軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 ふたつめの箱

結婚式の日取りが、秋の収穫祭の翌日に決まった。

ユリウスがそう言ったのは三日前の朝、薬草茶のカップを置いたあとだった。「収穫祭の翌日でいい?」と聞いてきた声があまりに普通だったので、私は「ええ」と答えてから、なぜその日なのかを聞きそびれた。

聞きそびれたまま、もう三日が経っている。

朝の薬草園に出ると、ラベンダーがそろそろ盛りを過ぎる頃合いだった。花穂の先が白っぽくなっている。今のうちに切って乾燥させなければならない。籠を抱えて畝の間にしゃがむと、土の匂いがした。湿った匂いだ。昨夜の雨のせいで、ブーツの底に泥が固まって取れない。

ノートを開いた。

薬草園の記録をつけ始めたのは、ここに来て熱を出した後からだ。何もしていないと頭がおかしくなるから始めた習慣で、ラベンダー、カモミール、ローズマリー、それぞれの畝に何を植えたか、いつ摘んだか、乾燥にかけた日数を書き留めている。

ページをめくる。

先週分のラベンダーの欄に、私の字ではない字で何かが書き込まれていた。

——七日では足りない。十日。

右に少し傾いた、丸みのある字。ユリウスの字だ。

私は手を止めた。

いつ書き込んだのだろう。私が見ていない間に、書斎の机にこのノートを置いておいた時か。それとも私が薬草園で別の畝にいた時か。

書き込みは「七日では足りない。十日」だけで、署名も日付もない。私の記録の脇に、当たり前のように足されている。自分の字みたいに。

可愛くないと思った。

可愛くないというか、なんと言えばいいのか。可愛くないのに、可愛い。そういう感じだ。本人は何も言わない。私が気づかなければそれまでだ。気づいたら気づいたで、たぶん「乾燥日数の話だ」と平気な顔をする。

ノートを閉じて、立ち上がった。膝に泥がついていた。

朝食はもう済ませた。今日は屋根裏の整理をする予定だ。結婚式の前に、二階以上を一通り片付けたいとオットーが言っていた。お客様を泊める部屋を増やさなければ、と。

王都から父が来る。グレーフェンも招いた。リーザの両親も招待した。司祭の補佐に近隣の村から人が来る。意外と人を寝かせる場所がいるのだ、結婚式というものは。

私は結婚式というものに、ほとんど関わったことがない。

公爵令嬢として、人の式には何度も出た。社交儀礼として。でも自分のための準備というのは初めてで、何から手をつけていいのか分からない。オットーが「お任せください」と言ってくれるけれど、全部任せるのも違う気がする。

階段を上がる。二階の自分の部屋の前を通り過ぎ、廊下の突き当たりに細い梯子のような階段がある。屋根裏への階段だ。普段は誰も使わない。

オットーが先に上がっていた。

屋根裏は、思っていたより広かった。

天井は低い。立つと頭が梁に当たりそうだ。窓は東側に小さなものが一つあって、午前の光が斜めに差している。光の中に埃が舞っている。床板がところどころ軋んだ。

木箱が積まれていた。革の鞄、布で覆われた家具、丸めた絨毯。長い間動かされていないのが、覆いの布の埃の積もり方で分かる。

「奥のほうから順に、と思っております」

オットーが布を取り始めた。私も隣の箱に手を伸ばした。

「使わないものはどうするの」

「お焚き上げしてもよいものと、修繕すれば使えるものに分けます。坊ちゃまにお伺いを立てるものもございましょう」

「ユリウスは来ないの、屋根裏には」

オットーは少し手を止めた。

「……坊ちゃまは、長く屋根裏に上がっておいでではありません」

「埃のせい?」

「それも、ございますが」

オットーは布を畳みながら、少し言葉を選んでいる感じがした。

「奥の壁際に、奥様の遺品がそのまま置かれております。坊ちゃまは、おそらく」

奥様。

私は手を止めた。

ユリウスの母のことだ。

ここに来て半年以上が経つのに、ユリウスの母の話を一度も聞いたことがなかった。考えてみれば不思議だ。父の話は出る。先代の伯爵様、と呼ばれる人だ。領地経営に厳しかった人で、ユリウスが幼い頃に病で亡くなった。それは知っている。でも母の話は出てこなかった。

