作品タイトル不明
第八章「恋愛フラグ実況中」
晩餐会から一週間が経った。
王太子殿下の支持率が壊滅的な数字を記録したことは、翌日の朝刊各紙が一面で報じた。
『社交界通信』に至っては『殿下、三股疑惑で四面楚歌』という見出しをつけており、私はその紙面をそっと裏返してから朝食を食べた。
世間は相変わらず騒がしかったが、私自身の生活はむしろ落ち着きを取り戻しつつあった。
実況は止まらないままだったし、クロード卿の護衛も続いていたが——なんというか、それが日常になっていた。
朝、クロード卿が来る。
一緒に外出する。
実況が何かを暴露する。
クロード卿がため息をつく。
私が謝る。
夕方、彼が帰る。
そういうリズムが、気づけば出来上がっていた。
◆
問題が起きたのは、ある穏やかな午後のことだった。
屋敷の庭で、私は読みかけの本を持って東屋に向かっていた。
クロード卿は少し離れた場所で、屋敷の警備状況を確認していた。
東屋に着いて本を開いた瞬間、空が急に暗くなった。
見上げると、雲が広がっている。
天気予報というものがこの国にあるとすれば、今日は晴れのはずだった。
しかし空は晴れを忘れたらしく、ぽつ、ぽつ、と雨が落ちてきた。
『おっと急な雨! 主人公、東屋にいるので雨は防げますが、本が心配です! そしてヴァルナー卿、現在庭の外縁部を巡回中なので雨に当たっています!』
私は立ち上がって庭の端を見た。
確かにクロード卿が、雨の中を歩いていた。
傘はない。
足を止めて空を見上げているが、戻ってくる様子がなかった。
「ヴァルナー卿! こちらへどうぞ!」
声をかけると、彼はこちらを見た。
それから短く、
「任務中ですので」
と答えた。
「雨に当たりながら任務をする必要はありませんわ!」
「問題ありません」
「問題ありますわ!」
私は東屋に置いてあった予備の外套を手に取り、傘代わりに頭の上にかぶせながら、雨の庭へ走り出た。
クロード卿のところまで駆けていき、外套を差し出した。
「これを——」
「ローゼン嬢、雨の中に出る必要は——」
「必要はないのはわかっています。でも、ぬれているのを見て黙っていられませんの」
クロード卿が私を見た。
雨が外套を叩いていた。
彼の制服の肩が、すでに濡れていた。
しばらくの間があった。
それから彼は静かに外套を受け取り、肩にかけた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
二人で東屋へ歩いた。
雨が強くなってきていた。
東屋の屋根を雨粒が叩く音が、思いがけず心地よかった。
東屋のベンチに並んで座った。
というより、小さな東屋なので自然と近い距離になった。
私は本を膝の上に置いた。
クロード卿は濡れた外套を肩にかけたまま、庭の様子を確認していた。
雨はしばらく続きそうな空の色をしていた。
しばらく無言で雨を眺めた後、クロード卿がふと口を開いた。
「ローゼン嬢は、読書が好きなのですか」
「はい。特に歴史書と——あと、たまに冒険小説なども」
「意外です」
「そうですか?」
「お嬢様らしい本を読まれると思っていました」
「お嬢様らしい本とは、たとえば」
「恋愛小説とか、花の図鑑とか」
私は少し笑った。
「花の図鑑も読みますが、冒険小説の方が好きです。主人公が知恵と度胸で切り抜けていく話が特に」
「……なるほど」
「ヴァルナー卿は、読書はされますか」
「兵法書と、戦史の記録を主に」
「仕事と繋がっていますのね」
「趣味と仕事の区別が、あまりないもので」
それを聞いて、私はなんとなく納得した。
この人はおそらく、昔から騎士一筋で生きてきた人なのだ。
感情より判断を、感傷より行動を選んできた、そういう人。
「……ヴァルナー卿は、騎士団長になることが、ずっと目標でしたか」
