軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第103話・雷鳴

遠い記憶を思い出す。

黒髪を後ろで束ね、いつも優しく笑っていた人の姿。

同い年。幼いころから同じ講義を受け、同じ剣で汗を流し、同じ道を歩いた。

公爵家の長男で、王国の将来を背負うべき神童で、そして――アウローラの婚約者。

名を呼ぶだけで、喉が熱くなる。

けれど記憶の中の彼は、いつも同じ顔で立っている。礼節を崩さず、冗談を言っても品を失わず、身につけた正しさを誰より自然に扱う人だった。

剣も魔法も学業も、何もかもが高水準。

人に慕われることを当然のように受け止める器。

公爵家の名に恥じぬ若君。

けれど、アウローラだけは知っている。

彼は、意外と照れ屋だった。

民に「ありがとうございます」と頭を下げられたとき。

部下に憧れの眼差しで見上げられたとき。

冷静に言葉を返し、笑って受け流しながら――ほんの一瞬、視線を外す癖があった。

ほんの僅かだけ、恥ずかしそうに。

賞賛や憧憬が当たり前ではないと知っているからこその、ぎこちなさ。

その癖を見つけるたび、アウローラは笑った。

彼は困った顔で「笑わないでくれよアウローラ」と言う。

その声が、やけに優しかった。

未来はそこにあると、信じていた。

心の底から、信じていた。

だから――その知らせが届いたとき、心が砕けそうになる。

「……戦死、です」

報告の声がやけに遠い。王都の執務室は明るいのに、目の前だけが暗い。

言葉が頭に入ってこない。聞き返した自分の声が、他人のもののように響く。

死因は、銃。

帝国の新兵器。

胸を撃ち抜いたと、淡々と告げられる。

その淡々とした説明が、アウローラの中の何かを壊した。

(銃……? そんなもので?)

