軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

変化

ルルが休暇に入ってから数日後、それは突然訪れた。

昼食を摂ろうと、ルルと一緒に食堂に入った瞬間、食事の匂いでえずいてしまった。

「う……」

気持ち悪くてその場に座り込んだわたしの背中を、ルルが優しく撫でる。

「食べ物の匂い?」

ルルの問いに頷き返せば、背中と膝裏にルルの大きな手が触れる。

そうして「抱き上げるね」と声がかけられ、ゆっくりと視界が上がった。

大変だろうに、わたしの吐き気が酷くならないようにルルはそっと食堂からわたしを移動させた。

「どうしても気持ち悪かったら吐いちゃってもいいからねぇ」

と言って、近くの応接室に入り、ソファーに下される。

座っているのもつらくて横になると、ルルが空間魔法から取り出した膝掛けを体にかけてくれた。

応接室は普段使わないため暖炉に火が入っていないのだが、ここからわたし達が普段過ごしている居住スペースまで階段を上がるのは良くないと判断したのだろう。

後ろについて来ていたヴィエラさんがすぐに暖炉に火を灯す。

「……ごめん、ルル……悪阻……来たかも……」

食べ物の匂いをこんなに不快に感じたのは初めてだった。

匂いを嗅いだ途端に強い吐き気を感じて……正直、先ほどは胃液が少し口まで上がってきた。

……想像以上に気持ち悪い……。

「いいんだよぉ、リュシー。悪阻がくればそうなるって分かってるんだからぁ」

「……今日の昼食、何だった……?」

「本日の昼食はベーコンと芋のキッシュ、野菜たっぷりスープ、パン、鶏肉とほうれん草のクリーム煮、オレンジのシャーベットです」

想像するだけで美味しそうだと思う。

妊娠してからは、わたしが食べられるものの中でも特に好きだと思うものを使った料理が増えた。

だけど、一体どの匂いに反応したのか自分でも分からなかった。

「……絶対美味しいのに……」

思わず呟くとルルが小さく笑った。

「そういう気持ちがあるなら、まだ大丈夫そうだねぇ。……どうする〜? 一品ずつ持ってきて、食べられそうなヤツだけでも食べてみる〜?」

「うん。……何も食べないのは良くないだろうし、ちょっとでも食べておきたいな」

ルルが背後に手を上げると、リニアお母様が静かに応接室から出ていく。

……こういう時は二人とも仲良いなあ。

リニアお母様が出ていった扉をぼんやり眺めているとルルに声をかけられる。

「まだ結構気持ち悪い? 起き上がれそうなら水飲む〜?」

少し自分の胃と相談してみて、大丈夫そうだったので、ゆっくり起き上がる。

ルルの手がすぐに支えてくれたので起き上がりやすかった。

ソファーの背もたれによりかかり、ルルが差し出したグラスを受け取り、口をつける。

レモン水のさっぱりとした味で、常温よりほんの僅かにヒンヤリとしていて、そのおかげか飲み下すと吐き気がかなり良くなった。一気に飲むと吐き戻すかもしれないから、少量ずつ口に含んで飲み込んだ。

