作品タイトル不明
第一章「婚約破棄、実況開始」
卒業舞踏会の夜は、薔薇と蝋燭の香りで満ちていた。
王立学院の大広間——天井まで届く大窓から月光が差し込み、磨き抜かれた床には貴族の令嬢たちのドレスの裾が、色とりどりの花びらのように広がっている。
シャンデリアの光が水晶を通して砕け散り、壁際の楽団は優雅なワルツを奏で続けていた。
私、ミレイユ・ローゼンは、その端に立ちながら、静かに息を整えた。
この夜は、特別な意味を持つはずだった。
王立学院の卒業式典を兼ねた舞踏会——そして、王太子アルベルト殿下との婚約が、広く社交界へ正式に周知される夜。
ローゼン伯爵家の長女として、私はこの三年間、その日のために心を尽くしてきた。
礼儀作法、外交の心得、語学、舞踏。
手を抜いたことなど、一度もない。
鏡の前では、自分でも見違えるほど仕上がった、と思っていた。
淡い金色のドレスは母の形見を仕立て直したもので、肩の部分には繊細なレースが施されている。
栗色の髪は侍女のリナが半日かけて丁寧に結い上げてくれた。
我ながら、悪くない。
…などと思っていた、その数分前までは。
「ミレイユ・ローゼン嬢」
低く、よく通る声が、ざわめきの向こうから届いた。
振り返ると、そこにはアルベルト王太子殿下が立っていた。
金の髪を完璧に整え、濃紺の軍礼服に銀の勲章をいくつも輝かせた、絵画から抜け出てきたような人物。
整った顔立ち、堂々とした立ち姿——確かに、見目麗しい方ではある。
しかし三年間の婚約期間で、私はこの方の内面というものを、いまだに掴みかねていた。
優しい、というわけではない。
冷たい、というわけでもない。
ただひたすら、自分への賞賛を当然のこととして受け取る、そういう方だ。
私は淑やかにドレスの裾を持ち、礼をとった。
「殿下、本日はお招きにあずかり光栄でございます。ご卒業、誠におめでとうございます」
顔を上げると、殿下は私を見ていなかった。
その視線は、広間の反対側——艶やかな赤いドレスを纏った、見知らぬ令嬢へと向けられていた。
私は少しだけ首をかしげた。
その少しだけ、という部分が自分でも可笑しかったけれど。
殿下は、ようやく私の方へ視線を戻した。
そして、口を開いた。
「婚約を破棄する」
——えっ。
思考が、一瞬、白くなった。
ちょっと待ってください。
今なんとおっしゃいましたか、殿下。
婚、約、を、は、き、する?
今この広間で、この広間の中央で、今おっしゃいましたか。
私は笑顔のまま固まった。
笑顔の筋肉が、お別れの言葉を受け取っていないらしかった。
周囲の音楽が、楽団がひとり、またひとりと弾くのをやめていくように、ゆっくりと沈黙へ変わっていく。
貴族たちの話し声も消え、シャンデリアの光だけが相変わらず煌めいていた。
皆が聞いた。
確かに、全員が聞いた。
殿下は続けた。
「そなたとは不釣り合いだと、かねてより感じておった。王太子妃には、もっと華やかな、場を彩れる女性がふさわしい」
華やか。
場を彩れる。
……。
私は黙ってその言葉を受け止めようとした。
三年間の婚約だった。
三年間、努めてきた。
それが今、舞踏会のど真ん中で、五百人以上の来客の前で、一言で終わりを告げられていた。
頭の奥が、じんわりと熱くなった。
目の裏がじわじわするのを、私は必死にこらえた。
泣くものか。
こんな場所で、こんな人の前で、涙など見せるものか。
そう思った——その瞬間だった。
頭上から、声が降ってきた。
『おっとここで王太子殿下! 卒業舞踏会という全国注目の晴れ舞台で、証拠ゼロの婚約破棄宣言ー! これは前代未聞、全国放送級のやらかしがきましたー!』
——は?