そんなもので。そんな不条理で。

アウローラの世界の形が歪んだ。

王都の守りを任されていたアウローラは、帰還を待っていた。

必ず帰ってくると、疑わなかった。

帝国を打ち倒し、笑って報告に来ると――根拠もなく、確信していた。

だから……棺の中で彼を見た時、理解が遅れた。

安らかな寝顔。

本当に、ただ眠っているだけに見えた。

永遠に起きないという事実が、目に映る寝顔と噛み合わない。

胸の甲冑だけが生々しくて。

穿たれた穴が、どうしようもない現実を突きつけてきて。

……葬儀の日の夜、アウローラは礼拝堂に一人で入った。

灯火が小さく揺れる。石の床は冷たく、祈りの声だけが高く響く。

どうか、安らかに眠れますように。

どうか、苦しみなく。

どうか、せめて魂だけは穏やかでありますように。

そう祈っていた、はずだった。

けれど、祈りは途中で止まった。

胸の奥の空白に、別のものが満ち始める。

熱い。苦い。黒い。

指先が震え、祈りの言葉が唇から剥がれ落ちた。

気づけば立ち上がっていた。

腰の剣を抜いていた。

そして、激情のまま石床に突き立てる。

「……奪ったな」

言葉が、唇からこぼれた。

声が震えているのに、王女のものとは思えない。

「国の未来を、奪ったな」

呼吸が荒くなる。

胸の奥で何かが灼けていく。

涙ではない。嗚咽でもない。もっと熱く、もっと鋭い何か。

「私の……私たちの未来を奪ったな」

その瞬間、身体の内側で、魔力が軋む。

火。

魔力循環を限界まで励起する。

血が熱に変わる感覚。心臓が叩く音が、魔力の鼓動に重なる。

風。

放電路を強制生成する。

空間に道を作る。見えない線を、無理やり繋ぐ。

これまでも、火と風を合わせて雷を作ったことはある。

戦場で何度も使った。制御できる範囲で。自分の手の中で。

けれど、その夜の雷は違った。

その時に宿ったものは――雷鳴そのものが肉体を借りて生まれたような暴威。

熱く。眩しく。痛い術式の渦。

少しでも雑念が混ざれば、術者自身が灰になる領域。

にもかかわらず、不思議と怖くなかった。

怖いという感情が、怒りに焼かれて消えていた。

そして――心が決まってしまった。

決めた瞬間、雷も定まった。

定まってしまったのだ。

翌日。

制止の声は、すべて振り切った。

父の命も。

側近の懇願も。

侍女たちの涙も。

何も届かなかった。

死んだ彼の代わりに、自分が戦場へ赴く。

それ以外の考えは皆無で。踏み止まる良心など欠片も見えなくて。

戦場では帝国軍が押していた。

銃による制圧。

王国軍は前線を維持するだけで精一杯。

剣で届く前に撃たれ、魔法を編む前に撃たれ、兵が倒れていく。

見えた。

帝国兵の列が。

砦が。

煙が。

怒号が。

そして、その向こうにある、彼を奪った国の息遣いが。

一切合切、どうでもよかった。

戦局も。

損耗も。

その先の政治も。

ただ、許せなかった。

あの人を奪った帝国が、目の前で息をしていることが耐えられなかった。

だからアウローラは手を掲げる。

迷いなく。

躊躇なく。

胸の底のすべてを燃料に変えて。

「―― 絶雷開放(マグナアストラペー) 」

最初の稲妻が落ちたとき、空が裂けた。

音が遅れて届くはずの雷鳴が、身体の内側から響いた。

嵐が生まれた。

雷の柱が一本ではなく、無数に落ちる。

落雷のたびに地面が白く焼け、影が消える。

帝国兵の列が、悲鳴ごと焼けた。

甲冑が溶け、旗が燃え、地面そのものが黒く弾ける。

砦の壁が砕け、木柵が爆ぜ、火の粉と灰が竜巻のように舞い上がる。

幾千という命が、音もなく消えた。

耳を塞ぎたくなるような絶叫。

目を背けたくなるような焦土。

それでもアウローラは、目を逸らさなかった。

むしろ――嗤っていた。

焦土と化した戦場を見て。黒い炭と化した帝国兵を見て。

アウローラは、嗤っていた。

次の瞬間、力が抜けた。

支えていた風の道が解け、火の循環が途切れる。

膝が折れ、視界がぐらりと傾く。

意識が落ちる直前、遠くで誰かが王女の名を叫ぶ。

少しだけ晴れた心を自覚しながら。

死に絶える帝国兵を、笑顔で見つめながら。

――アウローラの意識は落ちた。

次に目を開けたとき、天井が見えた。

王国の天幕。薬草の匂い。湿った布の感触。

喉が痛む。

身体が重い。

視界の隅に、心配そうな顔が並ぶ。医療兵。護衛。神官。

皆の顔が、怖いものを見た後の顔。

「……殿下」

誰かが言った。

言葉を選んでいる声。

「帝国より……停戦の申し出がありました。不可侵条約の提案です」

停戦。

その言葉が耳に入った瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。

(ふざけるな)

第一の感情は、それ以外にない。

あの人を奪っておいて。

戦場の形を歪めておいて。

今さら「止めましょう」と言うのか。

けれど、次の瞬間理屈が追いつく。

王国側も被害が大きい。銃で多くが死んだ。

ここで戦を続ければ共倒れになる。

呑むしかない。

受け入れるしかない。

その事実が、じわじわと現実を戻してくる。

現実が戻ると、アウローラはようやく――自分が何をしたかを思い出す。

雷の規模。

制御の綱渡り。

僅かでも誤れば、自分が灰になる禁呪級の代物。

いや、それどころか――王国軍も、味方の砦も、下手をすれば民の住む地にまで被害を広げたかもしれない。

(……私、何を)

