作品タイトル不明
第六章「実況が当たりすぎる件」
おかしいと思い始めたのは、私自身ではなかった。
最初に気づいたのはクロード卿で、次に気づいたのは父で、最後まで気づかなかったのが私だった。
発端は、ある朝の出来事だ。
私は屋敷の窓から外を眺めながら、朝食のパンを食べていた。
通りを荷馬車が走っていくのが見えた。
何ということもない、いつもの朝の光景だ。
『おっとあの荷馬車、左の車輪が少し緩んでいますね。このまま角を曲がると外れます』
私はパンを咀嚼しながら聞き流そうとした。
しかし実況が言い終わると同時に、荷馬車が角を曲がり——車輪が、外れた。
荷物が崩れ、御者が驚いて手綱を引いた。
幸い、誰も怪我はなかった。
私はパンを持ったまま、固まった。
◆
その話をクロード卿にしたのは、護衛として屋敷に来た午後のことだ。
彼は私の話を黙って聞いてから、手帳を取り出して何かを書きつけた。
「ローゼン嬢、少し聞いてもいいですか」
「はい、どうぞ」
「以前の実況で、宰相の賄賂を指摘した際——あれは、書類が見えたから言えたのですか。それとも、見える前から何かわかっていましたか」
私はしばらく考えた。
正直なところ、自分でもよくわからなかった。
あの時の感覚を辿ると——宰相が動いた、書類が見えた、と同時に内容まで「わかっていた」気がする。
見てから理解した、というより、見た瞬間にすでに結論が出ていた、という感覚だった。
「……書類の細部が、一瞬で見えた、という感じでしょうか。普通なら読めないような距離でも」
クロード卿が手帳に書き込んだ。
「軍議の際、地形についての指摘も——地図は扉越しに一瞬見えただけでしたね」
「はい。でも、それだけで地形全体が頭に入っていました」
「扉の隙間から全体図が見えましたか」
「……見えて、いなかったような気がします」
私は首を傾げた。
言葉にすると、妙なことを言っているとわかる。
見えていないのに、わかった。
そういうことを、私は言っている。
クロード卿が手帳から顔を上げた。
「荷馬車の車輪は」
「……見えていました。でも、緩んでいるとわかったのは、見えた瞬間より少し……早かったかもしれません」
「少し早く、とは」
「見る前に、もう言っていたかもしれない、ということです」
部屋が静かになった。
クロード卿が手帳を閉じた。
それから、私をまっすぐに見た。
「王宮の魔術師団長に、改めて調査を依頼します」
「……何か、わかりましたか」
「仮説があります。ただ、私の専門外なので確認が必要です」
「教えていただけませんか、その仮説を」
彼は少し間を置いた。
「ローゼン嬢の実況は、見たものを述べているのではなく——起こることを先に読んで、それから見て確認している可能性があります」
私は意味を飲み込むのに、しばらくかかった。
「……それは、つまり」
「未来を、見ている」
『おっと騎士団長、重大な仮説を提示しました! 主人公、今この瞬間に「え、そんな大層な話でしたの?」という顔をしています! 自覚がゼロです!』
「い……いや、そんな大層な——」
「大層な話かどうかは、調査の結果次第です」
クロード卿はきっぱりと言った。
私は口を噤んだ。
◆
翌日、王宮の魔術師団長——エルダ・フィン博士という、小柄で白髪の老女性のもとを訪ねた。
フィン博士は王国最高峰の魔術師で、王宮の地下に設けられた研究室に籠もっていることで有名な人物だ。
会ってみると、籠もっているだけあって人との会話に少し不慣れな様子だったが、学者としての目の鋭さは折り紙付きだとすぐにわかった。
博士は私の実況をしばらく観察し、様々な魔術的測定を行った後、手元のノートにびっしりと書き込みをした。
それから眼鏡を外し、私をじっと見た。
「ミレイユ・ローゼン嬢、古代の文献を読んだことはありますか」
「歴史の授業で少し。あまり詳しくはありません」
「古代には『神託』と呼ばれる特殊な能力が存在したとされています。その中でも特別稀なものに、『真実を暴く声』がありました」
「……はい」
