軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 八歳の「あいたい」

「この字は、僕じゃない誰かの字みたいだ」

ユリウスがそう言ったのは、テラスで二通目を開いた時だった。

朝の光が斜めに差していた。テーブルの上にカップが二つ、ポットが一つ、それから紙の束が一つ。私は薬草茶を冷ましきれていなくて、舌先を一度やけどしかけた。今朝のお茶はカモミールに少しレモンバームを混ぜたものらしい。酸味が前に出すぎている、とユリウスは小声で言って、自分のカップを少し遠ざけた。配合を間違えた、という顔だ。私は黙っていた。私のカップは普通に飲めたから。

二通目の手紙を、ユリウスが私のほうへ回した。

——ぼくは、よくねむれません。

——でも、ねるまえに、てがみのことをかんがえると、すこしあんしんします。

——ねむれないけど、こわくない。

——だから、てがみは、ぼくのまもりです。

九歳の春、と日付があった。

「九歳の私は、まだ薬草茶の話なんてしていなかったわね」

「君は、九歳の時に夜会で見た貴婦人の帽子の話を書いてきた」

「覚えているの」

「鳥を三羽載せた帽子だった。その鳥は何の鳥か、と君は僕に聞いてきた。僕は鳥に詳しくない」

「答えは何て書いたの」

「分からないので、母に聞きます、と書いた」

「お母様、答えてくれた?」

ユリウスは少し黙った。

「答える前に、亡くなった」

私は、カップを置いた。陶器が小さく鳴った。

「だから、ぼくはまもれませんでしたって、たぶんこの後の手紙のどこかにある」

ユリウスは、紙の束のあいだに人差し指を差し入れて、めくった。中ほどから一通取り出して、私のほうへ回した。十歳の年の手紙だ。一通目と二通目は順番に並べていたけれど、それより後はもう順番ではなかった。

——ぼくは、まもれませんでした。

——とりのなまえを、ははがしらないまま、ははがしんでしまったので。

——ぼくは、てがみのへんじを、しっぱいしました。

——ごめんなさい。

私は、紙を持つ自分の指を見た。爪の根元に、昨日の薬草園の土がまだ少し残っていた。爪の白い部分の脇に、薄く茶色い線が一本。爪切りをサボっている。

「あなたは、その手紙、出してないわ」

「ああ」

「だから、私は、あなたが鳥の名前を答えてくれなかったことに、何も思わなかった」

「ああ」

「失敗じゃないわ」

ユリウスは、ほんの少し笑った。

「九歳の僕には、そう見えなかった」

それは私にも分かる。八歳の私だって、もし母の代わりに何かを失敗したら、たぶん同じくらい責めただろう。子どもは、自分が世界の中心だと思っているから、世界のことを全部自分のせいにする。