遅すぎる恐怖が、背筋を凍て付かせる。

怒りに焼かれて消えていた「怖さ」が、今になって戻ってきた。

そして、気づいてしまう。

一度でも心に歯止めができたなら、二度と同じ場所には立てない。

あの領域は、狂気で踏み越える壁。

正気を取り戻した瞬間に、扉は閉まり鍵がかけられる。

アウローラは本来、負の感情から遠い。

明るく、活発で、笑う方が似合う人間だ。

だからこそ、あの雷は「二度と辿り着けない例外」になった。

しかし……それでも……消えるはずがない。

あの日の無念。

あの日の憎しみ。

あの人の寝顔と、穿たれた甲冑の穴。

奪われた未来の形。

胸の奥に、まだ雷鳴が残っている。

鳴り響く音だけが、戦争の終わりを拒んでいる。

◇◇◇

遠い記憶を思い出す。

帝国がまだ東部を統一しきっていなかった頃。

攻め取った領土の書庫で、それは見つかった。

古い棚の奥。

湿気と埃にまみれた箱の中。

羊皮紙でも従来の紙でもない、妙な質感の束。

そこに書かれていた設計図は、帝国のどの技術書とも違っていた。

文字がまず違う。

文法が違う。

発想が違う。

まるで別世界から持ち込まれたような設計。

金属の管。

火薬めいた概念。

引き金。

弾丸。

圧力の逃がし方。

単純に見えて、あまりにも繊細。

帝国の技術者たちは顔をしかめ、魔導師たちは「こんなもの、まともに動く訳がない」と吐き捨てた。

だがウィルトスだけは、その紙束を見たとき直感で悟った。

これは力無き者に力を授ける武器だ、と。

訓練に年月を要する剣でもない。

膨大な素質や魔力を必要とする魔法でもない。

握り、狙い、撃つ。

それだけで、農民が翌日に兵を殺せるかもしれぬ武器。

その本質を、ウィルトスは一目で嗅ぎ取った。

だから――作らせた。

「面白い」

ウィルトスのその一言で、帝国は動いた。

帝国は鉄工生産が盛んだ。

鍛冶は強い。鋳造も進んでいる。武具の改良を戦の中で重ねてきた土壌がある。

だが、魔法の才能が低い者も、筋肉の無い者も、帝国には山ほどいる。農民も職人も、徴募されれば兵になる。しかし彼らは剣を握っても一朝一夕では強くならない。

ならば、強さの方を降ろしてやればいい。

再現は困難だった。

材料の精度が足りない。筒の内側の滑らかさが出ない。発火が安定しない。弾が真っ直ぐ飛ばない。暴発する。破片が飛ぶ。兵の指が消える。

それでも工房は止まらず……不完全ながら、どうにか形になった。

そして完成した試作品が、帝王の前に差し出された日。

その試射を直接見たあの日。

乾いた破裂音。

短い閃き。

そして、分厚い鉄板に空いた穴。

大砲ほどの轟音ではない。

魔法ほどの派手さもない。

だが、その小ささが逆におぞましかった。

(これは、弱い者に牙を与える)

剣の間合いに入れない者が、間合いの外から殺せる。

勇気のない者が、勇気のある者を倒せる。

才能のない者が、才能のある者を打ち抜ける。

そしてその先――民が、翌日に兵を倒せる。

こんなものが、兵の手に収まる。

これが隊列を組んで一斉に撃たれたらどうなる。

騎士の突撃は。

魔導師の詠唱は。

名のある英雄は。

どこまで通じる。

その時のウィルトスは、背筋に走る寒気すら快感として味わった。

(――撃ちたい)

純粋にそう思った。

危険。均衡の崩壊。軍事バランス――そんなことは後でいい。

まずは撃ちたい。

まずは試したい。

まずは敵がどう死ぬか見てみたい。

――いま思えば、その時点でもう酔っていたのだ。

戦いに。

勝利に。

新しい武器に。

相手が自分の知らぬ死に方をする、その一方的な優位に。

新兵器「銃」。

新兵種「銃兵」。

帝都の訓練場では、若い兵が目を輝かせて引き金を引いた。

熟練の騎士が顔をしかめた。

老練な将たちが便利さと危うさの両方を嗅ぎ取った。

だがウィルトスは、その全部を押し切った。

それ故に目標を定める。

南へ。

南王国へ。

東部を統一し、さらなる敵を求めた帝王の進撃は、自然に南を向いた。

国境線に近づくほど、胸が踊った。戦いの予感ではない。銃声の予感だ。

当時の自分は、醜かったとウィルトスは思う。

戦いを手段ではなく目的にした。勝つためではなく、撃つために進んだ。

国境の砦で、辺境伯と舌戦をしている時ですら、頭の片隅ではこう思っていた。

(早く撃ちたい)

大砲と違って携行できる。

魔法と違って、魔力の起こりがない。

察知が難しいのに、鉄を貫く。

鎧に守られた歩兵が崩れる。

盾を構えた兵が吹き飛ぶ。

馬上の騎士が、槍を構える前に落ちる。

面白いように敵が倒れた。

銃声が鳴るたびに、酩酊した気分になって嗤った。

戦場は、酒場だった。

銃声は、乾杯の音だった。

あまりに――浅ましかった。

その途中、若き公爵令息が倒れた。

王国の旗を背に、前へ出すぎた男。剣も魔法も巧いと聞いていた。部下の動きが整っていた。将としての才があった。

撃ち抜かれた瞬間、彼は驚いた顔をした。驚いたというより、理解が追いついていない顔だった。

ウィルトスは、その顔を見たはずだった。

見たはずなのに――胸は動かなかった。

(敵が減った)