「文献によれば、それは単なる透視や読心ではなかった。膨大な情報を瞬時に処理し、最も確率の高い未来を弾き出す——そういう能力だったとされています」
博士はノートをこちらへ向けた。
そこには複雑な魔術式が書かれていて、私にはさっぱり読めなかった。
「簡単に言えば、あなたの脳は常に高速で周囲の情報を処理し続けている。人の動き、表情の微細な変化、重力の影響、物質の状態——それらを無意識に計算して、次に何が起こるかを導き出している」
「……それが実況として」
「外に出ているのでしょう。おそらく、通常であれば内側で処理されるはずのものが、婚約破棄のショックで制御系が壊れた結果——」
博士は言いかけて、少し言葉を選んだ。
「垂れ流しになっている」
垂れ流し。
国の最高峰の魔術師から、垂れ流しと言われた。
『おっとフィン博士、遠慮のない表現で真相を解説! 「垂れ流し」という言葉の選択が博士らしいですね! 主人公、なんとも言えない顔をしています!』
「垂れ流しは……そうですわね、否定できませんわね」
フィン博士が小さく笑った。
それからクロード卿を見た。
「つまりこの方の実況は、超高速演算型の未来予測です。精度は観測した限り、驚異的に高い。外れることがほとんどない」
クロード卿が静かに答えた。
「それは把握しています」
「把握、しておりましたの?」
私が聞くと、クロード卿は少し間を置いてから答えた。
「実況が外れた場面を、着任以来一度も見ていません」
そう言えば——と思い返した。
宰相の件も、荷馬車の件も、スパイの件も、夫婦喧嘩の件も。
実況が言ったことで、外れたことがあっただろうか。
なかった。
一度も、なかった。
『おっとここで主人公、自分の実況が百発百中であったことにようやく気がつきました! 全員が先に気づいていたことに今さら驚いています! 自覚の薄さが際立ちます!』
「……わたくし、自分のことに一番気づいていませんでしたのね」
「そうですね」とクロード卿。
「そのようです」とフィン博士。
二人の声が見事に重なった。
◆
帰り道、私は馬車の中で窓の外を眺めながら、静かに考え込んでいた。
未来を読んでいる。
無意識に、常に、止めどなく。
それが婚約破棄の衝撃で外に出るようになった。
そして誰にも聞こえるようになった。
なんというか——壮大すぎて、実感が伴わなかった。
自分のことなのに、他人事のような気がした。
「ローゼン嬢」
クロード卿が向かいの席から、静かに声をかけた。
「はい」
「先ほどの博士の話を聞いて、何か感じましたか」
感じたこと。
怖い、とは少し違う。
嬉しい、とも違う。
ただ、なんとなく——腑に落ちた、という感覚だった。
「……婚約破棄されたとき、頭の中で何かが弾けたような感じがしたんです。それがこれだったのかな、と」
クロード卿は黙って聞いていた。
「止められないのは、制御系が壊れているから。つまり、修復できれば止まる可能性がある、ということですよね」
「フィン博士はそう言っていました」
「……でも」
私は少し躊躇ってから、続けた。
「もし止まったとして——宰相の件も、スパイの件も、あのままでしたら、どうなっていたんでしょう」
クロード卿が少し目を細めた。
「それは、考えなくていいことです」
「でも気になります」
「起きなかったことです」
「……そうですね」
馬車が石畳の上を揺れながら進んだ。
しばらく沈黙が続いた後、クロード卿がまた口を開いた。
「ローゼン嬢の実況は、迷惑なことも多いですが」
「……はい、重々承知しておりますわ」
「助かったことも、確かにあります」
それだけ言って、彼は窓の外へ目を向けた。
それ以上は何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
言う代わりに、窓の外の夕暮れを眺めた。
『おっと騎士団長、珍しく肯定的な言葉を主人公へ投げかけました! 主人公の胸の内が、今少し温かくなっています! 自覚はないようですが!』
自覚が、少しだけあった。
あったが、黙っておくことにした。
馬車の揺れが心地よかった。
夕日が、じんわりと窓を染めていた。