ユリウスが話さないから、私も聞かなかった。

「お母様は」

「坊ちゃまが六つの時に、お亡くなりになりました」

オットーの声は穏やかだった。

「お身体の弱い方で。坊ちゃまはお母様によく似ておいでです。お顔立ちも、お声も、それから——」

少し言葉が止まった。

「手紙を書く癖も」

埃の中で、何かが動いた気がした。

実際は何も動いていない。窓から差す光の中の、私自身の影が少し揺れただけだ。でも何かが動いた気がした。

「ご遺品は、二十年このままなのですか」

「先代様が、ご自分でお片付けになるとずっと仰っていて、結局なさらないまま。坊ちゃまも幼くて、その後はご病気のお身体で」

そう、と私は言った。

そう、しか言えなかった。

奥の壁際に、布をかけられた箱が三つ並んでいた。布の色が違う。一番大きな箱は紺色の布、その横が白、一番小さいのが緑だった。

オットーが紺の布を取った。

下から出てきたのは、衣装の入った箱だった。畳まれたドレスが何着か。色は褪せているけれど、布地は上等なものだとひと目で分かる。母様もこういうものを持っていたな、と思った。私の母も、若い頃のドレスを亡くなるまで取ってあった。

「お形見分けのものは、応接間の隣のお部屋へお運びいたしますね」

「ええ。指輪とか宝飾品はあるの」

「指輪が一つ。先代様が奥様にお贈りになったものでございます。今は坊ちゃまがお持ちです」

「ユリウスが」

「奥様がお亡くなりになる前に、坊ちゃまにお託しになりました。お前が大事にする人に、と」

私は紺色のドレスの袖に、知らずに触れていた。

布は柔らかかった。古い絹の手触りだ。ユリウスは六つだった。六つの子どもが、母から指輪を託された。お前が大事にする人にあげなさい、と言われた。

二十年。

二十年、ユリウスはあの指輪をどこかにしまっていたのだろう。

聞きそびれた、と思った。さっき結婚式の日取りのことも聞きそびれた。今日は聞きそびれることばかりだ。

白い布のかかった箱を開けた。

絵本と、子どもの服と、小さな木の人形が入っていた。ユリウスが赤ん坊だった頃のものだ。麻のシャツが小さい。これくらいの大きさのユリウスを、私は知らない。私が幼馴染と呼ばれているのは、父同士の付き合いで八歳の頃から手紙を交わしてきたからで、それより前のことは何も知らない。