戦果の一つ。

敵将撃破の一報。

その程度にしか捉えていなかった。

いま思えば、それがどれほどの火種だったか。

どれほど深く、相手の心臓を踏み抜いたのか。

想像すらせずに。

やがて、銃の使用が増えすぎた。

製造も整備も追いつかぬまま、前線で撃たせ続けたせいか、暴発も増える。

手が吹き飛ぶ兵。

顔を焼かれる兵。

湿気や汚れで不発となり、混乱する銃兵。

その頃になってようやく、ウィルトスは少しだけ正気に返る。

(……やり過ぎたかもしれん)

そう思った。

踏み込み過ぎたかもしれぬ。

兵の扱いも、新兵器の扱いも、調子に乗り過ぎたかもしれぬ。

だが、その時でもなお根本では楽観していた。

戦果は十分。

南王国は削れている。

このまま押せば、属国にするのも難しくない。

呑気だった。

浅かった。

酔っていた。

――底冷えする、稲妻のような声が聴こえる、その時まで。

「―― 絶雷開放(マグナアストラペー) 」

その言葉が戦場に落ちた瞬間、ウィルトスは理解できなかった。

何が起きるのか。何を意味するのか。どんな術式なのか。

理解する前に、空が裂けた。

稲妻が落ちる。

一度ではない。二度でもない。

雨のように、ではない。

雨よりも密に、釘のように、矢のように。

空そのものが、牙を剥いた。

轟音。

爆音。

絶叫。

悲鳴。

雷の雨。

雷の嵐。

雷という概念を、軍勢の上に丸ごと叩きつけたような暴威。

視界が真っ白に潰れ、次に見えた時には誰かが燃えていた。

「陛下!」

誰かの叫びが聞こえた。

次の瞬間、多くの部下が、多くの「友」が帝王を守っていた。

傍仕えの従者が、ウィルトスの前に立った。

古くから仕える忠臣が、盾を重ねた。

頼りになる魔導師が、歯を食いしばったまま障壁を積み上げて。

壁だった。

帝王の周りを、肉と鉄で塞ぐように。

その瞬間、ウィルトスは初めて恐怖した。

自分が死ぬ恐怖ではない。

自分のせいで、彼らが死ぬ恐怖だ。

「下がれ!」

そう叫んだはずの声は、雷鳴に潰れる。

届かない。届くはずがない。この雷雨の中で、言葉など紙切れだ。

焼け焦げる匂い。

肉が焼ける匂い。油が燃える匂い。鉄が熱で歪む匂い。

それらが混ざり、戦場そのものが炉になった。

魔導師が歯を食いしばり、血を吐き、なお支える。

騎士が焼ける匂いがする。

耳元で誰かが何か叫んでいるが、もう聞き取れない。

雷の雨の中で、人の形が壊れていく。

……やがて、嵐が引いた。

音が遠のく。白さが消える。視界が戻る。

戻った視界の中で、ウィルトスは立っていた。

立ってしまっていた。

周囲には黒い炭が散らばっている。

倒れているのは兵だとわかる。けれど――誰が誰か、わからない。

形がない。名札もない。顔もない。声もない。

ただ、炭がある。

砦の石壁は焼けてひび割れ、槍は曲がり、旗は燃え尽き、地面は焦土になっていた。

生き残った者がいる。膝をつき、何も言えず、ただ口を開けている。

叫ぶ力すら奪われた顔。

……そんな光景を目に焼き付けた後、ウィルトスの喉が詰まった。

何かが胸からせり上がる。

――涙だった。

ウィルトスはその場で崩れ落ちた。

帝王が地面に膝をつき、泥と灰を掴み、震えた。

泣いた。

咽び泣いた。

生涯初の慟哭だった。

祖父が死んだ幼い時でさえ、ここまで泣かなかった。

両親が死んだ若い時でさえ、拳を握って耐えた。

帝王は泣かない。それが誇りで、それが形で、それが国の支柱だった。

だが――この炭の前で、誇りは何の役にも立たない。

(……何をしてしまった)

