軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八章「恋愛フラグ実況中」

晩餐会から一週間が経った。

王太子殿下の支持率が壊滅的な数字を記録したことは、翌日の朝刊各紙が一面で報じた。

『社交界通信』に至っては『殿下、三股疑惑で四面楚歌』という見出しをつけており、私はその紙面をそっと裏返してから朝食を食べた。

世間は相変わらず騒がしかったが、私自身の生活はむしろ落ち着きを取り戻しつつあった。

実況は止まらないままだったし、クロード卿の護衛も続いていたが——なんというか、それが日常になっていた。

朝、クロード卿が来る。

一緒に外出する。

実況が何かを暴露する。

クロード卿がため息をつく。

私が謝る。

夕方、彼が帰る。

そういうリズムが、気づけば出来上がっていた。

問題が起きたのは、ある穏やかな午後のことだった。

屋敷の庭で、私は読みかけの本を持って東屋に向かっていた。

クロード卿は少し離れた場所で、屋敷の警備状況を確認していた。

東屋に着いて本を開いた瞬間、空が急に暗くなった。

見上げると、雲が広がっている。

天気予報というものがこの国にあるとすれば、今日は晴れのはずだった。

しかし空は晴れを忘れたらしく、ぽつ、ぽつ、と雨が落ちてきた。

『おっと急な雨! 主人公、東屋にいるので雨は防げますが、本が心配です! そしてヴァルナー卿、現在庭の外縁部を巡回中なので雨に当たっています!』

私は立ち上がって庭の端を見た。

確かにクロード卿が、雨の中を歩いていた。

傘はない。

足を止めて空を見上げているが、戻ってくる様子がなかった。

「ヴァルナー卿! こちらへどうぞ!」

声をかけると、彼はこちらを見た。

それから短く、

「任務中ですので」

と答えた。

「雨に当たりながら任務をする必要はありませんわ!」

「問題ありません」

「問題ありますわ!」

私は東屋に置いてあった予備の外套を手に取り、傘代わりに頭の上にかぶせながら、雨の庭へ走り出た。

クロード卿のところまで駆けていき、外套を差し出した。

「これを——」

「ローゼン嬢、雨の中に出る必要は——」

「必要はないのはわかっています。でも、ぬれているのを見て黙っていられませんの」

クロード卿が私を見た。

雨が外套を叩いていた。

彼の制服の肩が、すでに濡れていた。

しばらくの間があった。

それから彼は静かに外套を受け取り、肩にかけた。

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

二人で東屋へ歩いた。

雨が強くなってきていた。

東屋の屋根を雨粒が叩く音が、思いがけず心地よかった。

東屋のベンチに並んで座った。

というより、小さな東屋なので自然と近い距離になった。

私は本を膝の上に置いた。

クロード卿は濡れた外套を肩にかけたまま、庭の様子を確認していた。

雨はしばらく続きそうな空の色をしていた。

しばらく無言で雨を眺めた後、クロード卿がふと口を開いた。

「ローゼン嬢は、読書が好きなのですか」

「はい。特に歴史書と——あと、たまに冒険小説なども」

「意外です」

「そうですか?」

「お嬢様らしい本を読まれると思っていました」

「お嬢様らしい本とは、たとえば」

「恋愛小説とか、花の図鑑とか」

私は少し笑った。

「花の図鑑も読みますが、冒険小説の方が好きです。主人公が知恵と度胸で切り抜けていく話が特に」

「……なるほど」

「ヴァルナー卿は、読書はされますか」

「兵法書と、戦史の記録を主に」

「仕事と繋がっていますのね」

「趣味と仕事の区別が、あまりないもので」

それを聞いて、私はなんとなく納得した。

この人はおそらく、昔から騎士一筋で生きてきた人なのだ。

感情より判断を、感傷より行動を選んできた、そういう人。

「……ヴァルナー卿は、騎士団長になることが、ずっと目標でしたか」