カップに口をつけた。レモンバームの酸味がもう冷えて、丸くなっていた。冷えたほうが美味しいかもしれない。

「ねえ、ユリウス」

「ん」

「あなた、九歳の時、私の手紙を寝る前に読んでいたの?」

ユリウスは答えなかった。

代わりに、束の中ほどから、また一通抜き出した。今度は折り目が深く、四つに畳まれていた。広げると、短い手紙だった。

——いまは、てがみのにおいだけ、かいでいます。

「これは何」

「君が手紙に薬草の押し花を入れてくれた時期があった。十一歳の頃だ。封を開けると、君の家の庭の匂いがした。読まないで、匂いだけ嗅いでいた日がある」

「読みなさいよ」

「読んだ。一回読んでから、何度か嗅いだ」

私は、テーブルの下で足を組み替えた。組み替えた理由は分からない。そのまま座っていてもよかったのに、なぜか組み替えた。

屋根裏には、まだ箱が残っている。

そのうち一つは、昨日オットーが書斎に下ろした祖父の代の領地帳簿だった。革表紙の、分厚い本のような帳簿。書斎の机の脇に積んである。

朝食の後、ユリウスがそれを開いていた。私は最初、領地経営の確認だろうと思った。でもユリウスの指の動きが、いつもの帳簿確認とは違っていた。

ページをめくる速度が速かった。ある場所で止まる。指でなぞる。少しページを戻して、また止まる。何かを探している。

「何を見ているの」

「祖父の代の、傍系の親族との取引記録」

「傍系」

「父の従兄弟の家がある。祖父の代までは、薬草の取引で繋がっていた」

ユリウスはページの一箇所を指で押さえた。

「ここ。十年に一度の往訪記録。最後の記録はここで途切れている」

私はその指の先を見た。日付があった。今から十年と少し前。それから後、傍系の家との往訪記録が一切ない。

「なぜ途切れたの」

「父と、折り合いが悪くなったらしい。詳しいことは僕も子どもだったから知らない。オットーは知っているはずだ」

ユリウスは帳簿を閉じなかった。開いたまま、机の上に置いた。

「ヴィルヘルムという男爵がいる。父の従兄弟の息子だ」

その名前は、初めて聞いた。

「お見舞いに来たいと、手紙が来た」

ユリウスはそう言って、机の引き出しから封書を取り出した。封蝋は赤。少し古いタイプの紋章——エーレンベルクの紋章に近いけれど、わずかに違う。男爵家の紋章だ。

「お見舞い」

「明日、来るそうだ」

「明日」

「もう三日前に手紙が届いていた。返事を出そうかどうか迷って、出さなかった。返事を出さなくても、来る人だ」

ユリウスは、机の上に封書を伏せて置いた。

「結婚が決まったから来る、と書いてある」

私は、その封書を見ていた。書かれている文面は分からない。封書は伏せてあるから、宛名も見えない。でも、書いた人の意図は分かる気がした。結婚が決まったから——その続きが、便箋の中にあるのだ。たぶん、お祝いだけではないものが。

昼の少し前、薬草園に出た。

リーザが井戸のそばで石を積んでいた。男の子が二人と、女の子がもう一人いた。男の子のうち一人は、リーザより少し背が低い。誰の子だろう。新顔だ。

「おねえちゃん」

リーザが手を振ってきた。

「これね、お城だよ」

石が三段に積まれていた。お城には見えないが、お城らしい。私は石の脇にしゃがんだ。

「立派ね。誰が住んでいるの」

「えーっとね」

リーザは少し考えた。「えっとね、おねえちゃんと、ユリウスさま」

私は石を一個、上に足した。城が一段高くなった。リーザが「いいね」と言った。男の子が「ぼくものせていい」と言って、もっと小さい石を載せた。城は四段になった。

新顔の男の子が、ぼそっと言った。

「ぼくのおとうさん、しろにすんだことないって」

「うん。私もよ」

「おねえちゃんも?」

「私の家は、お城じゃなかったの」

「そっかあ」

その「そっかあ」の言い方が、なんだか可愛くて、私は男の子の頭に手をのせた。男の子は照れたのか、リーザの後ろに半分隠れた。リーザが「アンナの弟ね」と教えてくれた。アンナという名前は知らないが、頷いておいた。

立ち上がる時、ヴィルヘルムのことを少しだけ考えた。

明日、来る。お見舞いだと言って。結婚が決まったから来る、と書いてあった、とユリウスは言った。

私は社交界というものを、六年間、王太子府の隣で見てきた。お見舞いという名前で来る人が、本当にお見舞いに来た例を、あまり知らない。

午後、書斎に戻ると、ユリウスがオットーと話していた。

「先代様とは、十一年前を最後にお会いになっておりません」

オットーの声が低く響いていた。

「往訪のたびに、薬草事業のことで先代様とお言葉が荒くなっておいででした。先代様は、エーレンベルク領の薬草事業を、傍系の方々と分けて運営することにご反対でした。ご反対というか——お分けになる必要はない、というご意見でした」

「ヴィルヘルム男爵が、薬草事業の取り分を求めていた、ということ?」

「直接的にではございません。先代様のご病気が進まれた頃、後見人選定のお話を、男爵から先代様にお持ちかけになったことがございます。先代様が、坊ちゃまの後見人を、男爵にお任せにならないかと」

ユリウスは黙って聞いていた。

「先代様は、お断りになりました。ご自分の弟君——坊ちゃまの叔父様にお任せになる、と。叔父様は、その三年後にやはりご病気で亡くなられました。それ以来、男爵とのお付き合いは、ほぼ絶えております」