そんなわたしのそばでルルが床に膝をつき、ジッとこちらを見つめている。

わたしの変化を見逃さないように注視されているのを感じる。

部屋の扉が叩かれ、リニアお母様が顔を覗かせた。

「シャーベットをお持ちしました。……リュシエンヌ様、大丈夫ですか?」

食べやすそうなものから持ってきてくれたらしい。

それにホッとしつつ、頷いた。

「シャーベットは食べられそう……」

リニアお母様が応接室に入り、シャーベットが盛られた小皿とスプーンが二本載った盆をルルに差し出す。

ルルが受け取り、まずはシャーベットを一口食べて確かめ、小皿だけわたしに少し寄せた。

オレンジの匂いは甘酸っぱくて、美味しそうで、吐き気は感じない。

頷くと、ルルは自分が使ったスプーンを盆に戻し、新しいスプーンを取り出したハンカチで入念に磨いてからシャーベットをひと匙掬い、わたしの口元に差し出した。

シャーベットを食べると口の中に冷たさと優しい甘酸っぱさが広がった。

「……美味しい……」

ルルが少し安堵した表情でわたしの口にシャーベットを運ぶ。

そうしているうちに部屋の中も暖かくなってきて、冷たいシャーベットが丁度良かったが、半分ほどでもう食べたくなくなってしまった。

首を振れば、ほとんど溶けてしまったそれをルルが飲み干した。

「他のも食べられそうですか?」

リニアお母様に訊かれて、また考える。

「野菜のスープなら、多分……」

「すぐにお持ちいたしますね」

「あ、あと、レモンジャムも食べたい、かな……?」

オレンジのシャーベットで分かった。確かに、酸っぱいものが食べたい気分である。

先日食べたレモンジャムはすごく酸っぱかったのに、思い出すと、とても食べたく感じる。

「本日のパンはバター抜きにしてあるそうなので、そちらもお持ちしましょうか?」

「うん」

ルルが返したシャーベットの小皿を引き取り、リニアお母様がまた部屋を出ていく。

急に吐き気を感じたせいかなんだか疲れてしまって、ルルに寄りかかった。

ルルがわたしを抱き寄せて頭を撫でてくれる。

「気持ち悪かったら無理しなくていいんだよぉ?」

「さっきは驚いたけど、今は大丈夫」

「そ〜ぉ?」

心配そうに顔を覗き込んでくるルルに微笑み返す。

リニアお母様が戻ってきてテーブルの上にスープとパン、ジャムが置かれる。

ルルがそれぞれを一口ずつ食べて確かめている間に、わたしも匂いを確認する。

……うん、大丈夫そう。

わたしが頷くと、ルルがスープを掬い、差し出してくる。

具はほとんどないように見えるけれど、食べてみれば、色々な野菜の味や旨みがあって、優しい味わいだった。

スープを少し食べたら、今度はパンだ。一口大にちぎったものにレモンジャムがつけられて、差し出されたそれを食べる。先日食べた時は結構酸っぱかったのに、今日はほど良い酸味に感じられた。

もう一口食べたくて口を開けば、ルルが嬉しそうに目を細めて、用意してくれる。

パンは一つの半分しか食べられなかったが、スープは全量、それからちょっと行儀が悪いけれど残ったレモンジャムをそのまま食べた。

胃に食べ物が入ると吐き気が治まり、眠気がやってくる。

ルルに寄りかかってうとうとしていれば口元を拭われた。

「吐き気は落ち着いたぁ?」

それに頷き返せば、かなり慎重な動きで抱き上げられる。

「寝るなら寝室で休もっかぁ」

「……うん……」

ゆっくりと、出来るだけ揺らさないように気を付けながらルルが歩いているのが分かる。

それでも微かに揺れるのだけれど、その揺れが今は心地好い。

頭上から「寝ちゃってもいいよぉ」と声がして、眠気も強かったので、ありがたく甘えさせてもらうことにした。

……食べて寝て、こんなに怠惰でいいのかなあ。

* * * * *

腕の中で眠るリュシエンヌを寝室に連れていき、そっとベッドに横たえる。

靴を脱がせ、毛布をかけてやったがシーツが冷たかったのかリュシエンヌは体を縮こませた。

妊娠してからは昼寝の時間が増えたため、寝室の暖炉は常に火が入っている状態ではあったが、温石などで温める前だったので寒かったのだろう。

「オレも昼寝するよぉ」

小声で言えば、背後で静かに扉の閉まる音がした。

ついて来ていた侍女達が下がり、ルフェーヴルも靴を脱いでベッドに潜り込む。

出来るだけ体温が移るように抱き締めれば、リュシエンヌがすり寄ってくる。

ルフェーヴルの腕の中で居心地の良い姿勢になると静かになった。

見た目の変化はないが、リュシエンヌの腹の中には子供がいて、その子供はルフェーヴルと血の繋がりがあるというのは分かっていても不思議な気持ちだった。

……子供なんて出来ないと思ってたからなぁ。

リュシエンヌと結婚式を挙げてから四年、子供が出来なかったので、この先もそうなのだろうと考えていたから予想外のことで驚いた。

今、この腕の中にいる細い体に新たな命が宿っている。

魔力の気配を探れば、ほんの微かに魔力の欠片みたいなものが、リュシエンヌの腹部から控えめに存在を主張する。小さくて、頼りなくて、弱々しくて……出会った頃のリュシエンヌを思い起こさせた。

……まあ、あの頃のリュシエンヌは意外と逞しかったけどねぇ。

リュシエンヌの子なら、きっと無事に育って生まれてくるだろう。

リュシエンヌの体は女神の加護で丈夫になっているし、その子供にも恐らく何かしらの祝福がかかるのではないかとルフェーヴルは予想していた。

本格的に悪阻が始まり、情報は入れているものの、リュシエンヌにどのような症状が出るかは分からない。とにかく、リュシエンヌが弱らないように気を付けるしかルフェーヴルには出来ないのだ。