「物心ついた頃には、そうなっていました」

「後悔はありませんか」

珍しい質問をしてしまったと思った。

立ち入りすぎたかもしれない。

撤回しようとした瞬間、彼は答えた。

「ありません。ただ——」

少し間があった。

「想定外のことが多いとは、思っています。最近」

その言い方が、どことなく可笑しかった。

私はくっと笑いをこらえた。

「それは……わたくしのせいですわね」

「否定はしません」

「ひどいですわ」

「事実です」

それからまた少し沈黙があって、今度は二人とも小さく笑った。

声に出した笑いではなく、静かな、ほんの少しの笑いだった。

雨の音だけが続いていた。

問題は、その後に起きた。

雨が上がりかけた頃、私は本を読もうと手元を見た。

ページが、雨で少し波打っていた。

「あ……」

「どうしましたか」

「本が少し、濡れてしまって」

「見せてください」

クロード卿が本を受け取り、ページをそっと開いた。

丁寧な手つきだった。

騎士団長の手が、意外なほど静かにページをめくるのを、私は見ていた。

「ここまでなら乾かせます。急いで屋敷に持ち込めば」

そう言いながら、彼は本を私に返した。

その時、本を受け取ろうとした私の手と、彼の手が触れた。

一瞬のことだった。

ほんの一瞬、指が触れた。

それだけのことだった。

それだけのことなのに。

『おっとここで騎士団長、今完全にときめきましたねぇ! 心拍数が跳ね上がりました! 表情は微動だにしていませんが内側は大変なことになっています! これは恋愛フラグの発生を確認!』

東屋が静止した。

クロード卿の耳が、じわじわと赤くなった。

見ていないふりをしようとしたが、彼の耳は正直だった。

赤い。

耳が赤い。

真っ赤だ。

私の方も、じわじわと熱くなってきた。

頬が、熱い。

顔が、熱い。

これは雨上がりの気温のせいではない。

「……ロ、ローゼン嬢」

「は、はい」

「今の実況は」

「わたくしには止められませんので」

「……」

「本当に申し訳ありません」

『おっと主人公も現在大変なことになっています! 顔が赤い! 目が泳いでいる! 落ち着かせようと本を強く握ったところページが増えて折れました!』

「折れましたの今!?」

我に返って本を見ると、本当に折れていた。

さっきまで濡れた心配をしていたページが、今度は折れた。

散々だった。

クロード卿が立ち上がり、庭の方を向いた。

背中を向けることで、顔を見せないようにしているとわかった。

「雨が上がりました。屋敷に戻りましょう」

「……はい」

私も立ち上がった。

二人で並んで屋敷へ向かいながら、私は自分の頬が冷めるのを待った。

冷めなかった。

『おっとここで恋愛フラグの立て続けを確認中! 二人とも黙っていますが、内側は大変なことになっています! 本日のハイライトシーンになるでしょう!』

「ハイライトにしないでくださいませ……」

私が呟くと、クロード卿が前を向いたまま、

「同意します」

と低い声で言った。

その声が、少しだけかすれていた。

『騎士団長の声、わずかに震えています! 隠しきれていません! 正直な身体です!』

「……」

クロード卿は何も言わなかった。

言わなかったが、歩く速度が少し上がった。

私はその後ろを、頬を冷ましながら歩いた。

屋敷の扉が見えた頃には、二人とも一言も喋っていなかった。

扉を開ける前に、クロード卿がひとこと言った。

「……今日のことは」

「忘れます」

「忘れてください」

「全力で」

「お願いします」

それから二人とも扉を開けて屋敷に入った。

『なお実況は忘れません。しっかり記録しております』

「記録しなくていいんですのーーー!!」

私の叫びが屋敷の廊下に響いた。

リナが駆けつけてきて、二人の顔を見比べて、そっと踵を返した。

賢い侍女だった。