよろめく。

その隙に、護衛たちが一斉に飛び出し、脚の腱を狙って斬り刻んだ。

一つ目の巨人――サイクロプスは、地響きを立てて倒れ込んだ。

だが、それでも息も絶え絶えと言った風で、手を伸ばしてくる。

「しぶとい……!」

アウローラは、最後にその一つ目めがけて、雷の槍を叩き込んだ。

ようやく、巨人の身体が動かなくなる。

それ一体を倒すだけで、普通の冒険者なら討伐隊が一つ要る。

だが、この森には、そういう「一体一体が災厄級」の魔物が、そこら中にいた。

◇◇◇

別の日には、樹々そのものが牙を剥いた。

幹がねじれ、枝が腕のように伸び、茂った葉の隙間から無数の黄色い目が覗く。

瘴気を孕んだ樹木が、意思を持って動き出した存在――イビルトレント。

吐き出される瘴気が、空気そのものを腐らせる。

吸い込み続ければ、それだけで肺が焼かれ、内臓が溶ける。

「風障壁、展開!」

アウローラの号令と共に、護衛の魔導師たちが風の盾を張る。

瘴気を押し返し、その隙に前衛が突っ込んで、幹を断ち切る。

しかし、切り倒したはずの幹が、なおも地面を這い、蔦が足を絡めとろうとしてくる。

「しつこいっ!」

アウローラは天に向けて杖を掲げ、炎の輪を描いた。

次の瞬間、炎の波が地表を走り、瘴気と共に樹々を焼き尽くす。

焼け焦げる匂い。

焦げた樹皮の向こうから、なおも伸びてくる黒い枝。

ようやく沈黙した頃には、護衛たちは皆、息を荒げていた。

「殿下……この森は、本当に……」

「まだ入り口も入り口のはずなのに、これで……?」

誰もが口には出さないが、心の中では同じことを思っていた。

――これは、長居する場所ではない。

◇◇◇

さらに、夜には別の地獄が待っていた。

月明かりも届かぬ森の闇の中、耳に届くのは、一定のリズムで刻まれる足音。

ざく、ざく、ざく。

それが複数、四方から近づいて来る。

息を潜める前に、真紅の瞳が闇にいくつも浮かび上がった。

全身を逆立つ毛で覆われた灰色の狼。

口元には常に血の泡を纏い、瞳には理性のかけらもない。

「レリクスウルフ……」

誰かが呻くように呟いた。

常に血を追い求める、狂気の狼。

死肉では飽き足らず、まだ温かい血を好む厄介な魔物だ。

「殿下は下がって――」

「下がる暇があるなら、前に出る!」

アウローラは剣を抜き放ち、前に躍り出る。

雷光を纏わせた一閃が、飛びかかってきた一体の首を刎ねた。

だが、仲間が殺されても、他の狼は怯まない。

むしろ血の匂いに興奮し、さらに素早く襲い掛かってくる。

護衛たちはそれぞれの得物を構え、背中を合わせて円陣を組む。

アウローラは円の最前面に立ち、剣と魔法を駆使して狼たちを斬り伏せていった。

――そんな戦いが、何日も続いた。

サイクロプス。

イビルトレント。

レリクスウルフ。

上位のオーク。

小型とはいえ竜種。

まるで「地獄の見本市」のような魔物たちを、次から次へと相手取る。

アウローラは英雄級。護衛たちもレベルは30に届き、一番下の侍女ですら25。腕利きの兵と同等の力を持つ精鋭揃いだ。

それでも――ただ、生き延びるだけで精一杯だった。

◇◇◇

そんな戦いを続けるうちに、アウローラは一つの違和感に気づき始めた。

(……起伏が、妙だ)