絵本の表紙が擦り切れていた。何度も読まれた本だ。題名は鳥の絵本だった。

緑の布をかけられた一番小さな箱を、最後に開けた。

埃が少し多かった。布が古いせいで繊維が崩れかけている。指で押さえると粉のように崩れた。

中には、紙の束が入っていた。

それも、紐で括られた紙の束だった。

私は、見覚えがあると思った。

紐の括り方ではない。紙の角の擦り切れ方ではない。私が持っている十四年分の手紙の束と、束の厚みが似ていた。私が王都から馬車に積んできて、最初に鞄に入れたあの束と。

紐を解こうとして、止めた。

オットーが少し離れた場所で、別の箱を開けている。私の手元は見ていない。それでも、私はなぜか手を止めた。

紙の束を持ち上げた。

一番上の紙に、字があった。

——未送・S様

ユリウスの字だった。

右に少し傾いた、丸みのある字。さっきノートに書き込んでいたのと同じ字だ。でも、もっと若い。十代の終わりか、二十歳くらいの字。

未送。

S。

S様。

私はしばらく、その文字を見ていた。

シで始まる名前を、頭の中でいくつか試した。違う。それは私の名前ではない。私の名前はイレーネだ。Sが頭文字に来る名前ではない。

でも、ユリウスが「S様」と書く相手を、私はもう一人知らない。

知らないと、思いたい。

「お嬢様」

オットーの声で、私は紙の束を持ったまま振り返った。オットーは別の箱の前にしゃがんでいた。古い帳簿らしきものを開いている。

「こちらは旦那様——失礼、坊ちゃまのお祖父様の代の領地帳簿のようでして。書斎にお運びしてもよろしゅうございますか」

「ええ、お願い」

声が普通に出た。それが少し意外だった。

オットーが帳簿を抱えて梯子を降りていった。階下で何か言っている。きっとユリウスにだ。

私は、紐を解いた。

一番上の紙だけを取り出した。

紙の縁が黄ばんでいた。インクが少し滲んでいる。書かれていたのは、短い言葉だけだった。

あいたいです。

でも、手紙はかきません。

ぼくがかいてもいいことはないとおもうので。

署名はなかった。

日付だけが、紙の右下に書かれていた。

——八歳の春。

私の手の中で、紙が震えた。震えたのは紙ではない。紙を持っている私の指先だ。

八歳のユリウスが、私に書いた手紙だ。

書いたけれど、出さなかった手紙だ。

私が八歳の年に、ユリウスから届いた手紙のことは覚えている。最初の手紙だった。父に「エーレンベルク家の子息に見舞いの手紙を書きなさい」と言われて、私が先に書いた。返事が来た。「おてがみありがとう。ぼくはげんきです」と書いてあった。あの返事だ。

でも、これは、別の手紙だ。

返事をくれた手紙の前に、書こうとして書けなかった手紙が、ここにある。

私は紙を膝の上に置いた。

膝の上に置いてから、なぜ膝の上に置いたのか分からなくなった。机の上に置けばいいのに。立ち上がって階下に降りればいいのに。座り込んだまま、紙を膝の上に置いて、両手を膝の脇についていた。

光の中を埃が舞っていた。

しばらく、それを見ていた。

「お嬢様」

オットーが梯子の上に顔を出していた。私はいつから動いていなかったのだろう。光の角度が少し変わっている。

「坊ちゃまが、書斎で。お呼びでございます」

「……すぐ行く」

紙の束を抱えた。八歳の手紙だけを、上に置いて。残りは紐で括ったまま。重い。十四年分の重さだ。私が持ってきた束と、ほぼ同じ重さだった。

階段を降りる。

二階の廊下、自分の部屋の前を通った。机の上に十四年分の私の手紙が——いや、ユリウスが持っていた私の手紙は、ユリウスの書斎の引き出しだ。私の部屋にあるのは、ユリウスから届いた手紙のほうだ。