私は扉のそばに立っていた。中に入っていいのか分からなくて、立ち止まっていた。オットーは私に気づいて、軽く頭を下げた。

「お嬢様。お話のお邪魔をいたしました」

「いえ、構わないわ。続けて」

ユリウスは机の縁に手をついていた。座っていても、机の縁に手をついている。普段はしない仕草だ。

「オットー。明日のお出迎えの茶葉を、先に用意しておいてくれ」

「客用、でございますね」

「それでいい」

オットーが軽く一礼して、出ていった。

書斎の中は静かだった。私は扉を閉めて、ユリウスの椅子の脇まで歩いた。

「お見舞い、というのは」

「お見舞いだ。建前は」

ユリウスは机の上の封書を、もう一度手に取った。今度は表に向けて。宛名はユリウス・フォン・エーレンベルク伯爵殿、とある。差出人は、ヴィルヘルム・フォン・エーレンベルク男爵。同じ姓だ。

「父の従兄弟の家は、エーレンベルクの姓を残しているの?」

「分家として残している。先代の祖父が、姓は許可した。爵位は別だ。男爵の家は、別の領地を持っている」

「その領地は」

ユリウスは少しだけ考えた。

「あまり良くない、と聞いたことがある。子どもの頃に。父が、母に話していたのを覚えている」

具体的なことは、覚えていない、と続けた。子どもの記憶だから、ぼんやりしている、と。

私は、机の上に置かれたままの祖父の代の帳簿を見た。革の表紙が傷んでいる。十年に一度の往訪記録、と言っていた。十年に一度、ヴィルヘルム家のほうから訪ねてきていた、ということだ。何かを求めて。

明日来る、と言った。

何を求めて来るのか。

夕方、テラスに戻った。

テーブルの上の紙の束を、私はまた手に取った。今朝、ユリウスがめくっていた束だ。十一歳の手紙の隣に、まだ何通か入っている。十二歳、十三歳、十四歳。日付が飛び飛びだから、毎月書いていたわけではないらしい。出すための手紙ではなかったから、書きたい時だけ書いたのだろう。

中ほどから、一通だけ抜き出した。

紙の状態が、他のものと違った。少し新しい。インクが他のものよりはっきりしている。日付を見ると、二年前だった。

——きょう、にわのらべんだーをかった。

——きみのてがみで、すきだとよんだから。

——いまさらだ。

私は、紙を握った。

二年前。

二年前というのは、ユリウスが「君の字は二年くらい水平だった」と言ったあの二年と、同じ二年だ。私の手紙を、ユリウスは二年間、字の傾きまで見ていた。私が何も書かなくても、ラベンダーの話を覚えていた。覚えていて、二年経って、自分の庭に植えた。

今さらだ、と書いてあった。

——いまさらだけど、きみがここにきたら、らべんだーがあるじょうたいで、まちたい。

ぼくは、と書いて、消した跡があった。インクが擦れている。

書き直した跡は、なかった。

書斎のほうから、何か硬いものが落ちる音がした。

ペンか、本か、それとも杖かもしれない。

私は紙を置いて、立ち上がった。

書斎に向かう廊下の途中、リーザの家の方角から、笑い声が遠く聞こえた。男の子の「やだ」という声と、女の子の「きて」という声と、それから誰かの足音。子どもの足音は、大人の足音と違う。土を蹴る音が高い。

書斎の扉の前で、私は手を止めた。

手紙を読み始めた朝から、まだ一日も経っていない。

明日、来る。男爵が。お見舞いという名前で。

私は扉を開けた。

ユリウスは、机に向かって座っていた。机の上に、ペンが転がっていた。私の足音で顔を上げた。表情が——ほんの少し硬かった。今朝、テラスで二通目を回してくれた時の顔ではなかった。今日初めて見る顔だった。

「ユリウス」

「ああ」

「明日、私はどこにいればいいの」

ユリウスは、机の上のペンを拾った。インクが少し机に滴っていた。布で拭こうとして、布が見当たらなくて、自分の袖口でちょっと拭いてやめた。袖口の白いリネンに、青い染みが小さくついた。

「君は、僕の隣にいてくれ」

「分かったわ」

「それから——」

ユリウスは言いかけて、止まった。

「いや、いい。明日になってから話す」

何を言おうとしたのか、聞かなかった。

聞いたら、たぶん、教えてくれない気がした。