地形が「森」だけではない。

鬱蒼とした樹海を抜けると、突然ひらけた谷が現れたり、小さな山のような隆起が姿を見せたりする。

外から見た限りでは、ただの大森林だった。

だが、内部を歩けば歩くほど、これはただの森ではないと感じさせられる。

ある時、彼らは岩壁を背に、小さな丘の上で休息を取っていた。

樹々の影に身を隠しながら、水と口当たりの軽い食料を口にする。

「殿下、前方の地形は……」

「少し下れば、谷になっているようです。崖のような箇所も」

護衛たちの報告を聞きながら、アウローラは膝に置いた地図……というより、まだ白紙に近い羊皮紙を見つめた。

そして、ふと、かすれた声で呟く。

「……異界、か」

「殿下?」

「この森は、森そのものが『ダンジョン』になっている」

周囲の空気が、ぴんと張り詰めた。

ダンジョン。

世界各地に点在する、魔素のたまり場。

そこに流れ込む魔力が凝り固まり、浄化されず放置されると、やがてその場所は「ダンジョン」となり、魔物が発生する洞窟や空間へと変化する。

多くの者にとって、ダンジョンは危険であると同時に、宝の山でもあった。

魔物素材が取れる狩場として利用し、近くに集落を築き、財を築いた冒険者たちも世界にはいる。

だが――。

「こんな規模のダンジョンなど、聞いたことがない」

アウローラは低く言った。

「道理で、未帰還者が多いわけだ。外から見ただけでは、正体に気づけない。けれど、一度奥に入り込めば……」

「帰還は困難、というわけですね」

護衛の一人が、顔色を失いながら続ける。

「その上、この森がダンジョンだと気づける者も限られる。殿下のような、魔法技術に長けた達人クラスでなければ……」

「だからこそ、放置されてきたのだろうな」

アウローラは、小さく息を吐いた。

この大森林は、遥かな昔から存在している。

裏を返せば、すでに「安定している」とも言えた。

だが、ダンジョンである以上――いつか必ず「限界」が来る。

その時、何が起きるか。

アウローラは、教本で読んだことのある語を思い出す。

スタンピード。

魔物たちの「許容量」を越えた時に起きる、ダンジョンの崩壊。

溜まりに溜まった魔力と魔物たちが、一気に外へ溢れ出す現象。

定期的に魔物を狩り、数を調整しなければ、必ず起こる破滅の時。

だが、この森の魔物は、強すぎる。

とても「安定して狩れる」相手ではない。

国家規模の対策が必要だ。

個人や一部隊の努力でどうこうできる話ではない。

(……この情報は、必ず持ち帰らなければならない)