二つの束があるはずだった。

私が出した手紙と、ユリウスが返事をくれた手紙。

そこに、もう一つの束が増える。

ユリウスが書いて、出さなかった手紙。

書斎の扉の前で、私は一度立ち止まった。

扉の向こうに、ユリウスがいる。私が手に何を持っているかは、まだ知らない。

ノックして、入った。

ユリウスは机の前にいた。さっきオットーが運んできた古い帳簿を、開いている。横顔がこちらを向いた。

「祖父の代の薬草の取引先がここに——」

言いかけて、止まった。

私が抱えている紙の束を見ていた。

しばらく、何も言わなかった。

私も何も言わなかった。

ユリウスがゆっくり立ち上がった。杖を取らずに、机の縁に手をついて。視線は紙の束から動かない。

「……それ」

「屋根裏で」

「そうか」

それだけ言って、また黙った。

私は紙の束を机の上に置いた。一番上の、八歳の手紙が見えるように。

ユリウスの目が、紙を読んだ。読むまでもなく、自分が書いた紙だから知っているはずなのに、それでも読んでいた。読み終わってから、机に手をついたまま、低く息を吐いた。

「忘れていた」

「忘れていた?」

「いや。忘れていない」

ユリウスは、自分の言ったことを自分で訂正した。

「忘れていなかった。でも、もうあるかどうかは分からなくなっていた」

椅子の背に、左手をかけた。座るためではなく、支えるためだ。

「母の箱に入れていた。八歳の頃、書いて、出さなくて、捨てる場所が分からなくて。母が、亡くなった年だ」

机の上の紙を見たまま、ユリウスは続けた。

「母が、生きていた頃は、母にだけ話していた。君の手紙が来ると、母に読ませていた。母は元気がない日でも、君の話だけは聞いてくれた」

私は、何も言えなかった。

「母が亡くなって、話す相手がいなくなった。だから書いた。書いたけれど、出すと母が消えてしまう気がして、出せなかった」

理屈ではない、と私は思った。

理屈ではないのは、当たり前だ。八歳の子どもが、母を亡くした年に書いた手紙だ。理屈で説明できる場所にあるはずがない。

「最初の一通が、これ?」

「だと思う。順番には、束ねていない」

「いつまで」

ユリウスは少し考えた。

「二十二歳まで、書いた」

十四年分。

私が出した手紙と、同じ年数だった。

机を挟んで、私たちはしばらく立っていた。

ユリウスは座らなかった。私も座らなかった。窓の外で、リーザの声がした。誰かを追いかけている。「待って」と叫んでいる。誰かが「やだ」と笑っている。男の子の声だ。もう一人、別の子の声。

その声が遠ざかってから、ユリウスが言った。

「読まなくていい」

「……え?」

「全部、君に読ませなくていい」

私はユリウスの顔を見た。

少し困った顔をしていた。半年いて、何度も見てきた、あの少し困った顔だ。眠そうで、困っていて、笑っているのか考え事をしているのか分からない顔。

「読みたくないなら、焼いていい。母の箱に戻してもいい。読みたい一通だけ読んで、残りは捨てていい」

私は紙の束に手を置いた。

「読みたいわ」

言ってから、訂正した。

「読みたいんだと思う。読みたいかどうか、まだよく分からない。でも、捨てたくない」

ユリウスは黙った。

「ユリウスは、読まれたくない?」

「読まれたくない、というのとは違う」

「じゃあ、何」

ユリウスは、机に置いた紙のいちばん上の、八歳の手紙を、もう一度見た。

「八歳の僕が、二十三歳の君に読まれることに、二十三歳の僕は責任を取れない」

そういう言い方をする人だ、この人は。

笑いそうになった。笑わなかった。代わりに、紙の束を、両手で抱え直した。

「責任は私が取るわ」

「君が?」

「八歳のあなたから二十二歳のあなたに、私が代わりに読む。そのあいだのあなたに、二十三歳の私が会いに行く」

言ってから、自分でも何を言っているのか少し分からなくなった。でも、言いたいことはこれで合っている気がした。

ユリウスは、口の端だけが上がる、いつもの笑い方をした。

笑ったというより、頬の筋肉が動いた程度の動きだった。

書斎を出た。

紙の束は、私の部屋の机に置いた。私が王都から持ってきた手紙の束の隣に。

二つの束を並べると、思っていた通り、ほぼ同じ厚さだった。同じ十四年分の重さ。一つは私からユリウスへ、もう一つはユリウスから——名前が書かれていない誰かへ。たぶん私へ。

並べてから、私は窓の外を見た。

午後の光が斜めに入っていた。屋根裏で見たのと同じ光だ。光の道筋が違うだけで、同じ太陽の光だ。

リーザの声がまだ聞こえる。さっきの男の子と、別の女の子と、三人で何か遊んでいる。

聞きそびれたことが、まだある。

結婚式の日取りが、なぜ収穫祭の翌日なのか。

聞きに戻ろうかと思った。でもやめた。

たぶん、答えは、この束の中にある。

一通目から読めば、いつか出てくる。

そう思って、私は一番上の八歳の手紙を、もう一度手に取った。