女神のことを信仰しているかと問われたら首を傾げてしまうが……。

「今だけは女神サマに祈っておこうかねぇ」

眠るリュシエンヌを抱き締めながら、ルフェーヴルは囁くように歌う。

リュシエンヌが好んでよく歌うので女神の讃美歌をルフェーヴルも全て覚えてしまった。

頭の中に記憶しているリュシエンヌの歌声を思い出し、歌いながら願った。

リュシエンヌが望むように、子を抱かせてやりたい。

リュシエンヌを死なせたくない。

まだ、リュシエンヌはルフェーヴルのものだ。

たとえ女神であってもリュシエンヌの命は渡さないし、勝手に死なせはしない。

「……ん、ルル……?」

腕の中でリュシエンヌが薄く目を開ける。

「ごめんねぇ、起こしちゃったぁ?」

「……ううん……」

ルフェーヴルの胸元に額をこすり付け、リュシエンヌが抱き着いてくる。

「……ルルの、歌……好き……」

今にも眠りに落ちそうなふわふわとした声に、ルフェーヴルは声もなく笑った。

そうして、歌を再開させる。

今度は祈りではなく、リュシエンヌのためだけの歌を。

* * * * *

「すっっっぱぁ〜〜〜っ!!」

夕食時間、使用人食堂にメルティ=ラスティネルの明るい声が響き渡った。

誰も反応しなかったが、内心ではその言葉に同意していただろう。

女主人が妊娠したという話を聞いてから少し後に『妊娠中は酸味のあるものが食べたくなるらしい』ということでレモンジャムが試され、どうやら女主人の口にそれが合ったようだ。

だが、女主人の口に合う酸味がどの程度なのかは分からなかったため、砂糖の量を変えたり、砂糖ではなく蜂蜜を使ってみたり、いくつかの作り方で複数個のジャムが試作された。

その中でも女主人は最も酸味の強いジャムを選んだそうだ。

残ったジャムはそれほどお気に召さなかったようで、使用人達で食べることとなったのだ。

「メルティ、声が大きいわ」

侍女長のリニア=ウェルズが注意をした。

それにメルティは自分の口元を押さえたものの、すぐに言う。

「だって、これ、すごく酸っぱいから……!」

「気持ちは分かるけど、もう少し声を抑えたほうがいいわ」

言って、リニアもレモンジャムをつけたパンを食べ、無言で顔がキュッとなった。

言葉には出していないものの、明らかに『酸っぱい!』という表情だった。

それを見てメルティが小さく笑いながら横に顔を向けた。

「ねえ、ヴィエラは……というか、みんなは平然と食べてるけど平気なの?」

静かな食堂の中で聞こえるのはメルティとリニアの話し声くらいしかなく、皆、一言も発さずに食事を続けている。いつもの光景だが、この酸っぱいジャムを食べても無反応である。

問われたヴィエラが口を開いた。

「正直に言えば、とても酸っぱいわ。こんなに酸っぱい食べ物は初めてよ」

「でも、全然酸っぱそうに見えないけど」

「顔に出さないことに慣れているだけよ」

「なるほどね」

納得したメルティがパンにジャムを塗り、食べ、顔をキュッとさせる。

今度は騒がなかったが「〜〜〜っ」という我慢する小さな声は漏れていた。

それを見ていたクウェンサーが苦笑する。

「ジャムがなくなるまで、クリームも出したほうが良さそうだな」

「そうね、レモンジャムとクリームは良い組み合わせだと思うわ」

ヴィエラが返事をして、パンの最後の一欠片を食べる。

酸味の波を乗り越えたメルティが、僅かに涙の滲む目元を指で拭いながら言う。

「こんなに酸っぱいとクリームのほうが負けそうな気もしますけど……」

全員が沈黙した。それくらいレモンジャムは酸っぱかった。

砂糖多めで酸味が少し弱いものもあるのだが、そればかり減っても困るので、日によってすごく酸味が強いものが出されたり、控えめのものだったりする。

ちなみに今日でレモンジャムは三日目だ。

話によるとこれで半分ほど消費したらしいので、あと三日はこれを食べなければいけない。

しかも女主人の食べる量によっては余ったもの──更に酸味のあるレモンジャム──が時々、出るかもしれない。残念ながら食事内容を聞いても料理人は『レモンジャム』としか答えないので、食べてみるまで酸味の度合いは分からない。

「これはこれで面白くていいじゃない」

ヴィエラが小さく笑い、食事を続ける。

ほとんど変わり映えのしない日々の中で、こういう時があってもいいのかもしれないが。

メルティとリニアがパンを口に運び、また、二人揃って顔をキュッとさせた。

「……この酸味には慣れないかも……」

「……そうね」

二人の様子にヴィエラとクウェンサーが小さく笑う。

食堂にいた他の使用人達の口角も僅かに上がっていたのだが、メルティもリニアもそれに気付くことはない。

翌日からレモンジャムにクリームがつけられるようになったものの、メルティの予想通り、暴力的な酸味の前ではクリームの甘さは役に立たなかった。

あまりに酸味が強すぎて不評なこのレモンジャムはその後、使用人達の間で『敗北の味』と呼ばれ、カードゲームなどで負けた者に食べさせるのが何故か定着したのだった。

おかげで料理人が「味見する身にもなってみろ」とぼやいたとか、ぼやかなかったとか。

とにかく、この酸っぱいレモンジャムはニコルソン伯爵家の常備品に仲間入りしたのである。

* * * * *