「物心ついた頃には、そうなっていました」
「後悔はありませんか」
珍しい質問をしてしまったと思った。
立ち入りすぎたかもしれない。
撤回しようとした瞬間、彼は答えた。
「ありません。ただ——」
少し間があった。
「想定外のことが多いとは、思っています。最近」
その言い方が、どことなく可笑しかった。
私はくっと笑いをこらえた。
「それは……わたくしのせいですわね」
「否定はしません」
「ひどいですわ」
「事実です」
それからまた少し沈黙があって、今度は二人とも小さく笑った。
声に出した笑いではなく、静かな、ほんの少しの笑いだった。
雨の音だけが続いていた。
◆
問題は、その後に起きた。
雨が上がりかけた頃、私は本を読もうと手元を見た。
ページが、雨で少し波打っていた。
「あ……」
「どうしましたか」
「本が少し、濡れてしまって」
「見せてください」
クロード卿が本を受け取り、ページをそっと開いた。
丁寧な手つきだった。
騎士団長の手が、意外なほど静かにページをめくるのを、私は見ていた。
「ここまでなら乾かせます。急いで屋敷に持ち込めば」
そう言いながら、彼は本を私に返した。
その時、本を受け取ろうとした私の手と、彼の手が触れた。
一瞬のことだった。
ほんの一瞬、指が触れた。
それだけのことだった。
それだけのことなのに。
『おっとここで騎士団長、今完全にときめきましたねぇ! 心拍数が跳ね上がりました! 表情は微動だにしていませんが内側は大変なことになっています! これは恋愛フラグの発生を確認!』
東屋が静止した。
クロード卿の耳が、じわじわと赤くなった。
見ていないふりをしようとしたが、彼の耳は正直だった。
赤い。
耳が赤い。
真っ赤だ。
私の方も、じわじわと熱くなってきた。
頬が、熱い。
顔が、熱い。
これは雨上がりの気温のせいではない。
「……ロ、ローゼン嬢」
「は、はい」
「今の実況は」
「わたくしには止められませんので」
「……」
「本当に申し訳ありません」
『おっと主人公も現在大変なことになっています! 顔が赤い! 目が泳いでいる! 落ち着かせようと本を強く握ったところページが増えて折れました!』
「折れましたの今!?」
我に返って本を見ると、本当に折れていた。
さっきまで濡れた心配をしていたページが、今度は折れた。
散々だった。
クロード卿が立ち上がり、庭の方を向いた。
背中を向けることで、顔を見せないようにしているとわかった。
「雨が上がりました。屋敷に戻りましょう」
「……はい」
私も立ち上がった。
二人で並んで屋敷へ向かいながら、私は自分の頬が冷めるのを待った。
冷めなかった。
『おっとここで恋愛フラグの立て続けを確認中! 二人とも黙っていますが、内側は大変なことになっています! 本日のハイライトシーンになるでしょう!』
「ハイライトにしないでくださいませ……」
私が呟くと、クロード卿が前を向いたまま、
「同意します」
と低い声で言った。
その声が、少しだけかすれていた。
『騎士団長の声、わずかに震えています! 隠しきれていません! 正直な身体です!』
「……」
クロード卿は何も言わなかった。
言わなかったが、歩く速度が少し上がった。
私はその後ろを、頬を冷ましながら歩いた。
屋敷の扉が見えた頃には、二人とも一言も喋っていなかった。
扉を開ける前に、クロード卿がひとこと言った。
「……今日のことは」
「忘れます」
「忘れてください」
「全力で」
「お願いします」
それから二人とも扉を開けて屋敷に入った。
『なお実況は忘れません。しっかり記録しております』
「記録しなくていいんですのーーー!!」
私の叫びが屋敷の廊下に響いた。
リナが駆けつけてきて、二人の顔を見比べて、そっと踵を返した。
賢い侍女だった。