私は固まった。
固まったまま、ゆっくりと天井を見上げた。
声はどこから聞こえたのか。
いや、どこから、という問題ではない。
その声に、聞き覚えがあった。
というより、聞き覚えどころではない——私自身の声だった。
私の声なのに、私は今一言も発していない。
私の声なのに、今まで一度も口にしたことのない言葉だった。
しかし確かに、あの声は私の心の中にあった言葉だ。
広間が凍った。
五百人以上いた貴族たちが、一様に息を止めた。
アルベルト殿下の頬がみるみるうちに赤くなった。
私も赤くなっていた。
というよりも、頭から湯気が出そうだった。
な、なに、今の声は。
なんなの。
なんで聞こえてるの。
なんで全員に聞こえてるの。
止まって。
止まれ。
止まれ今すぐ——
『止まれない状況がきましたー! 主人公ミレイユ嬢、現在パニック状態! 心拍数おそらく百五十超えてます! これはすごい! 感情がダダ漏れてますよー!』
「っ……!」
思わず声が出た。
自分の口から出た今の声は確かに自分のもので、しかし頭上で流れているあの声は、口から出ているわけでもないのに全員に丸聞こえで。
どういう状況ですかこれは。
どういう状況。
落ち着いて。
落ち着けミレイユ。
深呼吸。
す、す、すー——
『おっと主人公、深呼吸を試みましたがまったく落ち着く気配がありません! 当然です! 公衆の面前で婚約破棄された直後ですからね! これは無理がある!』
「――――!!」
だから止まれと言っている!!
私は両手で自分の口を塞いだ。
無意味だった。
声は口から出ているわけではないので、塞いでも何も変わらない。
当たり前だ。
当たり前なのだが、今の私にはその程度の行動しかとれなかった。
広間のどこかで、誰かがぷっと噴き出した。
次に、くすくすという忍び笑いが広がった。
そして——堰が切れたように、どっと笑い声が弾けた。
アルベルト殿下は真っ赤になった顔のまま、私を指さした。
「なんだこれは! そなたは今何をしている!」
『おっと王太子殿下、逆ギレ! 婚約破棄をした側が怒るという、論理逆転プレイが炸裂しましたー! しかも証拠もなく不釣り合いと言い放った直後ですよ! これはいけません! 会場の空気が完全に主人公側へ傾きましたー!』
「……わた、わたくしも、止め方が……!」
私は震える声でそう言いながら、しかしどうにもならないことを理解し始めていた。
この声は、私には制御できない。
思ったことがそのまま流れていく。
しかも妙に流暢で、妙に的確で、妙に場を煽ることに長けている。
殿下は叫んだ。
「これは何かの魔術か! 誰かこの令嬢を黙らせろ!」
『おっと王太子殿下、今度は黙らせろと命令! ますます印象が悪化していきます! この展開、自業自得と言う他ないでしょう! 解説の実況嬢、心が痛い!』
解説の実況嬢が心を痛める前に私の心が終わりそうだった。
視線が、会場中から集まっていた。
五百人分の視線が、ひとり残らず私へと向いていた。
同情、困惑、笑い、驚き——いろんな感情が混じっていたけれど、とにかく全員が私を見ていた。
私はただ立ち尽くした。
金色のドレスのまま、両手を胸の前で組んで、どうしたらいいかわからず。
頭の上では、私の心の声が延々と実況を続けている。
止められない。
どう止めればいいかも、そもそもこれが何なのかも、まったくわからない。
ただ一つだけ、はっきりわかったことがあった。
この夜は、想定していたどの意味においても、特別な夜になった。
なってしまった。
『以上、卒業舞踏会における前代未聞の婚約破棄劇、ご覧いただきましたー! なお主人公は現在、羞恥と混乱のあまり意識が遠のきかけておりますが、倒れたら負けの精神でなんとか踏みとどまっております! 根性はあります! これは評価ポイントですね!』
「…………根性なんかで、踏みとどまりたくありませんでしたわ……」
私の小さな呟きは、広間の笑い声にかき消された。
アルベルト殿下は何か叫び続けていたが、もう私の耳には届いていなかった。
頬が熱い。
足が震えている。
だというのに、私の頭の中の実況は止まらない。
ああ、そうか——と、ぼんやりと思った。
今夜は確かに、特別な夜になった。
ただし、まったく予定とは異なる意味で。
婚約破棄された夜。
心の声が、世界へ流れ始めた夜。
私の、とんでもなく長い長い、実況人生の幕が——今、開いた。
『というわけで、開幕です!』
「開幕じゃありませんわ!!」
そして私の叫びもまた、しっかり広間中に響き渡った。