敵を追い詰めすぎてはならない。

逃げ道は用意しなければならない。

さもなくば敵は死兵になる。

そんなこと、わかっていたはずなのに。

わかっていたのに、忘れた。

戦いを目的にした。

相手を殺すことを快楽にした。

銃の優位に酔い、踏み込み過ぎ、相手の逃げ道を焼き払った。

その代償が、ここにある。

炭になった者たちは、命令を聞いただけだ。

帝王の言葉を信じただけだ。

帝国のために戦っただけだ。

なのに、帝王だけが生きている。

その事実が、喉を裂いた。

陣地から退いた後、宰相が天幕に入ってきた。

冷静なはずの宰相の顔が、初めてみるほど青白い。

「停戦を提案します」

ウィルトスは、返事をしなかった。

しなかったというより、できなかった。

宰相は言葉を続けた。

被害が大きすぎること。兵の補充が追いつかないこと。補給線が崩れていること。

そして何より――次にもう一度あれが落ちれば帝国は終わること。

終わってしまう。

国が死ぬ。

帝国が焼ける。

そこまでされたら、こちらも死兵になる。

相打ち覚悟で南王国に攻めるしかない。

だがそれは勝利ではない。瓦礫の上で立つだけだ。

帝王が夢見た進撃ではない。

あれだけの規模の魔法を再度使えるかどうかは、わからない。

だが、分からぬからこそ試す訳にはいかない。

国家の命運を賭けて「たぶん二度目はない」と楽観するほど、帝王も、宰相も、将たちも、もう酔ってはいなかった。

「不可侵条約を結ぶべきです」

ウィルトスは笑った。

枯れ果てた喉で、笑った。

「攻め込んでおいて危うくなったから停戦、か。恥の極みだな」

宰相は一瞬だけ目を伏せ、しかしすぐに言った。

「恥をお呑みくだされ。帝国を生かすためです」

その言葉が、矢のように刺さる。

帝王の矜持を刺し、それでもなお国を残すための現実を突きつける、矢のような諫言。

ウィルトスは、呑んだ。

呑むしかなかった。

これ以上、兵を失えない。

どれだけの友が死んだ。

どれだけの忠臣が焦げた。

自分の醜悪な酔いのせいで、どれだけの命が消えた。

恥でもいい。

屈辱でもいい。

帝国という国を活かすためなら、汚名も不徳も飲み込む。

それが帝王の役目だと、その時ようやく思い出した。

だが。

それでも。

ウィルトスの中から、何もかもが消えたわけではない。

後悔がある。

無念がある。

涙の苦悶がある。

そして――憤りがある。

あの雷で多くの友を喪った。

あの白い光に、名前のある命が焼き尽くされた。

戦での失態は、確かにウィルトス自身のもの。

慢心も、傲慢も、酔いも、全て自分の罪。

だが、それはそれとして。

多くの帝国兵を消し炭に変えたあの王女を、許せるはずがなかった。

戦場の理屈では整えきれぬ感情がある。

過ちを認めてもなお、許せぬものがある。

散った英霊たちの墓前に立つたび、胸の底で煮え続けるものがある。

(借りは返す。必ず、返す)

帝王とは、国家の顔だ。

顔は笑っても、内側の傷は隠せない。

傷が残ったままでも、前に進むしかない。

それが帝王だと、ウィルトスは学んだ。

◇◇◇

そして今――エルム大河には冷気が帯びている。

気温が低い訳ではない。漂う空気が冷え切っているのだ。

ウィルトスは目を細め、河向こうのアウローラを見る。

アウローラは拳を握り、川向うのウィルトスを見る。

稲妻の王女。幾千の帝国兵を炭に変えた女。

進撃の帝王。数多の王国兵を穴だらけにした男。

三年前のあの日から、双方の国が最も恐れ、最も憎み、そして最も忘れられない存在。

憎悪がある。

憤怒がある。

止めようのない殺意がある。

だが同時に――胸の奥のどこかで、別の声もする。

(追い詰めすぎるな)

(踏み止まれ)

互いに過ちを犯さないよう、心を必死に律している。

互いに胸に抱えるものはひとつではない。憎悪と憤怒に溺れぬ、為政者としての理性がある。

お互いがお互いを、見返す。

その目に、三年前の嵐の残響が見える気がした。

きっと、同じだ。二人とも、終わったはずの戦が、胸の内で終わっていない。

それでも、ここまで来た。

河を挟んで、宿敵と向き合うところまで来た。

全てを焼き尽くしたあの稲妻は、今も雷鳴を轟かせている。

それは王女の心の中でも、帝王の胸の奥でも同じ。

雷鳴は――ずっとずっと、鳴り続けている。