アウローラは決意を固めた。

百年後かもしれない。

二百年後かもしれない。

けれど、いつか必ず、この森は限界を迎える。

その時、何の準備もしていなければ――南の王国は、災厄に呑み込まれる。

「……よし」

彼女は立ち上がり、皆を見渡した。

「護衛全員に命じる。この情報を国に持ち帰れ」

「殿下……?」

「魔境の大森林は、森ではなくダンジョンだ。その旨を王城に報せ、長期的な対策を講じるよう進言しろ」

護衛たちが目を見開く。

「でしたら、殿下も共に――」

「私は、ここに残る」

即答だった。

護衛たちが、息を呑む。

侍女もまた、驚愕の表情でアウローラを見上げる。

「アウローラ様、どうするおつもりで……?」

「私は――」

アウローラは一瞬だけ視線をさまよわせ、それから、まっすぐ護衛たちを見た。

「私は、さらに森の生態を調べる」

「な……」

「まだ情報が不十分だ。どの辺りまで魔物が濃いのか、境界はどこか、魔力の流れはどうなっているか……」

「馬鹿言わないでください!」

たまらず、一人の護衛が声を荒げた。

「殿下一人を置いて、我々だけ帰れと!? ありえません!」

「我々の誰一人として、そんな命令を承服できません!」

皆の視線が、アウローラに集中する。

それでも彼女は、静かに首を横に振った。

「頼む」

その声は、小さく震えていた。

「行かせてくれ」

今にも、泣き出しそうな顔だった。

「私はもう……生きるだけでも辛いんだ」

風が、森を吹き抜ける。

ざわり、と葉が鳴る音だけが、しばらくの間、耳に届いた。

「殿下……」

護衛の一人が、かすれた声を漏らす。

「私の夫は死んだ」

アウローラは、ぽつりと言葉を重ねる。

「帝国に、奪われた。憎んだ。焼き払った。……それでも、帝国とは戦えなくなった」

和平条約。

不可侵条約。

国としての判断は正しい。

分かっている。理解している。

だからこそ、感情の行き場がなくなった。

「私の中の怒りは、行く場所を失ったままだ。戦えば国を壊す。復讐をすれば、人を巻き込む」

視線を落とし、握った拳を見つめる。

「ならばせめて、この森で……誰の迷惑にもならない形で、燃え尽きたかった」

「殿下、それは――」

「私は、死に場所を探していたんだ」

その言葉に、誰も返す言葉を持てなかった。

夫が死んだあの日に。

憎悪を帝国に向けられなくなった、その時に。

アウローラの心は、すでに折れていた。

ただ、そのことに――護衛たちは気づけなかったのだ。

◇◇◇

その時。

空気が、ふっと変わった。

森のざわめきが一瞬止み、代わりに、頭上から大きな影が落ちる。

「上……!」

誰かが叫んだ。

見上げれば、樹々の隙間から覗く空を、大きな影が横切る。

翼を広げた、巨大なシルエット。

鱗と爪。

長く伸びた尾。

二枚の翼が空を掻き、冷たい風を地上へと叩きつける。

小型とはいえ、間違いなく「竜種」だった。

「最悪のタイミングだな……!」

護衛が剣を抜き、盾を構える。

竜は、こちらを見下ろしながら、喉の奥でごろごろと音を鳴らした。

次の瞬間、その口が大きく開く。

「散開――!」

アウローラの号令が飛ぶのと同時に、熱線が地上を薙いだ。

岩肌が溶け、樹々が一瞬で灰になる。

危うく直撃を避けたものの、熱波だけで肌が焼けるように熱い。

「この距離、この高度で……!」

竜は上空から一方的に攻撃してくる。

このまま防戦一方では、じわじわと削られて、いずれ全滅だ。

全員で戦えば――「多分倒せる」。

だが、被害は必ず出る。

(このままでは、誰かが確実に死ぬ)

アウローラは、ぎり、と奥歯を噛みしめた。

(私の……自分勝手な「自殺」に、これ以上巻き込むわけにはいかない)

護衛たちは、アウローラを守るために前に出る。

だが、その姿が、彼女には鋭い杭のように胸に刺さった。

アウローラは、剣を握り直した。

「殿下!? どこへ――」

「下がってろ!」

制止を振り切り、前に躍り出る。

脚に魔力を集中させ、地面を強く蹴る。

竜の攻撃の合間を縫い、一気に崖の斜面を駆け上がっていく。

「殿下っ!」

護衛たちが叫ぶ声が、遠ざかっていく。

アウローラは、竜を見上げた。

(剣に、雷と炎を纏わせる。飛び上がり、翼の付け根を一撃で断つ――)

一か八かの、一撃必殺。

外せば終わり。

だが、当てれば、竜を落とせる。

(ここで死ぬなら、それはそれでいい)

夫の顔が、ふと脳裏を過ぎる。

棺の中の、眠るような顔。

(でも、せめて――こいつは、私が斬る)

アウローラは、喉の奥から絞り出すように呪文を紡ぎ、剣に魔力を集中させた。

その瞬間。

竜の胴体に、突然「大穴」が開いた。

「……え?」

目の前で、竜の中央部が、ふっと消し飛ぶ。

熱と光の束が、空を貫いたようだった。

炎と光が混ざり合った、極めて高密度な熱線。

とてつもない制御と魔力量。

儀式級の上級魔法。

それも、アウローラですら戦闘中には組み上げられない規模の術。

受け止めきれなくなった竜の身体が、悲鳴もなく崩れ始めた。

翼が痙攣し、口から黒い煙が漏れる。

やがて、巨大な影は力を失い、森の向こうへと落ちていった。

地響きと、遅れて届く爆音。

その余韻が消えぬうちに――

「ありゃ? 人?」

呑気な声が、上から聞こえた。

アウローラたちが背を預けていた岩壁の上。

遥か高所から、一人の男が覗き込んでいた。

「……何やってんの、こんな場所で?」

男はそう言うと、ふわりと地上へ降り立った。

一切の詠唱も、術式の光もない。

風の魔法で衝撃を消しながら、音もなく岩壁から飛び降りたのだと、アウローラは遅れて理解した。

見た目は、どこにでもいそうな若い男だった。

黒髪。

この世界では珍しい、真っ黒な髪。

少し眠たげで、呑気そうな顔立ち。

だが――。

(……似ている)

その容姿は、その黒髪は。

死んだ夫に、どこか、ほんの少しだけ似ていた。

胸が、きゅっと痛む。

男は、ぽかんと口を開けて立ち尽くす探検隊を見渡し、首を傾げた。

「えーっと……もしかして、迷子?」

それが、アウローラと有羽の、初めての出会いだった。